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7月15日 期末考査2日目
今日の気温は30.4度。6月に、あれほど恋い焦がれていたカラッとした日差しも青空も、今は憎くて仕方がない。教室を出て校門をくぐるまでの間に汗が止まらなくなった。12時前で、太陽がかなり高い位置にある。
「あっちい……溶けるー。アイス食べていこうぜ。なあ、アイスゥゥゥ」
「もーっ、暑苦しいなあ! 彼女と帰れよ」
「あいつ家が逆なんだよぉ、無理、こんな暑い中送っていけない」
何だかんだ言いつつモテる登だが、こういうところが長続きしない原因なんだろうな。そんな失礼なことを思いながら、後ろからふらふらになってついてきているカズを振り返った。
「登がコンビニ寄りたいって。てか大丈夫か?」
「う……うんー……。昨日あんま寝れてなくて……」
小柄で、丸っこい眼鏡を掛けた同級生だ。真面目そうな顔立ちをしているが、そうでもなくて、俺たちの中で一番遅刻も早退も欠席も多い。一夜漬け常習犯だから、今日は寝ていないのだろう。まあ、諦めて勉強をしていない俺とは天と地ほどの差がある訳だが。
コンビニで登はバリバリくんのソーダ味を、カズは冷えペタを買っていた。
「あれ、アイス買わなかったの?」
バリバリくんの袋を開けながら登が尋ねてくる。冷えペタを額に貼ってご満悦のカズ大先生も首を傾げた。
「好きなやつがなかった。サクラレモンが食べたかったんだけど」
金欠なのだ。CDってなんであんなに高いんだろうな。そんな文句を垂れつつも、お小遣いをなんとかやりくりして買ってしまう。まあそんな話は置いておいて、サクラレモンがなかった今、無理をする必要もないだろうと思い、何も買わず出てきてしまった。
金欠覚悟で無理して買ったのは、最近出た、ゲームのサウンドトラックだ。このCDを出した「I」という作曲家の追っかけをしている。特に有名というわけではないが、異国と日本の民謡を混ぜ合わせたような音色が自分をどこか懐かしい気持ちにさせた。
夏の日差しを受けてぼうっとしていると、カズがぺらぺらと冷えペタを俺の目の前で揺らした。
「一つやろうか」
「マジか。めっちゃ嬉しい」
「バリバリくん一口いる?」
「もう残ってねえだろ」
カズからもらった冷えペタを、同じように額に貼ると、疲れ切った頭がすぅっとして生き返るような心地がした。
「やべ、やる気出てきたような気がする。うー……」
「錆のやる気は当てにならないからなあ」
カズが何か言っているが、聞こえないふり、聞こえないふり。
とりとめの無い話で盛り上がりつつ、再び歩き始める。
コンビニの角を曲がって真っ直ぐいくと、突き当たりに大きな鳥居があった。その奥には林が広がっていて、さらに奥へ進むと土をなだらかにしただけの古い山道に入ることになる。鳥居の前の分かれ道が俺たちの足を止めるポイントとなっていたが、今日は立ち止まることなく登と別れた。暑すぎたのだ。蝉の鳴き声が鳥居の奥からうるさく聞こえてきていた。俺とカズはそのまま寄り道することなく、真っ直ぐ歩いて行った。
カズの本名は宇良山一。家が近いから、休日はよくどちらかの家に集まってゲームをしていた。俺も大概だが、カズはそれに輪をかけて勉強にやる気が無いタイプだった。だから、
「錆、俺夏から塾行くことになった」
という、カズの口から出た言葉に、俺は金魚のように口をぱくぱくさせた。
今まで、頑なに塾へ行こうとしなかったカズが?
「……それマ?」
「マジよ。国立以外は行かせねえぞって親が。うち、兄弟多いから。でも今の成績ではとてもじゃないけどって言われてさあ」
俺は春にやった全国模試の結果を思い出した。あのときは平均より少し上だったが、あれから一つも勉強していない……もっと言えば、高二の秋からほとんど勉強していないため、今は平均より落ちているだろう。たぶん……カズと同じくらい。
「地元の大学ならあと250点以上は必要だって。そんなに伸ばせるかなあ」
「半年あればいけるだろ」
「言っとくけど、錆もやばいからな」
余計なお世話だ。
「ねえ、錆はどこ行きたいの」
「……」
カズに尋ねられ口をつぐむと、まだ決まってないんだな、と笑われた。嫌味な言い方ではなく、むしろ訳を知っている者の優しい口調だった。
「……決まってないならさ」
「うん」
「一緒んところ行かない?」
カズが遠慮がちに尋ねてくる。歩みが少し遅くなった。
「……考えとく」
俺はどこまでも頑なにダメ人間だった。しかし、カズは頷き「俺も受かるか分かんねえしな」と笑った。そして何事もなかったかのように、最近気になっているというアニメの話をし始めた。
家に帰り、今日も即刻冷蔵庫に向かう。しかし冷蔵庫の中に茶はなく、その代わりに沸かし立ての茶がコンロの上にあった。コップに氷を入れるため一番下の引き出しを開ける。すると、先ほど売り切れで諦めたサクラレモンが一つ、冷凍庫の中に入っていた。
「お兄ちゃん遅かったね」
同じくテスト期間中の妹、早苗がリビングから顔を出す。線の細い巻き毛が今日も元気に揺れた。勉強をしていたらしく、テーブルには数学のテキストとノートが広がっている。
「カズと喋ってた。このサクラレモンお前の?」
「ううん。おばあちゃんが買ってきてくれたんじゃないかな。私はもう食べたよ」
「んじゃ、いただく」
棚からスプーンを出して咥え、アイスの蓋を開ける。レモンのさっぱりとした甘い香りが広がった。まさに、これを求めていた。重くなっていた気分が、少しだけ軽くなった心地がした。
リビングは冷房がガンガン効いていて、寒いくらいだった。設定温度は23度。さすがに下げすぎじゃないかと思い、26度まで上げる。妹の向かい側の椅子に座り、持ってきたアイスをスプーンでつついた。大切に食べようと思ったが、堪えきれず大きな一口。甘い蜜で満たされたシャーベットに舌がとろけそうだった。
「あぁー! 生き返る」
「お兄ちゃん、最近おっさんみたい」
呆れたように早苗 が笑い、椅子につく。そして、シャーペンをくるくる回しながら言った。
「そういえばおばあちゃんが、今回のテスト悪かったら問答無用で厳しい家庭教師つけるって」
「またー?」
昨日も遅くまでゲームのカチカチ音がしていた、と指摘されどきりとする。
まあ、家庭教師をつけるという話は前からちょくちょく出ては消えていたため、今回も本気ではないだろうと高を括っていた。そんな俺の態度に、早苗がにやにやしながら頬杖をつく。
「そろそろやばいかもよ。どんな人が来るのか、楽しみだなあ」
兄じゃなければ思わずどきりとしてしまうような美しく愛らしい笑みだ。どうやら美人の母の血を受け継いだらしく、俺に似ず、早苗は西洋のお姫様のように綺麗な顔立ちをしていた。
「イケメンだったらいいなぁ」
「頭がいいイケメンなんて嫌味なだけだろ」
まだ家庭教師をつけるかどうかもはっきりしないのに、今からお茶淹れる練習しようかなんて言い出す始末。中学生と大学生の恋は禁断が過ぎるだろう。しかし俺は俺で、可愛い女子大生ならいいかなあなんて思ってしまった。
夜、自室に戻り、少しだけ散らばったゲーム類を引き出しに放り込んだ。そして、先ほど少しだけ見た英語のノートを机の上の本棚に立てかけた。代わりに数Bの問題集とノートを出し、机の上に広げる。範囲は……思ったより広いが、全部終わらせようとも思わなかった。
だらだらと勉強をして1時間。いつもよりやや強い睡魔に襲われた。……もういいや。まだ21時を過ぎたばかりだったが押し寄せてくる眠気に逆らえないし、そもそも、無理をしてでも頑張ろうという気持ちが今の俺の中にはない。
ノートと問題集を片付けることさえも面倒になって、机の上に放り出したまま、スプリングのベッドに横になった。そのまま、気絶するように眠りに落ちていった。
窓の外は、赤い満月だった。