8meas.再来(中編)
7月21日夜 担当アーマス
「……え、錆がいない? うん……うん、わかった。すぐに探しに行く。でも、錆が帰るかもしれないから、サナちゃんはハレルさんと一緒に家にいてね」
アイボリーは、深刻そうな顔とは裏腹に、穏やかな口調でそう電話口に応えた。
ヒュロスが蘇ったかもしれないという時に、一番狙われる可能性の高い錆が消えてしまった。それだけで俺たちの間に重苦しい空気が流れる。
電話を切って、アイボリーがモニカの方を見た。
「自転車でどこかに出かけたらしい。普段なら一言言って出て行くみたいなんだけど」
「自転車……ってことは、連れ去られたってわけではないんだね?」
モニカの言葉に、玄関から聞いていたパンジーが少しだけ肩を下げる。
彼女はこの数分間の間に顔を青くしたり赤くしたり、緑にさせたり、随分と忙しそうだ。普段から、その静けさ故に落ち着いているように見られてしまうが、実際はこの中で一番喜怒哀楽が激しい。……特に、錆のことになると酷い。
モニカが自分の携帯を開きゲートさんに連絡を入れようとしたが、その手をアイさんが止めた。
「待って。今は、モニカは錆よりも王国を優先して」
「でも……」
「でも、じゃない。錆のことは、俺たちが命を懸けて守るから」
アイさんが俺の方を向き、二人で大丈夫だよな、という視線を投げかけてくる。
もしも本当にヒュロスと対峙ようなことがあれば、全然大丈夫じゃないんだけど。でも、確かにモニカは、国を優先するべきだ。
モニカは、次の王になる者である。
俺たちが錆に命を懸けるように、モニカは王国に命を懸けなければならない。そこに他の命を優先するようなことがあってはならないのだ。
かつての惨劇を後悔している二人だから、モニカはすぐにアイさんの言葉を理解して頷いた。
……それでいい。王は時として、自分の感情を殺さなければならない。
「アーマス、錆を追えるね?」
「もちろん」
尋ねられ、俺は強く頷いた。
モニカは俺の素早い返答にやや驚き、それから、目を細めた。
「……頼もしいね。夜は空気が澄んでるから、昼よりも追いやすいと思う」
「余計なお世話」
俺たちの意見が固まるのを、パンジーはぽかんとしたまま見つめていた。たぶんこっちの話なんて聞こえておらず、錆がヒュロスに切り刻まれる最悪の事態を想像しているのだろう。
「パンジー、まだヒュロスが蘇ったって決まったわけじゃないからな」
「そうそう。学校に忘れ物を取りに行ってる可能性の方が高いんだから。パンジーは、このままモニカとオリオンを見てきて」
俺とアイさんに呼ばれ、彼女はやっと我に返った。彼女の紫色の髪が頼りなく跳ねる。こっちが冷静さを取り戻すくらい、動揺を隠し切れていない。
しかし、彼女もすぐに自分がいつも以上に動揺していることに気づいたのだろう。息を深く吸って、ヴィオラの入った、少し大きめの楽器ケースを抱きしめた。
「……分かりました。今の私が錆の元に行っても足手まといでしょうから。今回は音蟲の撃退に集中します。久しぶりのオケですし」
パンジーが素直に頷いたのを見て、アイさんは声を和らげた。
「パンジーの好きな『フィンランディア』じゃん。音蟲退治班の腕が鳴るな」
「みんながいないのが、少し寂しいですけど」
パンジーが何気なく言ったその「みんな」には、何人の、逝った者が数えられているのだろう。
音楽を奏でる度に、俺たちの足は死へ向かう。音蟲が王国を襲ったあの日、一度は見失いかけた「楽」という一文字。
「ほら、お守り」
忘れてるぞ、と俺が棚から取り出したのは、細い弦が一本入った茶封筒だった。
「ありがとう」
パンジーは大事そうにその茶封筒を胸に当てると、少し落ち着いた様子になり、立ち上がった。
☆
パンジーとモニカが楽器を抱えて出ていったあと、すぐに俺とアイさんも外に出た。
錆がいないことに気づいた早苗ちゃんがアイさんに電話をかけてきた。錆の自転車がないところを見ると、近所のコンビニに買い物……という訳ではないらしい。
時刻は20時半を過ぎたところ。家の明かりや電灯のおかげで 、まだ辺りは明るい。
モニカの言った通り、夜の空気は澄んでいて、錆の気配は追いやすかった。
「南のトンネルを通って、駅前に行ったらしいな」
「はあ? あいつ一体何しに……」
呟いてから、アイさんは思い出したように顔を顰めた。
「まさか、カズのところに行ったのか」
こんな時にあの王様は何をやってるんだか、と呆れるが、本人は自分が狙われていることを知らないんだから仕方ないか。
アイさんが駅前の方に向かって走り出したので、俺もそれに続く。
錆の家から住宅街を抜けて西に進んでいくと、トンネルがあった。学校の南側にあるから、生徒からは「南トンネル」と呼ばれている。
錆がまだヴァイオリンを習いに行っていた頃は、俺たちも、しょっちゅうこの道を通っていたものだ。
いつか、また一緒に音楽ができるかもしれなかった。
魔族としてじゃなくて、王様と臣下という形でもなくて、ただ、純粋に、仲間として。
そんな淡い期待と、
(もう、関わってはいけない……)
そんな、絶望にも似た諦め。
ヴァイオリンを手放す錆を止めることなど、できなかった。
駅前から、錆の気配は急に追いにくくなった。
いくら夜とはいえ、駅前は人気がある。人間にも、魔力と同じような「生きている気配」が働いていて、錆の気配を掻き消していく。
しかし、北のトンネルの方角に知った魔力が続いているのを確かに感じた。
そこでは、カズが同級生に絡まれていた。塾で知り合ったのだろう。
そして、電柱の蔭から錆が様子を窺っているようだった。
「アイさん、どうする」
「俺たちが逆に殴りこめば……」
ごくりと唾を飲み、頷く。
ちなみに、今の俺は赤髪に赤ジャージだ。見た目はよっぽど、彼らより俺の方が問題児。
アイさんはその点無難だ。ジーンズに黒いTシャツで、地味な大学生って感じの格好をしている。
「……と、その前に。あいつらが来てるぞ」
錆のものではない、魔力の強い気配が、ものすごいスピードでこちらに近づいてくるのを感じ、俺は身構えた。
「ノバ……」
俺とアイさんの目の前に現れた彼は、青い月を背に、にやりと笑った。