A meas.小さな幸運の秘密
「……一度くらい痛い目を見ていいんじゃない」
パンジーは努めて辛辣なことを言うが、どうも冷酷さに欠ける。あと一押ししたら、きっと錆のサポートモードに切り替わるだろう。
「あの馬鹿王、次、生物で赤点取ったら留年だぜ」
「生物は……西川先生だっけ。じゃあ慈悲はないね。ええっと……あと何分で終わる?」
アーマスは教室の時計に双眼鏡を移し、10分ちょい、と答えた。アーマスの予想通り、パンジーは溜息をつき、携帯を取り出した。
「非通知でかけてみるよ。どうせ一限は電源切り忘れてるでしょ」
「大胆だな」
「しょうもない理由で留年されたら困るからなあ……。もう一年やきもきしながら高校生活を見守るなんて死んでも嫌。アーマスは先生が近づいてきたタイミングで教えて」
「りょーかい」
パンジーが携帯を耳に当てる。どうやら繋がったらしい。顔を伏せていた錆がむくりと起き上がり、背筋を伸ばした。教壇に座っていた先生が、重い腰を上げて錆に近づいてくる。そのタイミングで制止の意味を込めて手を挙げると、パンジーは受話器を置いた。
「現社の上木が名前書かれてないことに気づいたらしい。ご丁寧に、みんなに注意してるよ」
「錆は命拾いをしたね。上木先生たら、普段無愛想で無口なくせに、こういうとき優しいの。好き」
「俺は西川くらい厳しくやってほしいけどな」
そう言いながら、アーマス自身も大概錆に甘いことを自覚していた。錆が再び問題用紙を開き、僅かに残った時間を使って見直しを始めるのを見届けると、一仕事終えたとレジャーシートに腰を下ろした。
お疲れ様、と言わんばかりに、パンジーがリュックの中からタッパーを取りだし、自前のクッキーを勧めてくれる。昔は少し歪な形をしていたものだが、今ではプロ並み……いや、プロ以上の出来前だ。そしてこの少女、自覚なしの世話焼きで、今も、俺がクッキーをサクサク食べていると、とても自然な流れで紅茶をそっと置いてくれた。もちろんこれも、喫茶店顔負けの美味さである。
相変わらず日差しは強いが、魔族である自分達にはまだまだどうってことない暑さだ。……今だから涼しい顔で優雅にお茶なんてしているが、いつ強い雨風が錆に吹きつけてもいいように、ほぼ一日中、彼の周りを監視……彼の平凡平和な高校生活を見守っていた。
午後の番のパンジーは、向こうから仕事を持ち込み、黙って鉛筆を走らせていた。
錆にこちらでの生活があるように、彼女にも魔族の国での生活があり、錆の面倒ばかり見ているわけにもいかない。一日中男子高校生なんかを監視して暇じゃないわけないだろう、と言われてしまいそうだが、一時の油断が、今は命取りなのだ。
少しでも目を離せば、錆の平凡平和な日常は崩れるだろう。
そればかりじゃない。下手をしたら、一瞬で体を八つ裂きにされてしまうかもしれない。
そんな危険が彼に迫っていたのだ。
訳あって、俺とパンジー、そして、今ここにはいないが、アイボリー・イールという男が錆の護衛を目的にして集まっていた。組織としての目標は、錆が人間として抱えきれるくらいの悲しみや喜びを経験しつつ、80歳くらいまで平凡平和に長生きすること。
「……アーマス、錆が友人2人とコンビニに入ったにもかかわらず、1人だけ何も買わずに出てきたよ」
午後4時。長い間黙って午後の番をしていたパンジーがぽつりと零し、レジャーシートの上でうたた寝していた俺を起こした。
「うお……お前、そっちにいたのか」
パンジーはいつの間にか、学校のある北方面から錆の通学路である西方面に移動していた。無意識なのだろうが、彼女は物事に集中していると、うっかり気配を消してしまう。
「結構前からいたけどなあ……。それより、錆が」
「ああ、あいつ今金欠だろ。折角アイさんが晴美さんに預けてる錆への小遣いを、そのアイさんのCDに使っちゃうんだから、可笑しいよなあ」
「やっぱり、心のどこかでアイさんの音を覚えてるんだろうねえ」
パンジーが切なくも優しい表情で目を細める。
しんみりした空気が嫌で、俺は寝返りを打ち、彼女に背を向けた。
「毎度毎度同じようなCDばっかり買いやがって。ラセットだって俺たちに未練タラタラじゃねえか」
「……アイさんの曲はどれも素敵だから」
諭すようにパンジーが言う。
確かにアイボリーの曲は良いと思うが、どうも優しすぎて生ぬるく、テンポの緩急も俺の肌には合わない。
「他にも良い曲いっぱい在るだろうに。錆の趣味を疑うぜ」
「悪かったな」
「うひやぁあ!!」
噂をすればなんとやら。俺の背後から聞こえてきたのは、まさに今しがた悪口を言っていたアイボリー・イールご本人……ではなく、彼を誰よりも崇拝し、過激派信者と恐れられているモーニング・グローリー……モニカの声だった。
別件で多忙を極める彼はほとんどこちらに顔を出さないが、こんな風に、突然やってきては俺たちを驚かせる。先ほど紹介し忘れていたが、彼も俺たちと同じく魔族であり、旧知の仲であり、欠かすことのできない存在だった。
俺は飛び起き、レジャーシートの隅に逃げた。アイボリーの前でアイボリーの悪口ならたくさん言えるが、モニカの前でアイボリーの悪口を言った暁には……一体どうなることやら。
モニカは天使のような顔にどす黒い笑みを浮かべている。矛盾だらけの状況描写だが、ここにいれば確実に殺られることだけは確かだ。
「ぱ、パンジー……、王様、何を欲しがってた?」
震える声で尋ねると、待ってましたと言わんばかりにパンジーがにこやかに答えた。
「サクラレモンを本当は食べたかったみたい」
「あいつ本当に好きだな!? 買ってきます」
早口で合点承知の意を示し、音の速さで階段を滑る。
「コンビニは売り切れみたい! 町のスーパーに同じのがあったよ!!」
後ろからパンジーの声が追ってくる。錆が帰る前に超特急で買ってきて、早苗ちゃんに預けよう。
何だかんだ言いつつ、俺たちは錆にとことん甘かった。