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よろしくお願いします
7月14日 期末考査1日目
心地よい眠りに身を預けていると、横に吊していた鞄の中で、低いバイブ音が鳴り始めた。
う゛ー、う゛ー、と呻くような音。
今まで教室をうるさくしていたシャープペンシルを走らせる音や咳、貧乏揺すりの音などが一斉に消え、この一音に教室中の神経が集中する。教壇でノートのチェックをしていた社会科の先生が立ち上がり、こちらにゆっくりと歩いてきた。周囲の者は、自分に白羽の矢が立てられぬよう俯き、俺もまた、知らない風を装った。
マナーモードにし忘れていた俺も悪いが、平日のこんな時間に学生に電話を掛けてくるなんて迷惑も甚だしい。
ああ、どこの誰か知らねえが、早く切ってくれ。祈るような気持ちで、携帯が鳴り止むのを待つ。
机の上に置かれた腕時計を確認すると、ラスト10分だった。先生が真ん前にやってきたタイミングで鞄の中は静かになった。普段の定期テストだから、先生もそれ以上は追求することなく横を通り過ぎる。
心の中で、両腕をいっぱいに広げセーフポーズをとる。すると、通り過ぎていった先生が何かに気がついたように後ろ歩きで戻ってきて、俺は再び背筋をぴんと伸ばした。先生は暫し自分の背後で立ち止まった後「お前ら、名前ちゃんと書いてるか確認しろよー」と大声で言って教壇の方へ帰っていった。
名前……?
答案用紙に視線を移すと、あろうことか名前を書くのを忘れていた。慌てて書いた「3-3ー8侘美錆」は少し歪んでいたが、書き直す程でもなかった。
先生の方をちらっと見ると、既に教壇に着いていて、再びノートに判子を押す作業に入っていた。
生物はほぼ問題集から。テスト前に内分泌腺とホルモンの関係くらい見ておけば良かったなあ、と思いつつぺらりと問題用紙をめくる。
アドレナリンは副腎髄質、インスリンはランゲルハンス島β細胞、チロキシンが甲状腺……俺が言えるのはここまで。「バソプレシン」の横の空欄は相変わらず埋まらないままだ。加えて、これらのホルモンがどのような働きをするかも覚えておかなければならないから厄介である。
免疫の問題では、相変わらず「キラーT細胞」が圧倒的存在感を纏っていた。このキラーT細胞は名前の通り、病気にかかったウイルスをキルするのだが、物騒なことこの上ない名前でちょっと覚えやすい。
残り10分弱。少しでも空欄を埋めようと試みたが、すぐに面倒くさくなり、握っていたシャーペンを机の上に転がせた。今期は窓際の席に行けなかったから、ぼんやり運動場を見ることもできない。もやもやした気持ちの行き場に困り、残り2分を指した時計の針を縋るように見つめる。
(……早く終わんねぇかな)
高校三年生になって、元々そんなにあった訳じゃないやる気が全てなくなったなんて、笑えない。将来が不安じゃないのか、と言われても、それより、過ぎ去った時間に対して不安を覚えてしまう。
何の延長線上に俺は立っているのだろうか。
無駄なことなんて何一つない?
言い返す気力も湧いてこない。そんな綺麗事が一番無駄である。
休み時間になり、一体どのような不届き者が電話を掛けてきたのか確認していると、2つ後ろの席に座っていた登がからかいにやってきた。
「電話、彼女から?」
「彼女いねーわ。嫌味か?」
数少ない友人の1人、上坂登は少し前に可愛い彼女ができたので調子に乗っている。ちょっと色気づいたのか、夏らしい青色のブレスレットなんかを嵌めて。この間までギャルゲーの話題で盛り上がってたくせに、この裏切り者、一気にリア充臭くなりやがった。
「非通知だよ。間違い電話かな」
「ラッキーじゃん。西川は名前なかったら0点扱いだぜ」
「あっぶねー……」
現社の上木先生に助けられた。今度こそマナーモードにして鞄の中に入れる。
そのとき「困るなあ」という弱気な声が少し離れた場所から聞こえてきた。登が俺の視線を辿っていき、呟いた。
「またかー……」
「……」
シャーペンを取られた被害者はへらへらと笑って「テスト受けれねえじゃん」と言う。
「あいつもへらへら笑ってないで、本気で怒ればいいのにな」
「そんなことしたら後が怖いんだろ」
怖いから、誰も助けられない。先生に相談したところで、本人が「いじめられていない」と言えばそこまでだ。冗談を積み上げた結果がこれだから、止めるタイミングもすっかり逃してしまっていた。
いつものことだ。苛める奴が悪い。傍観者はなにも悪くない。ただ、自分の身に火の粉が降りかからぬよう、目立たないよう、波風を立てぬよう、静かに日常を過ごすことに徹して、何が悪い。
大事な時期だ。巻き込まれるのは、勘弁、勘弁。……そうやって守った勉強漬けの毎日すら何のためのものなのか、既によく分からないのだが。
目的のない手段。
一体俺たち、何のために生きてるんだろう。
2時間目の数Ⅱは昨晩少し勉強してきたが、それでも半分埋まったくらいだった。そもそも数Ⅰがよく分かっていないのだから仕方ない。こちらは時間ぎりぎりまでかかってしまった。
明日のテストは現代文、化学基礎、英語の三時間だ。現代文はいいとして、化学基礎と英語は見ておいたほうがいいかなあと思いつつ寄り道をしてしまう。今日はゲーム情報誌の発売日だ。買って帰ると妹に告げ口される可能性が高くなるから、立ち読みで我慢。ぱらぱらとページをめくり、ライブ情報だけ確認してきた。
家に帰ると真っ先に台所へ行き、カラカラの喉を潤した。リビングでは妹がテレビを観ていて、声を掛けようと思ったが、好きな芸能人に夢中になっていたためやめておいた。今話かければ、確実に、一時間は彼のことを喋り続けるだろう。
サウナ状態の二階の自室へ戻り、冷房をつける。今年の夏の暑さは異常で、例年よりかなり高めだ。
部屋は一般男子高生の部屋と比べるとまあまあ整っている方だと思う。少し、神経質なのだ。
机に座り、30分だけ、とゲーム機を手に取る。聞き慣れたBGMに安心感を覚えるようにまでなってしまった。そしてお察しの通り、やめるタイミングが見つからず、窓の外が真っ暗になった頃、妹に呼ばれた。「お兄ちゃん、ご飯ー!」という高い声がいつものように二階に響いていた。