先輩には、いつも本気なんです
――樹先輩
どこかで名前を呼ぶ声がした。俺は次々と鳴るピアノの音色に包まれていて、気持ちよく演奏していたのだが、その凛とした声は音をかき分けて、俺の意識を現実へと引っ張り出した。
また名前を呼ばれた。今度はちょっと怒っている様子だ。声に気づいているのに演奏を続けようとしたことが、ばれてしまったのだろうか。
「ああ、わかったから。……どうした?」
「先輩。そろそろ六時ですよ」
六時。というのは、夕顔高校の生徒にとって部活の終了時刻を意味する。
でも俺たちにとってそれを伝えることは、「一緒に帰ろう」という二人の間のささやかな合図だった。
「今日は合奏上手くいったのか?」
ピアノの鍵盤を布で拭き、蓋を閉じながら聞いてみる。
「先輩、実はですね」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「今日は一度も間違なかったのですよ? 先輩と一緒に、日曜日に特訓したおかげですね。ほーんと、感謝しています」
俺はそりゃおめでとさんと言って、労うように目の前の少女の頭をぽんぽんと撫でた。
すると少女は気持ちよさそうに目を細めて、微笑んだ。
バイオリン四重奏の代わりとしてピアノで合わせて練習したのだけど、意外とうまくいったようだ。
彼女は小夜。近所に住んでいる幼馴染で、一個下の後輩にあたる。
昔から小動物のように俺のことを慕っていてくれて、何かの縁なのか、高校まで一緒になってしまった。中学三年生になってから、彼女の成績がぐんと伸びたのだ。あの頃も勉強がよく分かんないと泣きつかれて、よく俺が家庭教師したっけ。
改めて目の前の小夜を眺めてみる。彼女は後ろ手に鞄をもって、夕陽を背にこちらを見つめていた。
鞄にはお気に入りのリラックマがついていて、制服のリボンはきちんと結ばれていた。
黒髪は肩にかかるくらいの長さで揃っていて、そして夕焼けのせいか頬が少し赤く染まっていた。
「小夜って、いつも真剣な目してるよな」
不意に近づいてみて、瞳をのぞき込む。
あの頃――高校入試の直前、俺が勉強を教えたときもそうだった。真剣で、吸い込まれそうな瞳。そのときと、今もやはり同じ目をしていた。
まっすぐで、ひたむきで……何か、強い望みがあるような目。何を考えているんだろう。
そんな瞳ができることが、少し羨ましくもあった。
「欲しいんですか?」
急に言われて虚を突かれる。
「えっ? 何のこと?」
「目ですよ、じっと見つめてたから」
気づいたのだろうか。でも、欲しいとまでは思ったつもりはなかったけど。
「欲しい、って言ったらどうするの?」
冗談交じりに、問うてみた。
一瞬、目が合う。
数秒見つめ合っていたけど、それが何かおかしくてお互いに吹き出してしまった。
「あげませんよっ。冗談です。
ほら、そんなことより帰りましょ」
時計はもう六時を五分ほど過ぎていた。彼女はからかうようにそう言うと、猫のように逃げていってしまった。
「ちょっ、おい。待てって」
その後を、おいかけて、俺も音楽室を後にするのだった。
二人で並んで通学路を歩く。
部活動は五時半に終わるためこんな時間まで残っていた生徒は少なく、道は閑散としていた。ガードレールがついていたが、俺は車道側を歩いていた。
音楽部の他の生徒にはよくからかわれるが、俺と小夜は特に付き合っているわけではなかった。だから、ただ並んで歩いているだけ。幼いころから慣れた距離感だった。
「空、綺麗ですよね」
「ああ」
夕顔高校があるのは、県の郊外の田舎の土地だった。視界を遮る遮蔽物はなく、田んぼがずっと広がっている。収穫が終わった後のむき出しの土地で、田んぼも寒そうだった。雪が融けてできた水たまりが、夕焼けを映して赤く染まっていた。
「でも、やはり寒いな」
俺がそう言うと、小夜がうんと頷いた。
二人とも冬服のコートを上に羽織っているが、凍てつくような風は覆われていない頬や手に、痛いような冷たさを与えていた。
二人とも手袋を忘れていたのだった。俺はかじかんだ手を握り締めて、寒さを少しでも耐える。
「そういえば先輩、今日は何の日か知ってますか?」
小夜が少し前に出て、遮るように振り返って言った。
「えっと……は? 一週間後テストとか?」
とりあえず頭から出た答えがそれだった。
「ぶっぶー違いまーす。今日はバレンタインデーでした」
「あ、そうだっけ。」
曜日感覚がほとんどないから、そんなことは忘れてしまっていた。
いや、そんなこと? 少なくとも目の前にいる少女にとっては、些細なことではないらしかった。少し頬を膨らませて、責めるような視線を投げかけてくる。
「先輩、なーに忘れてるんですか。ばかばかばか」
小夜は横に並んで、なにかぶつぶつ言って口を尖らせていた。
一緒に歩いて帰っているけど、何か言いたげな様子だ。
「ごめんな、来年から受験生だから、ここ最近勉強ばっかしててさ」
詫びるように手をあわせる。別に忘れていたわけじゃなかった。なんとなくこの日常が当たり前すぎて、
特別な日の到来に鈍感になっていただけだった。
小夜はもしかして何か作ってきてくれたのだろうか。その予感に、ちょっと胸が高鳴る。
「先輩」
「んー?なんだ」
そう呟いた小夜は、思いつめたような表情をしていた。
「先輩がさっき言った、真剣な目っていうのですけどね。私、別にいつも真剣なわけじゃないんですよ? 授業中だって眠いし、体育だってサボっちゃうし、普段の私はぜーんぜん抜けてるんです」
「そ、そうなのか」
全く別の方向の話に、俺は虚を突かれる。彼女はなぜか少し早口で、そのまま話を続けた。
「えっと、それで何がいいたいかといますとね……えっと、……その、うまく言えないんですけど……」
彼女の声はだんだん小さくなって、途切れた。そして一瞬ぎこちないような挙動不審な動作をして、彼女は俺をまっすぐと見つめた。
そのまま、永遠の時が流れたかのように思えた。
「先輩には、いつも本気なんです」
彼女はそう、はっきりと告げた。
彼女の言葉に、夕暮れで彩られたこの世界が、急に鮮やかに変わったような気がした。
「だから、受け取ってください」
そして彼女はまっすぐと腕を突き出した。俺の目の前にあらわれたのは、小さな袋だった。可愛らしくラッピングしてあって、ほのかに甘い匂いが漂ってくる。
きっとチョコなのだろう。そうゆうことに疎い俺でも確信を持てた。
彼女はこっちを向いていなかった。その代わりに、赤く染まった頬だけが正面に向いている。恥ずかしすぎて、こちらを直視できないだろうか。それとも拒絶されるのが怖くて、こちらを直視できないのだろうか。
だから俺は彼女の手が震えだす前に、
その小さな袋を彼女の手ごとつかんだ。
「小夜、手が冷たいぞ」
彼女は一瞬目を見開いたが、状況がつかめるとすぐ身を寄せてきた。
俺は彼女の手をつかんだまま、そのまま歩く。
手袋のない手は、しだいに暖まるだろう。
俺たちはこのまま手を離さずに、帰路についた。
そのときの俺は、きっと真剣な目をしていたと思う。
そして、これからも。
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