パクリという批判
私は今でも新しい作品は生まれ続けていると思ってる。だが程度問題として今の漫画ラノベなどの物語は過去の生み出されたものの編集の結果だと思ってる。パクリと言うのがそもそも馬鹿馬鹿しいと思ってて、編集力こそが今の作家の面白さそのものだと思ってる。そもそもこれだけ多くの作品があるとすべて目を通してないと雑多な所からかき集めた編集作品は新鮮な刺激で溢れてる。
あまりに程度の低い丸々コピーでもない限り。他人の作品を参考にパーツの一つにするぐらいだとまず同じものになりようがない。つまらない批判をするんじゃなくて、もっと編集力を見て能力を測るべきじゃないか?と思う。同様に雑多な作品を編集して作ってもつまらない作家がいるならそこにはきちんと差が出来るという事になる。それは能力である。
ただ今の作品は編集的だとばっさり切りたくないのは、小さな小さなオリジナル要素が必ず出てくるから90%他の作品の寄せ集めでも10%その人のオリジナルならそれで十分だと私は思ってる。後の時代になるほど前の時代のものが邪魔になる。
そんな時代はつまらない。じゃ見方を変えて前の時代の物を利用しようとするべきだ。マイナスでしかなかったものがプラスになる。多くの人はそういった模倣を否定的に見る。過去の遺産の食い潰しだと。私はそうは思わない。今漫画ラノベで物語を作ってる作家は過去の作家にもっと怒りを持って良い。お前らのせいで俺達やる事が無い。
これは過去の遺産じゃない過去の負債だ。そんな負債に縛られてはいけない。逆に遺産にしてしまうベキなんだ。恵まれた世代じゃない全く逆呪われた世代だと私は言う。現実生きている生活の物資と違うんだ。そんなもの消えてなくなってしまっても生きるには困らない。先人に敬意など払う必要は無い。彼らはすべて今の作家の敵だ。
過去から作品の作り方は変わっては無い。新しいものが出来ていた時代も古典小説、映画ドラマなどからの物語の輸入とメディアにあった加工の歴史になる。割合が変わっただけに過ぎない。過去は6割他作品からの流用で4割オリジナル。その割合が変わっただけ。作家として既存の作品に対する編集能力の高さがむしろ問われるようになったのもあくまで割合に過ぎないと思う。
時代が後になればなるほどオリジナルの割合が下がってくるのは仕方ない。開拓すべきフロンティアがなくなるから。今手塚が生まれても過去の様な活躍は出来ないと私は断言できる。あれもこれも皆やりつくされてる。それよりそれらを利用した編集能力をむしろ評価すべき時代に来てるんじゃないか?と私は思ってる。
読者(受け手)としては作品が面白ければどうやって作ろうがどうでも良い。著作権に触れるような酷さじゃないとパクリだと目くじら立てて怒るほうがどうかしてる。横尾忠則のコラージュを見てパーツがパクリである事にイチイチ突っ込むか?となる。全体として纏め上げる力を誰もが認めてるんじゃないのか?誰かに説明して貰わないとこんな事も分からないのか?となる。
時代が変化したらどんどんそれに合わせて柔軟にものの見方を変えて行かないといけない。70年代や80年代と今は状況が違う。そういった古い時代に磨かれた評価眼みたいのは今どんどん変わっている。それを劣化と取るのか?私はそうは思わない。大衆創作は過去そういった歴史を積み重ねていて、漫画ラノベアニメの物語もそういった成熟の時代を迎えたに過ぎない。
口伝だった物語がやがて書籍化して、演劇、映画などで語られるようになり、漫画ゲームアニメなど新しい物語の伝え方が作られてそれらももう古典となってきた。状況に応じて柔軟に価値を見ていくことが重要で普遍的価値などあまり考えないほうが良い。
感情的な下らない言い争いばかりで全く深まらない話に、ほとほと嫌気が指した私がなんとかしようと書きはじめた妄想といえば妄想の話しばかりです。分かりにくいのは理解してますが、それでも一部なら分かってくれる人が居るんじゃないか?と思って書いています。パクリを肯定してるわけじゃないです。批判されるべきパクリについて時代にあってない言及が多いと思ってるから書きました。
作家への無批判な擁護に見えますが違います。一部の読者の偏った価値観が下らないと書いてるだけです。パクリで批判される作家はおそらく人気作家なんじゃないですかね?じゃ読者の大半は認めてるわけです。その人達が下らない世迷言に迷わされないように書いています。
私は感情は創作の評価でとても重要だと思っています。ただ感情に振り回された支離滅裂な理屈は聞いてられない。意味不明な言動を繰り返す私の方がよっぽど理性的だと思うのですけどね。同様な感情の人間同士の下らないシンパシーで伝わってるだけで理屈になって無いと思っています。共感ほど便利な理屈は無いですね。私はそういう理屈を作るのが不得意なので。