5話 赤竜
深い森。
樹齢千年を超える大樹が侵入者を拒むかのように生え、それらが森となり大陸を分断するように広がるその森を人間達は神の森と呼んでいる。
その森に隣接する形で広がる大高原。
果てすら無さそうに広がる高原の中心部にある湖。
赤い竜はその近くにある巨大な岩の上にいた。
広大な大地には数多くの生命が存在する。
存在はするのだがその湖を避暑地として利用する事は少ない。
賢い生命体はその湖を避け、遠くの川に行く。
原因は遠くに見える切り立った崖に歪に開けられた穴にある。
竜の巣。
この世界で最強だと言われる絶対強者の住処。
そこに二頭の飛竜の番が住み着いている。
弱肉強食のこの世界。
当然のように強者には強い縄張り意識がある。
無知なる者がその湖に迷い込もうものならば己の愚かさを身を以て知るだろう。
強者なる者がその湖に挑戦してもやはり己の愚かさを身を以て悟るだろう。
竜の鱗はあらゆる衝撃を吸収し、竜の爪はあらゆる物を引き裂く。
竜の歯はあらゆる鉱石を噛み砕き、竜の尻尾はあらゆる生命を薙ぎ払う。
竜には種類がある。
竜の中では最弱と言われる白い鱗を持つ草食竜。
その性格は比較的穏やかであり自分や仲間、卵を害さない限りその力を振るうことはない。
だがその実力は、倒そうと思えば人間10人以上の戦力、そして上質と称される武器や緻密に練られた戦略が必要となる。
単体でも強力なのに、彼らはその身を守るために群れで行動する。
もはやその強靭な肉体と数の暴力によって彼らに敵はいないとすら人間には言われている。
その群れを違う目で見ている者がいる。
竜の中でも最強と言われる飛竜種、翼を持つ空の王者。
赤い鱗を持つ赤竜。
竜には格というものがある。
大抵の場合、竜が孵化すると白い鱗の子竜になる。
子竜の鱗は基本的には父親の鱗の色に似るのだが、その鱗の色は自身の魔力に応じて成長と共に色を変えていく。
下位種と言えども竜は竜。 草食竜とて例外ではない。
ただ草食竜で鱗の色が変化する程の魔力を持った個体がいないだけである。
その中でも濃い赤という鱗を持つこの飛竜は上位種の中でもさらに上位という証明に他ならない。
狩りはつつがなく執り行われた。
高度から急襲し群れの中の一頭を掴み、持ち上げるだけ。
その際、脚に少々力を入れると獲物は動かなくなる。
ただそれだけの事。 最強とはそれだけで獲物を手に入れられるから最強なのだ。
同じ竜種だとて彼には関係ない。
なぜなら彼の仲間は成竜式で匂いを覚えた者達のみなのである。
その他の生命体は美味いか不味いか、という認識でしかない。
ただ子供が生まれてからは子供を狙う事はなくなった。
◆
今日の獲物を土産に巣に帰ると、妻の白竜が子供の前で悶えている。
理由を聞くとなんでも、この生後一ヶ月程の赤ん坊が喋ったのだそうだ。
「本当か?」
妻の子供への溺愛っぷりは凄まじいがここまで来ると流石に怖い。
我が子が生後2日で火を噴いた事は驚いた。
だが本来、竜種が炎を操れるようになるのは孵化してから5年は掛かるものなのである。
それを生後たったの2日で火を噴くなんて異常だ。
だが力が全てと言っても良い竜にとってその異常は歓迎すべき事であり、しかも愛する我が子が竜の王となる器と知れば母竜のこの喜び様は当然かも知れない。
しかし言葉は別だ。 知識は勿論だがそもそも竜の声帯は特殊だ。
咆哮は得意とするが言葉には致命的に向いてないのである。
なので会話をするには魔力で音の振動を変えるという繊細な魔力調整が必要となる。
慣れてしまえばなんの苦もなく調整可能だが慣れるまでが難しい。
遥か古の時代に空から伝えられたという言葉。
意思疎通の手段としてはこれ以上ない位の素晴らしいものだ。
竜同士の会話でも無くてはならない必須なものだろう。
自身も子竜の時、喋りたかったが成竜式までに一言二言喋るのがやっとだった。
妻なんて成竜式の頃は一言も喋られず暴力で会話していたぐらいだ。
大方、唸った程度の事を親の耳を通して喋った様に聞こえたのだろう。
あまり期待すると子供が可哀想だ。
育児を妻にばかり任せていた自身にも責任はあるが、そろそろ妻を叱るべき時が来たのかもしれない。
「あら? その顔は信じてないわね?」
「そ、そんな事は……ない。 信じているぞ」
妻の視線が怖い。
この目で見られるとやましい事が無くとも目を逸らしてしまう。
「坊や、もう一度喋ってくれる? お父さんが信じてないみたいなの」
「ピギャッ!」
小さく可愛い手を上げて返事する我が子。 今の反応で分かった。
この子はもう言葉を理解しており、それに対してどう行動すれば良いのか理解出来ているのだろう。
嬉しさの余り小躍りしたくなったが父の威厳を保つためになんとか踏み止まった。
今の成長が見れただけでも十分だ。 既に我が子は十分に王の器を見せてくれている。
一ヶ月程しかこの世にいないのに成長速度が凄まじい。
我々竜種はその寿命故に成長が遅い。
千年近くも生きる竜もいるのだ。
それにこの子の綺麗な黒い鱗。
生まれた時から鱗が黒く変色しているなどそうそうありはしない。
以前黒竜を見たことがある。 100年程前ではあったが、当時の成竜式に来ていた土竜の爺さんだ。
黄色の鱗が年齢と共に黒くなり黒竜になったのだそうだ。
どう見てもその鱗は煤汚れていて、その汚れで黒く見えてるのではないかと思ったが本人が喜んでいたのだからそれでいいだろう。
あの汚い鱗に比べ我が子の鱗はどうだろう。
こんなに綺麗な黒い鱗など見た事も聞いた事もない。
将来が楽しみで仕方がない。
この子が喋ろうとして喋れなかったとしても、それを責めるつもりは無い。
もう十分自慢の息子なのだから。
さぁ、喋ってごらん。 我が子よ。
どんな結果であっても努力は褒めてあげよう。
我が子が息を吸う。
一旦口の中に空気を止め、ゆっくりと息を吐くように言葉を紡ぐ。
「ア……アー……」
「聞いた!? 喋ったわよ!?」
「あぁ、喋ったな。 これは驚いた」
この程度だと想像していたが嬉しそうな妻の声を聞いているとこちらも嬉しくなる。
父親の幸せ。 こんな気持ちにさせてくれるこの家族は俺が守らないとな。
すると不意に声が響いた。
「ワレワレハウチュウジンダ」
竜の巣に二頭の竜の歓喜する咆哮が響き渡った。