あなたは、何処ですか?
片岡美緒という名の彼女は、高橋斗真という完璧な彼氏がいるらしい。
けれど、彼女はその彼氏のことを「伊藤さん」と呼び続けているというのだ。
彼氏曰く、彼女はどうも最近立て続けに不幸なことが起きて、記憶障害に陥ってしまっているという。
どうか彼女の記憶が戻るまでそれに付き合ってほしい。
彼女が病院から戻る前、全生徒にそう説明したと教師から聞いた。
彼女想いの素晴らしい恋人だ。
だが、俺はその名字に心当たりがある。
俺は最近まで酷い怪我をして入院していた。
一時は危なかったらしいが、何とか持ちこたえ奇跡的に目を覚ました。
今はリハビリも終え普通に生活しているが、通っていた学校は単位が足りず退学せざる負えなかった。
入院する前は学校に行っていた俺は、特に友達も居らず、本当に授業を受けるだけのつまらない日常を送っていた。
それでも、入院する少し前、俺はある少女に出会っていた。
自分のことを片岡美緒と名乗った彼女は、俺に会うといつも嬉しそうに名前を呼んだ。
「伊藤さん」、と。
「伊藤だ。近寄ると危ないぜ」
「うわ、伊藤だ。朝から嫌なもん見た」
「伊藤って、何でまだ学校いれるの?」
俺が歩く度に聞こえる陰口。
あえてなのかそうではないのか知らないが、俺に聞こえるように囁かれるそれを聞いて俺は溜め息を吐いた。
俺は、悪人顔らしい。
その上最悪なことに人見知りだった。
その2つが合わさるとどうなるか。
何故か喧嘩もしたことのない俺が「ヤンキーの伊藤」になっていた。
恐らく誰かに、普通に眺めていた他校の生徒に「ガンをつけられた」とあらぬ誤解を被り絡まれたのを見られたのだろう。
あの時は誰も助けてくれなかったため、全力で逃げた。
それなのに、次の日学校に行くと只でさえ嫌煙されていた俺は「学校一喧嘩の強い、怒らせると生きて帰れる者はいないと知られる伊藤隆也」と囁かれる羽目になっていた。
やっと全て終わった授業に、俺は足早に学校を出た。
俺がいるだけで妙に緊張した空気になる教室になんか、いつまでも滞在していたくはない。
俺は目がいい。
学校を出た俺はいつもの帰り道に通らなければならない先に、たむろしている他校の生徒がいるのが見えた。
俺は気付いた瞬間方向転換をして、遠回りして帰ることにした。
度々こうゆうことがあると、この道を通る。
絡まれるくらいならば、時間がかかっても無事に帰れる方がいいに決まっている。
俺は本日何度目かの溜め息を吐いて歩いていた。
もう一度言おう。
俺は目がいい。
少し先の公園のベンチに座っている自分と同じ高校の制服を着た女子がぽろぽろと涙を溢しているのが見えるくらいには。
暫く考えていたが、俺には関係ないと公園の前を通りすぎた。
しかし、3メートル程過ぎたところで足が止まる。
いや、俺が行ったところで逃げられるのがオチだ。分かっている。
それならば、俺に会ったことでその悲しみを嫌悪に変えて、涙をなくすことは出来ないだろうか。
自分のひねくれた考えに鼻で笑いながらも、俺は女子に近付いた。
あと数歩というところで、やっと彼女は俺に気付いた。
けれど、いつまでも逃げない彼女に、目の前まで来てしまった俺は戸惑った。
逃げない場合のことを考えていなかった。
俺は苦し紛れに「…………おい」と声をかけた。
すると、「なんでしょう」と彼女はきょとんとした顔で俺に聞いた。
いや、なんでしょうって。逃げろよ。
それでも、彼女の涙が消えていたことに安堵しながら、思っていたことを口にした。
「……何で、泣いてるんだ」
自分でも怖い顔をしているだろうというのが分かる。
それなのに、彼女はそれをおくびにも出さず、再び悲しそうな顔をして目を伏せた。
「……今日返ってきた自分の酷すぎるテストの点に、嘆いていました」
28点だったんです。
ぽつりと呟いた言葉に暫く理解が出来なかった。
「……………………は?」
「だから、自分の頭の悪さが情けなくて泣いてたんです!最後まで言わせないで下さい!このあんぽんたん!」
あんぽんたん……と唖然とした俺に、どうせ馬鹿だって思ってるんでしょう!ええ、ええ、そうですよ、馬鹿ですよ!馬鹿にすればいいでしょおおおお!と彼女は再び泣き始めた。
俺は遠い目をしながら思った。
いや、今日返ってきたテストって、サービス問題かってくらい簡単じゃなかったか?
こいつは馬鹿なんだろうと再び彼女に目線をやると、「その目!馬鹿にしているでしょう!」とこちらを睨んできた。
いや、馬鹿にしろって言ったじゃねえか。
「私にこんな恥ずかしい思いをさせて、ただでは帰しません!貴方の名前を教えていくのです!さあ、早く!」
なんて横暴なやつなんだ。
今までにない絡まれ方にたじろぎながらも、とりあえず彼女の言う通りにした。
「伊藤、隆也」
「伊藤さんですね!分かりました。私に恥をかかせたにっくき相手として私の中に刻み込んでおきます!覚えておくことです!」
きりっと決め台詞のように締めた彼女に、少し興味が湧いた。
俺に対等に関わろうとするやつなんて、こいつだけなのかもしれない。
そう思うと、言わずにはいられなかった。
「あー…、その、よ。お前が、嫌じゃなかったら、俺が教えてやろうか?」
言うだけならタダなはずだ。
断られることになるだろうが、今日のことは忘れないだろう。
久し振りにいい気分で帰れそうだ。
そんな風に考えていた俺に、彼女は目を輝かせて言った。
「そうしていただけると助かります!神様っているんですね!あ、自己紹介もせず失礼しました。私、片岡美緒と言います。これからお願いしますね、伊藤さん!」
驚きで目を見開いた俺に、彼女はにっこりと笑った。
次の日から、学校が終わったら近くの図書館で勉強しようということになった。
今回のテストは簡単すぎるがゆえに、30点以下の者は補習を行うことになっていたらしい。
補習等というものに縁がなかった俺は、彼女に教えられ初めて知った。
彼女は「何でそんな金髪なのに頭いいんですか」と不満を垂れ流していたが。それ、金髪関係ないだろ。
また、彼女と話しているうちに、幼なじみの「斗真」という人物がいるということを知った。
いつもはその斗真に教えてもらっていたのだそうだが、簡単なテストだから今回は自分でやってみようということになり、挑んだ結果がこれで顔向けが出来ないと頭を抱えていたらしい。
そこに現れたのが俺で「本当に神様が現れたのかと思いました」と真面目な顔をして言う彼女に、不覚にも笑ってしまった。
「伊藤さんの笑った顔、初めて見ました!いつもの懐かない犬みたいな顔も面白いですけど、それよりこっちの方が私は好きですよ!」
犬って、と反論しそうになったが、俺は顔を見られたくなくて「……そうかよ」と呟くだけに留めておいた。
きっと、その時の俺の顔は真っ赤になっていただろうから。
教えていくうちに、彼女のミスの癖が分かってきた。
彼女は少し思い込みが強いようで、勘違いをしているだけなのだ。
それを指摘し改善すると、すらすらと問題が解けるようになった。
「い、伊藤さん、貴方、本当に神様ですか……?馬鹿な私がこんなに簡単に問題を解けるなんて、夢じゃないですよね?」
わなわなと震える彼女がおかしくて、にやける口元が抑えられなかった。
自然とそのまま、彼女の頭に手をのせた。
「お前が頑張ったからだろ。凄いな」
すると、彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていって、半開きにしていた口から「い、」という声が出ていた。
「伊藤さんのタラシ!天然!百戦錬磨ああああ!」
叫びながらトイレの方へ向かっていった彼女に、周りはこちらを迷惑そうに睨んできた。
けれど、俺はそれどころではなくて、顔を腕で覆っていた。
にやける口元を隠すように。
「あー…くそ、可愛いじゃねえか、この野郎」
彼女が逃げてくれてよかった。
そうでなければ、きっと俺が逃げていただろうから。
「すみません、取り乱しました…」とすごすごと戻ってきた彼女に、俺は笑いそうになるのを堪えるのに必死だった。
「いいいいい伊藤さん!聞いてください!補習の結果、なんと92点でした!過去最高です!本当にありがとうございました!!」
嬉しそうに報告してきた彼女に、俺は頷きながらも笑顔にはなれなかった。
補習が終わったということは、彼女との勉強する時間も終わってしまったということだ。
認めよう。俺は、彼女と過ごすあの時間が何よりも好きだったのだ。
いや、俺が好きだったのは。
「また、学校で会っても話してくださいね。本当にありがとうございました。それでは!」
俺はただ、にこやかに手を振る彼女を見つめていた。
その後、彼女とは学校で会うことはなかった。
クラスが多い為か、見かけることもないのだから、学校の広さが恨めしい。
全クラスを見て回ろうかと思案していた俺は、はっと気付いた。
俺は何を期待しているのだろう。
俺なんかが学校で声をかけたところで、彼女が嬉しがる訳なんてない。
きっと彼女も流石に知っているだろう。
俺があの「伊藤」だということを。
このまま、彼女に関わらない方がいいのだ。
そう決意した途端に現れるのだから、神様はなんて意地の悪いやつなんだろう。
無意識に彼女を目で追っていた俺は、彼女が人気のない校舎の裏への道を進んでいることに気付いた。
なんで、そんなところに?
気になった俺は、結局彼女を追いかけてしまった。
「…こんなとこで、何してんだ」
「わっ!」
驚いて振り向いた彼女から目を逸らしながら「斗真が、心配すんじゃないのか」と今考えた言い訳を口にする。
口にしてから、強ち間違ってないな、と思った。
どうも彼女の話を聞いていたら、斗真という人物は彼女に対して過保護なところがあるように感じた。
こんな人気のない場所に来て、彼が心配しないはずがない。
俺が言った言葉に微妙な微笑みを浮かべながら彼女は近くの木の根元へ座る。
「あ、あー…斗真。確かに、そうかもしれないですね。でも、これだけは譲れません。………誰にも言ったことはないんですが、ここは私のストレス発散場所なんです」
どうぞ、隣に座ってください、という彼女の言葉に甘えて少し間隔をあけて隣に座る。
「斗真は、よく人に注目されるんです。それは仕方のないことです。斗真程の完璧な人間を私も見たことがありませんから。ですが、同時に斗真と一緒にいる私も注目されるんです。私はただの平凡な人間です。注目されるのは、おかしいのです。それに、注目されるのは、慣れないのです。私はその状況にどんどんとストレスが溜まっていきました。でも、その気持ちを誰かに押し付けるのは、少し違いますよね。だから、私はここに来るんです。つまり、治まらない嫌な気持ちを解消するための、私の秘密の場所なんです」
「……それを、俺に言ってよかったのか?」
勝手に着いてきた分際で何を言っているんだと自分でも思うが、他に誤魔化しようはあったのではないだろうか。
俺がそう聞くと、遠くを眺めていた彼女は俺の方を向き歯を見せて笑った。
「いいんです!伊藤さんは特別ですから!」
その言葉が、どれだけ俺を嬉しがらせるか、お前は知らないんだろうな。
笑顔の彼女に、俺は自然と頬が緩むのを感じていた。
チャイムの音が聞こえ、「授業が始まりますね。それでは」と立ち上がった彼女に慌てて声をかけた。
「あ、明日も、来てもいいか…?」
きょとんとした彼女を見て、やってしまったと後悔していると、「はい!」と元気のよい返事が返ってきた。
「それでは、また明日会いましょう!」
にこやかに手を振る彼女に、俺は今度こそ笑顔で手を挙げて返すことができたのだった。
「伊藤さんって、喧嘩がお強い割に、喧嘩しているところを見たことがありませんね」
あれから毎日、休憩になるとここへ来ていた俺は彼女の言葉に驚き、喉に米を詰まらせた。
噎せる俺に「お、お水、お水をどうぞ!」とペットボトルを差し出してきた。
「な、なん、知ってたのか?!」
初めから態度の変わらない彼女に、もしかしたら知らないのかもしれないと思っていた俺は淡い期待を抱いていたのだが、知っていたら知っていたで驚くものだ。
「え、ああ、はい。初めて会ったときは知りませんでしたが、次に会うまでには、伊藤さんがあの伊藤さんだと分かっていましたよ」
「じゃあ、何で今まで逃げなかったんだよ。俺はあの「伊藤」だぞ?!」
俺がそう言うと、彼女はむっと不機嫌な表情をした。
「伊藤さんは、伊藤さんです。例えあの伊藤さんだとしても、私の知っている伊藤さんは、今目の前にいる優しい伊藤さんだけですから」
どんな殺し文句だよ、それ。
「……は、俺なんかにそんな言葉いってくれるやつがいるなんてな。生きてりゃいいことあるもんだな。いつ死んでもいいって思ってたけど、これじゃ」
「ダメです!」
話を遮られてつい下を向いていた顔を上げると、ぎょっと身体を反らしてしまった。
怒った表情の彼女の目に、涙が溜まっていたから。
とうとう一粒ぽろりと滴が落ちて、彼女は目を擦った。
「い、伊藤さんは、伊藤さんです!死んだら伊藤さんの代わりはいません!何で自分を貶すようなことを言うんですか!私は嫌です!伊藤さんの悪口も、伊藤さんが伊藤さんを悪く言うのも!死んだら、化けて出てやりますからね!」
いや、どっちかっていうと死んだら化けて出るのは俺の方だろ、と笑いながら言うと、「何笑ってるんですか!」と彼女は更に怒った。
俺は謝りながらもやっぱり笑った。
だって、笑っていなきゃ、泣いちまいそうだったから。
「い、伊藤さん、話があります。最初に会った公園で待っていてくれませんか?」
一月程通った校舎の裏で、彼女は珍しく目を逸らしながらそんなことを言った。
俺は特に考えることなく、「分かった」と返答した。
「必ず!行きますから!待っていてくださいね!」
そう言って駆けていった彼女を引き留めておけばよかったと、何度思ったことだろう。
何の話だろうと考えながら待っていたのだが、結局深夜になっても彼女は現れなかった。
次の日、廊下を歩いている彼女を引き留め、「おい、お前。昨日わざわざ俺が待ってたのに何で来なかったんだよ」と少し責める口調で問うた。
すると、彼女はいつものきょとんとした顔で信じられない一言を告げた。
「あなたは、誰ですか?」
彼女は、俺のことを忘れていた。
きっと、天罰が下ったのだろう。
俺みたいなやつが彼女と一緒にいたいと烏滸がましい考えを持ったから。
だけど、彼女の隣が心地よくて、離れ難くて、また感じていたくて、どうしようもなく彼女を焦がれてしまった。
俺は彼女を呼び出すと、「お前、俺を忘れたって、本当か?」と訊ねた。
わざわざそんなことを聞くために呼び出した訳ではないけれど、素直に言葉に出せる性分なら、今俺に友達がいない状況にはならなかっただろう。
黙ったままの彼女に焦ってしまい「どうなんだ」と催促するように問いかけてしまった。
彼女は、「はい」と俺の方を見つめて言った。
俺は眉がひくついているのを感じながら、それならば、もう彼女には関わらないでいよう。と考えて、そうか、と踵を返そうとした。
「伊藤さん、あなた、薄いと思ったら眉毛も金髪なのですね。もしかして、地毛ですか?」
俺の毛色に気付いた彼女は、そんなことを聞いてきた。
俺は前にもそんなことを聞かれたような気がするな、と考えて「…そうだよ、悪いかよ」とぶっきらぼうに答えた。
すると、彼女は暫く考えたあと、ぽろっと呟いた。
「懐かない犬みたいですね」
俺は目を見開いて彼女を見た。
この台詞。
「2回目だ、それ」
彼女は、え?と聞き返した。
俺は何故かそれが少し恥ずかしくて、目を逸らしながら「さっきの台詞、2回目」と小さく呟いた。
機嫌が悪いと思われたのか、彼女は頭を下げながら「それは大変失礼致しました」と言った。
俺は、「別にいい」と彼女を見ないようにそこを後にした。
こそこそとこちらを見ながら囁きあう周りのやつらには構わず、俺は校舎の裏へ向かった。
木の根元へ座ると、俺は身体をこれ以上出来ないくらいに丸めた。
そうしないと、叫びだしてしまいそうだった。
「……片岡、美緒……!」
彼女は変わらない。変わっていない。
俺はそれが無性に嬉しかった。
もしかしたら、また俺を受け止めてくれるかもしれない。
そんな淡い期待に胸が膨らんでいった。
翌日、もしかしたらと向かった校舎の裏で、彼女と会った。
胸を高鳴らせながら、しかし、それを彼女に知られないように近付いた。
気付いた彼女は、「どうしたのですか?」と不思議そうに訊ねた。
「それはこっちの台詞だ」
彼女は、ストレス発散の為にここへ来ると言っていた。何か嫌なことでもあったのだろうか?
「お前は、以前来たとき、嫌な気持ちが治まらない時はここに来るんだと言っていた。何か嫌なことでもあったんだろう?」
知っている俺に驚いたのか目を丸くした彼女に、心配になった俺は何か出来ることはないかと考えを巡らした。
「……何なら、聞いてやってもいいけど」
俺なんかに話すとは思っていなかったが、もしかしたらということもある。
だが、彼女は微笑んでそれを断った。
「…ありがとう、ございます。でも、大丈夫です」
そうは言ったが、そのあと考え込む彼女は、大丈夫そうには見えなかった。
もしかして、あの過保護な斗真と何かあったのではないだろうか。
「……お前、本当に大丈夫か?前言ってたあいつのことで嫌なことがあったんじゃないのか」
俺の言葉は昼休憩の終わりを告げるチャイムと被ってしまい、最後までは聞こえなかったようだ。
「え?」と聞き返す彼女に、「…いや、いい。早く行けよ」と教室へ向かうよう促す。
俺のことを心配する彼女に、「俺はいい。聞かなくても分かるから」と答え、寝転がった。
駆けていく彼女を見つめながら、俺は自分の感情がどんどん大きくなっていくのに気付いた。
「…邪魔だな」
こんな感情、消えちまえばいいのに。
「全部、嘘?!」
何故そういう疑問が生まれたのかは謎だが、本当に噂のようなことをしているのかと聞いてきた彼女に本当のことを言った。
きっと他のやつなら信じないだろうそれを、彼女はすんなりと信じた。
暫く口をあけていた彼女は、いきなり表情を険しくした。
「どうして伊藤さんは、誤解を解かないんですか!」
「誤解を解く前にあいつら逃げやがるし、俺は人見知りで睨んじまうから、出来なかったんだよ。それに、俺なんか、居ても居なくてもどっちでもいいだろ。お前にも、忘れちまわれたときは、ああ、やっぱりなって思ったんだ」
言い訳をしている俺に、左頬へ衝撃が走った。
彼女の方を見ると、俺に平手打ちしたのだと分かった。
少し痛かったけれど、それよりも、彼女の方が痛そうな顔をしていた。
「…また泣いてんのかよ。2回目だぞ」
俺は何回彼女の泣く姿を見ているのだろうか。
その度に愛しくなるのは、何故なのだろう。
溢れる涙を拭いながら、自分の馬鹿さに笑ってしまった。
去っていく彼女を見送ると、俺はいつからか隠れていた存在に話しかけた。
「おい、出てこいよ。お前、斗真ってやつじゃないのか」
すると、すらりとした姿見の整った顔をした男子が出てきた。
きっと、あいつの後でも追っていたに違いない。
睨む俺に斗真は無表情で「単刀直入に言う」と一言告げた。
「もう美緒に近付くな」
「はっ、やだね。何であんたにそんなこと指図されなくちゃいけねえんだ」
「……本当は、高橋の権力を使って追い出したいところだけど、君はあの「伊藤」だからね。本当に面倒くさい」
高橋とはテレビでも流れるような有名企業だ。
こいつは金持ちで何でも持っていて、本当に完璧なやつだ。
だが、俺にはこいつより上だと言えるものがある。
それは、親の存在だ。
高橋が日本規模で一番だと言えるのならば、俺の、「伊藤」の規模は世界一だ。
この学校ではこいつぐらいしか知らないだろうが、少し外へ出れば俺は「伊藤」の看板を背負うことになるだろう。
「………今日の19時、学校で会おう。そこで、話し合わないかい」
相当焦っているらしい。
俺は少し嫌な予感がしたけれど、ここで頷かないとこいつは引かないだろうと思い、「分かった」と答えた。
夜の7時、俺は学校にいた。
暗くなるのが早くなるこの時期、この時間はすでに深夜のような闇が広がっていた。
俺は教室を回って、ある机に近付いた。
教室の後ろに貼ってある席順の張り紙に書いてある「片岡」の机だ。
俺はその机の前に立ち、どうしても言えなかった言葉を口にした。
「好きだ」
「見苦しいね。本人のいない机に告白するなんて」
そう言って近付いてきた存在を睨む。
月明かりに照らされて出てきたのは、笑みを浮かべた斗真だった。
「どっちが見苦しいんだか。気付いてないのか?お前も相当見苦しいぞ。今まで美緒に近付いてきた男を潰してきたやつが」
「伊藤を使って調べたのかい?そうだよ、見苦しい男だよ、僕は。こうでもしないと、美緒はすぐにどこかへ行ってしまうからね。籠の出口は狭ければ狭いほど、飼い主は安心するものだろう?」
「……最低だな」
微笑む斗真に気持ち悪さを感じながら、警戒していると、どこからかぺたぺたという足音が聞こえてきた。
俺は廊下を見ようと斗真に背を向けた。
「馬鹿だねえ」
後ろを振り向こうとした俺は、背中が熱いことに違和感をもった。力が抜けて、崩れ落ちる。
「…お、まえ」
「君には、ここで退場してもらうよ」
だんだんと霞む意識の中で、あいつの悲鳴を聞いた気がした。
目が覚めた俺に医師は奇跡だと感動していた。
相当危なかったらしい。
俺にあとを継いでもらわなければならなかった両親も、泣いて喜んでいた。
学校に行った俺は、長い時間眠り過ぎていたため、留年、もしくは退学をしなければならないと教師に告げられ、学校に未練はなかった俺は、退学という形で学校を去ることを決めた。
「最後に、聞きたいことがあるのですが」
「何かな」
「片岡美緒という生徒は、どうなりましたか」
彼女は、再び記憶をなくした。
以前は俺だけだったものが、今度は俺以外を忘れた。
けれど、彼女は斗真を「伊藤さん」だと信じている。
斗真は彼女が他に目を向けない限り、彼女に害は与えないだろう。
こんな形の「愛」でも、彼女が幸せなのであれば、俺はそれでいい。
それでも、もし、彼女が。
少し変わった景色を眺めながら歩道を歩く。
気付くと、俺はあの公園の前にいた。
ベンチに目を向けると、女性が1人、座っていた。
俺は彼女に近付くと、声をかけた。
「…………おい」
「なんでしょう」
やっぱり口下手な俺はぶっきらぼうに呟いたけれど、彼女は気にせず返事をした。
「……何で、泣いてるんだ」
ぽろぽろと涙を溢す彼女は表情を変えないまま答えた。
「……人を、探しているのです。ここに来れば分かると、何故かそう思ったんです。太陽に反射してキラキラ輝く、あの金髪の少年に、会いたいのです。会って、好きだと、伝えなくてはいけないのです。分かっていたんです。あの人は、「伊藤さん」じゃないって。伊藤さんは、別の方でしょう。けれど、どこにいるのでしょう。私は、あなたに会いたいのです。ああ、伊藤さん、あなたは」
俺は、彼女に手を伸ばした。
「あなたは、何処ですか?」
泣いている彼女を、俺は強く抱き締めた。
それでも、もし、彼女が、俺を求めてくれるのなら。
俺はもう、彼女を手離しはしないだろう。




