土の中
穴を掘った、人が丸ごと入れるような深い穴だ。
俺はスコップを放り出し、地面に横たわった愛犬の遺骸を、其の中にそっと据えた。すべてが淡々と流れる水の中での出来事のように澱みがなかった。閼伽を散らすと、ふたたび俺はスコップを手にした。折から降り出した夏の雨は、燃えるようになった俺の身体をつめたく打ち続けた。
俺の目からついぞ涙が溢れなかったことに、俺は何か恐ろしいものを感じていた。彼女との懐かしい思い出、弱り切った彼女の長い呻吟、そういうものを如実に思い出せるにもかかわらず、俺の心は腐ってしまったのか、熟れすぎた果実のように何も感じなかった。
数年がたった。
俺は大学に進み、親とは別れて暮らすこととなった。
親から解放されたことによって、俺は過去にない自由な気持だった。色んなことをやった。ここでは言えないこともいっぱいやった。それは真実犯罪に近いことだった。罪悪感もあった。にもかかわらず、束縛から放れた俺は、野山を駆けめぐる犬のように、何のこだわりもなく思うが儘だった。犬のことなど思い出す暇もなかった。
就職活動を終え、俺が実家に帰ってくると、見覚えのない小さな子犬が、ぬれぞうきんのように俺の足にかかって来た。俺は母に訊いた。母は、新しく買ったと言い、そしてこう付け加えた。
「前とは違って血統書つきよ」
何も言えなかった――――俺はその台詞に、怒りを覚えておきながらも、ぎゅっと唇を噛むしかなかった。そうして、足にまつわる子犬を軽く蹴りやりながら、自分の部屋に戻った。埃っぽかった。
夕飯をすませると、俺は裏庭にまわって、こんもりと積まれた土饅頭の前に腰をかがめた。よく晴れた夏の日だった。夕闇の迫った空にはまじりあう混然たる色がにじんでおり、レタス畑のはるか向こうに鬱蒼とそびえる林の影は、ほとんど影絵のように佇んでいた。ほのかに聞こえる子どもの喚声は、俺がここを発って一人暮らしを始める前と、何一つ変わりはなかった。では変わってしまったのは、一体何なのか――――盛り上がった土饅頭を見ながら、長いこと、俺は黙っていた。何か分かりそうな一瞬があったが、一閃のうちに掻き消える電光のように、その瞬間は長く持たなかった。俺は黙って立ち上がった。
地平の果てから夕べの風があふれ出し、梅の梢をざわざわと鳴らした。梢には梅の実が一個、崩れかかった姿でかかっていた。俺は耳を澄まして、遠い記憶から聞こえて来る懐かしいこだまを探していた。