#3
後宮の庭を、ユーリはこっそりと足音を忍ばせて移動した。
緑の濃いオレンジの木々をすりぬけ、途中でふっくらと丸く熟した果実をひとつもぐ。皮のまま齧れる種類のこの果物は、ユーリの密かなお気に入りだった。
小さな白い花が雪のように咲いた茂みをかきわけ、ユーリは頭を振りながら飛び出した。
髪からぼろぼろと零れてくる花が刈り揃えられた芝生へ落ちるのを面白く見ていると、不意に頭上から声をかけられた。
「そこで何をしているのです」
ぴんと張り詰めた声。
ユーリは凍りついた。
(しまった……!)
ここが白鷺の区画になることを忘れていた。
思わず顔を上げれば、切れ長の眦に蔑みを浮かべた美女がこちらを睥睨している。
今更逃げるわけにもいかない。
ごくり、ユーリは生唾を飲むと恐る恐るスカートをつまんで頭を下げた。
ぎこちないカーティシー。
「御機嫌よう、レティシアナさま」
レティシアナは日焼け予防に手元に持っていた豪奢な扇子で口元を隠した。
「まあ、随分とやんちゃをされたようですけれど……元気で結構なことね、ユリウスさま」
「……ありがとうございます」
彼女の言う「元気」は、リラのものとは全く違う。
後宮にありながら無作法に他人の居住区域に侵入し、花まで頭にくっつけてまるきり子供の振る舞いをするユーリを責めているのだ。
(確かに、勝手に入ったのは悪かったけど)
それにしても、レティシアナは妃たちの中でも特にユーリに突っかかってくる存在だ。
きっと後宮に入った時期に関係しているのだろうと、ユーリは思っている。
レティシアナは、ユーリの一ヶ月ほど前に後宮入りしていた。
(そりゃあ、腹も立つでしょうよ)
自分を妃に迎えたばかりだというのに、たった一ヶ月で別の女、それも五歳児を娶られたのだ。
自分に何の不満が、と思うだろうし。
五歳の子供に負けた気分にもなろう。
――本当は手違いだったんだけどね。
とは、弁解してもレティシアナを逆撫でするだけだろう。
口を閉じて俯き、ユーリはぐちぐちと続く嫌味を大人しくやりすごす。
(今日も長いなぁ……)
教養高いらしい彼女の口はよく回った。
レティシアナ・リーナ・ルガートは、彼女の冠する白鷺の名に相応しく、ほっそりと長い首筋の美しい女性だ。
嫌味を言っているときでさえ、伯爵位を賜るルガートの名を汚さぬ優雅な所作が目についた。まるで大きな鳥がゆったりと空気を翼に含ませて飛び立つときのよう。華やかで、目を惹く。
ただし、代わりにといっては何だが、可愛らしい小鳥に抱くような親近感や温かみからは遠かった。
(陛下好みではあるけれど)
――細いけど、出ているところは出ているという。
(重要な一点だよね)
ユーリはつい思考につられて彼女の体の線をつくづくと眺め、ふと首を傾げた。
「あれ、レティシアナさま、太りました?」
腰の辺りとか。
「な……っ」
「あ」
しまった。
ユーリは慌てて口元を押さえた。
こんなにプライドの高い女性に、なんという暴言を吐いてしまったのか。
もはや、地雷原を全力疾走したに等しい失態だ。
「え、えっと、あの……ごめんなさい!」
両手で口を押さえたまま、深々と腰を折る。頭が膝頭にぴったりとくっついたが、これは土下座でも許してもらえないかもしれない。
(ぶ、ぶたれたりしないよね……?)
レティシアナの持つ扇子がふるふると震えているのが恐ろしい。
しかし、
「――?」
いつまで経っても、扇子どころか罵倒すら降ってこない。
思い切って顔を上げ、ユーリは面食らった。
「レティシアナさま?」
彼女のすべらかな頬は色を無くし、いまや蒼白になっていた。
明らかな異変に、ユーリは思わず手を伸ばす。
「さわらないで!」
「ひゃぁ!」
ばちん、と乾いた音が響く。
「あ……っ」
それに彼女が赤い唇を噛むので、ユーリは咄嗟に首を振った。
「あ、あの、大丈夫です。痛くありません」
何故だか、彼女のためにそうしてやった方がいいような気がした。
レティシアナの切れ長の深い碧眼が揺らぐ。
ユーリは急いで、赤くなりだした手を背後へ隠す。
「平気です、レティシアナさま」
「……」
彼女は何か言いたげに幾度か唇を開閉した。
先ほどよりもずっと気まずい空気が二人の間に横たわる。
(どうしよう)
そもそもユーリも抜け出してきた身だ。このままでは時間が無くなってしまう。
迷い始めたとき、遠くから聞こえる歓声に膠着は破られた。
嬉しげな女性たちの笑い声。
さざめくそれは、庭を囲む回廊の向こうから聞こえてくる。
(巡回の時間だ)
騎士による定時刻の見回りは、後宮での最も大きな娯楽のひとつだった。歓声の大きさからして、今回は人気のある騎士の姿があるのかもしれない。
茂みで見えもしないのに、ユーリが背を伸ばしてそちらを伺う隙に、レティシアナはさっと長いドレスの裾を捌いて踵を返した。
「あ、あの……」
肩越しの横顔は硬い。
すっきりと背筋は伸びているものの、顔色悪く青ざめた瞼に、ユーリはそれ以上声をかけることはできなかった。
「……行っちゃった」
何なのだろう。
そういえば、ここは彼女の庭だが、こんなところに一人きりでいるのも腑に落ちない。いつも大勢の取り巻きをつれているのに。
「変なの」
首を傾げたユーリだったが、近づいてくる騒めきに我に返ると、慌てて次なる茂みのなかへもぐりこんだ。
(危ない危ない)
侵入者ではないけれど、彼らに見つかって咎められる点では、ユーリも同じなのだった。