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夫婦ラッシュ(who flash)

作者: 望月 のぶ
掲載日:2026/06/08

とある夫婦がいた。


深夜二時。リビングの男の上で光るペンダントライトだけが、どんよりとした部屋の空気を切り取っていた。テーブルの上には、冷え切ったスープが放置されている。


男は帰宅してからも、パソコンの画面に向かってひたすらキーボードを叩き続けていた。最近は仕事が忙しく、家でも作業に追われる日々。当然、家庭での会話はめっきり減っていた。

男が疲労に耐えかねて小さくため息をつくと、それが引き金となった。


「……ねえ、まだその仕事終わらないの」


背後から、冷ややかな声が刺さった。妻だった。

パジャマ姿で腕を組んだ妻の目には、明らかな苛立ちが宿っていた。


「すまない、あと少しで終わるから」

男が画面から目を離さずに生返事をすると、妻の感情が溢れ出した。


「いつも『あと少し』じゃない! あなた、結婚してすぐの時だって、仕事だからって呑んでばかり帰ってきたじゃない。あの時だってそう、忙しい忙しいって言って、二日も家に帰ってこなかった。やっと帰ってきたと思えば、一日中寝てばっかりで、私のことなんて無視……。私は、もっとあなたと話したいのよ! なのに、結婚してからずっと、あなたは仕事、仕事って……!」


妻の言葉はエスカレートしていった。「もっと話したい」という寂しさから始まったはずの訴えは、いつしか過去の不満のアーカイブを次々と掘り返すチクチクとした弾丸に変わり、男の心を正確に抉っていく。


だが、男も今回は黙っていなかった。


「しょうがないだろ! 僕だって遊びでやってるわけじゃない!」

「生活のためなら、私をないがしろにしていいの!?」

「そんなことは言ってない! だいたい、君の言い方は極端だ。僕たちの結婚生活、そんな悪いことばかりじゃなかったはずだ! 楽しかった時だってあっただろ!」


泥沼の言い合いの末、エネルギーを使い果たした二人は、互いに背を向けたままベッドに潜り込み、険悪な空気のなかでふて寝してしまった。


翌朝。重い空気のなかで顔を合わせた二人。男が先に静かに口を開いた。


「……ごめん。昨日は言い過ぎた。君の言う通りだったよ。こんな嫌な思い出、ずっと引きずっていてもお互いのためにならない。……こんなことは、忘れてしまおう。そういえば最近、記憶を綺麗に間引いてくれる、いいクリニックがあるって聞いたんだ」


妻は少し驚いたように男を見つめ、やがて小さく息を吐いて微笑んだ。

「……そうね。わかったわ、私もついていくわ」


それは、壊れかけた日常を修復するための、二人なりの前向きな合意だった。




******


「──はい、承知いたしました。昨夜の『夫婦喧嘩の記憶』ですね」


清潔で無機質な「記憶削除クリニック」のカウンセリング室。

担当医が、マニュアル通りの笑みを浮かべてタブレットを操作している。


「感情のトゲだけを綺麗に間引きますので、ご安心ください。現在、当院では二つのAI感情デリートモデルを採用しておりますが、どちらにいたしますか?」


画面には、二つのプランが提示されていた。


【Proプラン】:高精度・文脈理解モデル

コンテキスト(文脈)を深く理解し、指定されたピンポイントの記憶だけを切り離す。周囲の思い出には干渉しない。価格は5万円。


【Flashプラン】:高速・軽量トリガーモデル

キーワードに基づき、関連するログを大まかに一括処理する。細かい文脈の精査を省くため、非常にリーズナブル。価格は1万円。


男は少し考え、言った。

「Flashでお願いします。余計なところまで消えるわけじゃないんですよね?」


担当医は滑らかに頷いた。

「そうですねぇ、単なる一晩の喧嘩を消すだけであれば、こちらで十分満足されるお客様も多いです。でも、面倒くさがらずに、ちゃんと伝えてくださいね。あ、あと削除する内容も出てくるので確認をお願いします」


「はい。昨日の喧嘩の記憶を消すだけですから」

男は、安いモデルを選択した浮いたお金で、今夜は妻と仲直りの区切りとして美味しいものでも食べに行こう、と心の中で微笑んだ。


「それでは、施術を開始します」

担当医がヘッドギアのスイッチを入れ、男に向き直った。

「では、システムから音声が聞こえますので、できるだけ詳しく伝えてください。いきますね」


するとヘッドギアから無機質な音声が聞こてきた。

「音声認識を開始します。どの記憶を削除いたしましょうか」


詳しくと言っても、あのことを思い出すと嫌になってしまう。これから仲直りしてうまくやっていこうといく気持ちを考えると、どうにも詳しく思い出して口にするのは面倒だった。

男は少し考えて、口を開いた。


「昨日の喧嘩について」


「はい、トリガーワードを受理しました」

システムに、男の言葉がそのまま入力される。

しかし、男が発した言葉は「昨日の喧嘩」という限定的な名詞ではなく、「昨日の喧嘩について」という、AIにとってはあまりにも広すぎる指示だった。


男の選択したFlashモデルは、音声認識された指示通り、昨夜の喧嘩のデータから「関連するワード」を完全に抽出し始めた。


モニターの暗闇に、無機質な緑色のログが高速で流れ出す。


『文脈解析開始……昨日の喧嘩において言及された全要素を抽出』

『データ抽出:新婚旅行時の計画放棄』

『データ抽出:結婚直後の深夜の飲酒・帰宅遅延』

『データ抽出:忙しさを理由とした二日連続の徹夜・無断外泊』

『データ抽出:家庭内における会話の喪失』

『データ抽出:結婚してからずっと』




ピコン、と軽い電子音が鳴り、合成音声が室内に響く。


『これら「昨日の喧嘩について」関連情報を抽出いたしました。削除を実行してもよろしいでしょうか?』


男はモニターにずらりと並んだログを見つめ、少しだけ目を見張った。


「おいおい、あんまり記憶にないけれど、昨日はこんなに言われてたのか……」


男は苦笑いしながら、頭を少し掻いた。これだけたくさんの文句を言わせてしまっていたのなら、なおさら綺麗に消して、今夜のディナーで機嫌を直してもらわなければならない。


「削除実行をお願い」


シュン、という無音の処理音と共に、二人の歴史は完全に消失した。





******


クリニックの白い待合室。

妻は、柔らかいソファに深く腰掛け、施術の時間が少し長いかもしれないと感じ、静かに壁の時計を見つめていた。


しかし、その時間は妻が昨日の喧嘩を振り返る時間に充てていた。


昨夜、男が「楽しかった時もあったはずだ」と言ったとき、胸が痛んだ。

夫が仕事で切羽詰まっているのは分かっていたのに、寂しさを過去の不満にすり替えてぶつけてばかりいた。男の言う通り、二人の生活は決して悪いことばかりではなかったはずなのに。


(これからは、ちゃんと夫に接しよう……)


初心に返って、もう一度彼と温かい関係を築いていこう。妻がそう心に決めたとき、静かに施術室のドアが開いた。


妻は、出てきた男の姿を見て、深く安堵した。


そこには、ここ最近ずっと男の背中へばりついていた暗い疲労感は微塵もなかった。

結婚するときの、あの時の朗らかで明るい顔をした夫が、そこに立っていた。背筋はぴんと伸び、その瞳はまるで世界中の光をすべて集めたかのように、キラキラと、無垢な輝きを放っている。


男は待合室の妻を見つけた瞬間、顔全体をこれ以上ないほどクシャクシャにして笑った。本当に愛おしそうに駆け寄ってくると、妻の両手をぎゅっと握りしめた。


「うん、おかえり。昨日は、ごめんね。私──」


「何言ってるんだよ」


男は、妻の言葉を遮って朗らかに笑った。その目はどこまでも純粋で、悪意も、疲れも、淀みも、一ミリすら存在しなかった。


(そうだった。私も昨日の喧嘩はさっぱり忘れて、今まで通り接しなきゃ……)


妻は小さく息を吐き、夫につられるように優しい笑顔を浮かべた。


「そうね、これからどうしましょうか」


すると男は、愛おしさが爆発しそうな表情で妻の顔をじっと見つめ、弾むような声で言った。


「結婚が楽しみだね。結婚前日の記念するこの日に、美味しいものでも食べに行こう! ずっと緊張してたんだ。明日から、君が僕の奥さんになるんだって思ったら、なんだか嬉しくてさ。……そうだ、せっかくの結婚前夜の記念なんだから、今夜は奮発して、ずっと君が行きたがってた美味しいものでも食べに行こうよ!」

タイトル自体は森博嗣先生の「封印再度(who inside)」のオマージュです。ごめんなさい。


だって思いついちゃったんだもの

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