婚約破棄は了承しましたので、とっととお帰り願えますか
前作、ランクイン致しました!ありがとうございます
「エルマ・リリアナス、本日をもって貴様との婚約を破棄する」
豪奢な髪飾りと共に断状が揺れる。
華奢な容姿からは想像できないような、低く威圧感のある声でハルベルト・ファーラム第二王子は続けた。
「真実の愛を見つけてしまったのだ。仕方のないことだ」
エルマは静かに、その言葉を聞いていた。
みな、この国の国王陛下は礼儀正しく清廉だというが、他国と比べて何ら変わりはない。唯一言えるとすれば、公妾が複数人いること。
老境に差し掛かった陛下が焦って、属国から貴族令嬢をかき集めてくるのだ。年齢も、相手の意思も、顧みない。
領地内を娼館にすることすら厭わない。そうして嫡男の次に生まれたのが、目の前の男だ。
蝶よ花よと育てられてきたハルベルト殿下は、父君に似て、存外に貪欲な性格をしていらっしゃる。
そう思い至った時には、すでに遅かった。
領地経営について深夜まで学んでいた私の傍らで、殿下は遊び呆け、果ては私の妹にまで手を出したと聞く。その言葉を耳にした時、私は教室で倒れた。
王子妃としての義務教育を深夜まで続けていたから——離宮の東屋まで連れられ、帰ってくる頃には朝日が差していた。身体が悲鳴を上げるのも、無理はなかった。
『エルマ、貴女は領地経営が得意だから。殿下と共に領民を豊かにしていけばいいわ』
継母と教育係にそう促され、言われるがままに学んできた。実際には、殿下の家政も外交文書の下訳も、すべて私に任せられるというのに。それでも私は学び続けた。義務だったから。
いや——もしかすれば、どこかで信じていたのかもしれない。いつか殿下が、正面から私を見てくださる日が来ると。愚かなことだった。
「……それで、その『真実の愛』とやらは」
エルマが口を開く。
「どちらのご令嬢でございますか」
殿下は扉の方へ視線をやった。
つられて私も振り返る——そこに立っていたのは、見慣れた蜂蜜色の巻き毛だった。
「……イリス」
妹は俯いていた。
視線は床に落としたまま、指先をきつく組み合わせている。
入ってきた時から、一度も私と目を合わせようとしない。
胸の奥で、何かが冷えた。
リリアナス家の台所事情は、私が一番よく知っていた。父が病で倒れてから二年、領地の収益は目に見えて落ちている。
継母は家格を保つことに必死で、どこかへ嫁がせる娘が一人いれば——という話が、水面下で出ていたことも、知っていた。
王子妃の座。
それがイリスに回ってきたとすれば。継母が裏で動いたのか、殿下が直接イリスに近づいたのか。どちらにせよ、イリスには断れない事情があったのかもしれない。
俯いたまま動かない妹を見ながら、私は静かに息を吸った。
「そうだ」殿下が満足そうに頷く。
「小難しく口うるさい貴様より、この可愛らしい令嬢の方が、よほど俺に相応しい。イリス嬢、改めて俺と婚約してくれるな」
部屋に沈黙が満ちた。
イリスは、動かなかった。
殿下が眉をひそめる。
「イリス嬢?」
蜂蜜色の巻き毛が、ゆっくりと揺れた。
イリスが顔を上げた時——その目は、私がよく知っている色をしていた。泣きそうなのに、泣かない時の、あの目だ。
「……一つだけ、お聞かせください」
イリスの声は、思いのほか静かだった。
「殿下は、お姉様のことをどのようにお思いでございますか」
殿下は一瞬、虚を衝かれたような顔をする。
「……なんだと?」
「お姉様は八年間、殿下のために学び続けてまいりました。深夜まで、倒れるまで。私はずっと、そのお姿を見てきました」
イリスの声は震えていなかった。ただ、静かに、一言一言を置くように続けた。
「殿下がお姉様を『相応しくない』とおっしゃるなら——私は、そのお姉様を尊敬しております。尊敬する姉が相応しくないとされる方と、私が婚約するなど」
イリスは、深く礼をした。
「できるはずもございません。謹んで、お断り申し上げます」
部屋に、静寂が落ちた。
殿下の顔が、みるみる赤くなっていく。
「貴様、俺が誰だかわかっているのか。第二王子である俺との婚約を断るなど——」
「お言葉ですが」
今度は、私が口を開いた。
「妹はまだ十四でございます。イリスの意思を、尊重していただけますか、殿下」
殿下は私を睨みつけた。それから何かを言おうとして——やめた。
「……覚えておけ」
捨て台詞だけを残して、殿下は踵を返した。
扉が閉まる音を、私は静かに聞いた。
◆
後になって知ったことだが、ハルベルト殿下はその後も「真実の愛」を探し続けたらしい。
しかし令嬢たちの間では、すでに殿下の評判は地に落ちていた。婚約者の妹に乗り換えようとした王子、という話は社交界の端から端まで届くのに、さほど時間はかからなかった。
第二王子妃の座は、長らく空白のままだったと聞く。
私はといえば——殿下の家政を長年担ってきた実績を買われ、王宮の財務管理室から声がかかった。深夜まで学び続けた八年間は、どうやら無駄ではなかったらしい。
リリアナス家の台所事情も、少しずつ持ち直していった。
イリスが紅茶を持ってきた。
「お姉様、お疲れ様」
その顔は、あの日俯いていた時とは別人のように、晴れやかだった。
私は微笑んで、カップを受け取った。
やっと、自分の時間が始まる気がした。




