前世はブラック企業の社長でした。搾取の仕組みは全部知ってます
腹を刺された感覚を、俺は今でも覚えている。
重たくて、熱くて、そのくせ妙に冷たい。カーペットの匂い。蛍光灯の白い光。天井のシミ。最後に見えたのは、二十三歳の新入社員の目だった。
泣いていた。
怒りでも憎しみでもなく、泣いていた。包丁を握ったまま、子供みたいに泣いていた。
ああ、追い詰めたのは俺か——と思ったのが、前世の最後の記憶だ。
次に目を開けたら、天蓋付きのベッドの上にいた。
転生、というやつらしい。
俺の名前はアルト・ヴァイザー。ラグナリア王国、ヴァイザー辺境伯家の三男。家督を継ぐ気もなければ期待されてもいない、空気みたいな存在だった。
十六年間、静かに暮らした。
前世の記憶はある。でも思い出したくなかった。あの目を——あの泣き顔を忘れたくて、辺境の屋敷で本を読み、馬に乗り、平穏な人生を送ろうとしていた。
それが崩れたのは、王都に呼ばれた日だ。
「アルト様、王都への出仕命令でございます」
父上の名代として宮廷に出ろと言われた。長兄は領地経営、次兄は軍に出ている。三男の俺は余り物だ。行っても座っているだけでいい。たぶんそういう話だった。
——甘かった。
王都に着いて三日目。王宮の大広間で行われた「領主会議」を見て、俺は目を疑った。
会議時間、四時間半。
議題、三つ。
結論、ゼロ。
貴族たちは延々と挨拶と社交辞令を繰り返し、肝心の議題になると「これはもう少し検討を」「各領の事情もございますし」「次回に持ち越しましょう」。
そして散会後、全員で夕食会。二時間。
その後、茶会。一時間半。
——俺は前世で年商三百億の会社を回していた人間だ。社員三百人に日毎のKPIを叩きつけ、未達なら翌朝のミーティングで名指しし、週次で進捗を詰め、月次で数字が足りなければ席替え——要するに左遷——をちらつかせていた。
目の前の光景が、信じられなかった。
「なんだこれ。ウチの新入社員の方がまだ仕事してたぞ」
思わず呟いた声が、隣のイリス王女に聞こえていたらしい。
「……今、何と?」
赤い髪を肩で切り揃えた、切れ長の目の女性。第一王女イリス・ラグナリア。齢二十。俺より四つ年上だが、目の鋭さは四十代の役員クラスだ。
「いえ、独り言です」
「独り言にしては辛辣ね。『新入社員の方がまだ仕事してた』?」
聞こえてた。全部。
「……殿下は、この状況をどうお考えですか」
「最悪よ。この国は、怠惰に食われて死ぬわ」
彼女の目は真剣だった。
「——でも、誰も変えようとしない。変えたら自分が楽できなくなるもの」
俺は少し考えて、口を開いた。
「俺にやらせてくれませんか」
「何を?」
「この国の——経営を」
イリス王女は眉を上げた。
「……経営? 国を?」
「ええ。組織が腐る理由はいつも同じです。管理がない。評価がない。締め切りがない。この三つを入れるだけで、どんな組織でも動きます」
「それは理論上の話でしょう」
「理論じゃないです。実践で三百人回してました。——まあ、前の職場ですけど」
前世のことは言えない。でも嘘はついていない。
イリス王女は十秒ほど俺を見つめて、小さく笑った。
「面白い。やってみなさい。私の名前を使っていいわ。ただし——」
「ただし?」
「結果が出なかったら、辺境に帰ってもらうわよ」
「結果は出ます。断言します」
こうして俺は、王女直属の「行政改革特別補佐官」になった。
肩書きは仰々しいが、要するに雑用係だ。権限は王女から借りる。後ろ盾は王女の名前だけ。
——十分だ。ブラック企業の社長に必要なものは、権限じゃない。
人を動かす技術だ。
最初にやったのは、朝礼の導入だった。
「明日から毎朝七時に王宮に集合してください」
御前会議で俺がそう言った瞬間、場が凍った。
そりゃそうだ。この国の貴族は早くても昼前に起きて、午後からのんびり王宮に顔を出す。七時なんて使用人ですら嫌がる時間だ。
ガルシア公爵——白髪の巨漢で、この国で最も広い領地を持つ大貴族——が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ふ、ふざけるな! 我々は貴族だぞ! 朝七時だと!?」
「はい。前の職場では始業八時でしたが、考慮して七時にしました」
「考慮!? どこがだ!」
「八時より一時間しか早くないでしょう。かなり譲歩したつもりです」
ガルシア公爵が痙攣した。イリス王女が目を逸らしている。笑いを堪えているのだと後で知った。
次に導入したのが、週次レポートだ。
A4サイズの羊皮紙一枚。記入項目は五つ。領地人口、税収、公共事業の進捗、市場物価、住民からの要望件数。
「毎週月曜日の朝礼時に提出してください。フォーマットは統一です」
「フォーマット……?」
「書き方の見本です。これに沿って書いてください。自由記述ではなく、数字で。『順調です』とか『問題ありません』は禁止です。数字を書いてください。数字を」
マルセル伯爵——社交界の華と呼ばれる貴公子——が蒼白になっていた。
「あ、あの……数字と言われましても、我が領の税収など把握して……」
「把握してないんですか?」
「…………そもそも、なぜ辺境伯の三男風情に……」
空気が変わった。核心を突かれた——と思ったのは一瞬だった。
イリス王女が立ち上がった。
「彼の命令は、私の命令です。つまり王家の命令。——異論は?」
声は静かだったが、目が笑っていなかった。大広間が一瞬で凍りついた。
マルセル伯爵が口をつぐむ。他の貴族も目を逸らした。この国の第一王女に楯突く度胸のある者は——いない。
「じゃあ把握してください。来週までに。それが領主の仕事です」
俺は笑顔で言い添えた。
「……もし集計の仕方が分からなければ、俺が雛形を作りますので、お気軽にどうぞ」
マルセル伯爵の顔が余計に青くなった。
——笑顔が怖いと言われたのは、前世からだ。
以降、誰も「三男風情に」とは言わなくなった。俺の後ろには王女がいる。その事実が、この国のどんな理屈よりも重かった。
地獄が始まった。
いや、彼らにとっての地獄が。
朝七時の朝礼。最初の一週間、半分以上の貴族が遅刻した。
俺は遅刻者の名前を一覧にして、翌日の朝礼で読み上げた。
「遅刻者一覧です。ガルシア公爵、マルセル伯爵、ドーラン子爵、レナート侯爵……」
「や、やめろ! 名前を読み上げるな!」
「遅刻しなければ読み上げません。簡単な話です」
二週目、遅刻者は三割に減った。
三週目、ほぼゼロになった。
人間は「恥」に弱い。これは前世で学んだ最初の法則だ。
週次レポートは最初、壊滅的だった。数字の入っていない報告書。「おおむね良好」と書かれただけの羊皮紙。白紙で提出してきた猛者もいた。
俺は全てのレポートを評価して、ランキングにした。
「今月の領地運営ランキングです。一位、トレンス辺境伯。二位、ハイドリヒ男爵。三位——」
「ま、待て。最下位は誰だ……」
「ガルシア公爵です」
「なっ——!」
「レポート未提出が二回、数字記載なしが一回。評価のしようがありません。ちなみに前の職場でこの成績だと、翌月にはデスクがなくなってました」
「デスク……?」
「机です。席がなくなるんです」
ガルシア公爵は七十二歳にして、初めて「叱られる」という経験をしたらしい。
その夜、ガルシア公爵の屋敷では、五人の執事が徹夜でレポートを作成していた。
翌週、ガルシア公爵のレポートは内容量が全体の三倍あった。やればできるじゃないか。
——いや、執事がやっただけだが。まあいい。前世でも、社長が全部やる必要はなかった。部下に任せる能力も実力のうちだ。
二ヶ月が経った。
信じられないことに、国が動き始めていた。
道路が直り始めた。レポートに「未補修の道路」を書かせたら、「書くのが恥ずかしいから直した」という領主が続出したのだ。
税収が上がった。そもそも「自分の領地の税収を知らなかった」領主が半数以上いたのだ。知ったら、さすがに危機感を持った。
市場の物価が安定した。流通ルートの問題を「宿題」として出したら、隣接する領地同士で勝手に連携し始めた。ランキングで負けたくないからだ。
俺は何もしていない。
仕組みを作っただけだ。
——前世と同じだ。仕組みを作れば、人は勝手に動く。恐怖でも、使命感でも、見栄でも。理由は何でもいい。動けばいい。
イリス王女が執務室に来た。
「すごいわね。本当に国が変わってきている」
「当然です。この程度のことは、まともな組織なら当たり前にやっていることです」
「でも——ちょっと気になることがあるの」
「何ですか」
「あなた、楽しそうよね」
俺は手を止めた。
「……楽しい?」
「ええ。人を動かしている時のあなた、すごく生き生きしてる」
——言われて気づいた。
確かに、心臓が跳ねている。脳が冴えている。全身に血が巡っている感覚がある。
これは——前世でも感じていた。社員が目標を達成した時。数字が伸びた時。組織が回り始めた時の、あの感覚。
あの、人を支配している感覚。
背筋が凍った。
「……殿下。俺は、少し怖いんです」
「何が?」
「俺が楽しんでいることが、です」
イリス王女はじっと俺を見つめていた。
三ヶ月目。反乱が起きた——というほど大げさではないが、限りなくそれに近いものが。
ガルシア公爵を中心に、十二人の領主が連名で国王に直訴した。
「アルト・ヴァイザーの行政改革は、貴族の尊厳を踏みにじるものである。即刻解任されたし」
直訴の場に俺も呼ばれた。国王の前で、ガルシア公爵が滔々と訴える。
「毎朝七時の出仕など、使用人の扱いだ!」
「公爵。使用人は六時に起きてますよ」
「黙れ! 我々は貴族だ!」
「はい。だから七時にしたんです。使用人より一時間遅い。これ以上寝かせる気ですか?」
「ぐ……!」
「週次報告も限度がある! 我々は毎週毎週、書類に追われている!」
「公爵。あれ書いてるの、公爵じゃなくて執事ですよね」
「な——なぜそれを……!」
「フォントが違います。というか筆跡が違います。あと、公爵の報告書だけインクの質が高い。明らかに別の人間が書いてます」
大広間が静まり返った。
ガルシア公爵の顔が紫色になる。
——このやり取り。このテンポ。この空気。
知っている。前世の俺が、何度もやった。
反論を潰す。逃げ道を塞ぐ。正論で追い詰める。笑顔で。
あの新入社員も——こうやって追い詰めたのだ。
「……公爵」
俺は声のトーンを落とした。笑顔のまま、一歩近づいた。
「不満があるのは分かりました。強制するつもりはありません」
場の空気が一瞬、緩んだ。
「ただ、報告書の提出がない領地には、国からの補助金を停止します。これは財政上の判断です。感情ではなく、数字の話です」
空気が再び凍った。
「それから——レポートの内容が著しく不十分な領地には、王室監査官を派遣します。帳簿の精査、税の使途確認、領民への聞き取り。全部、やります」
ガルシア公爵の目が見開かれた。
「……そ、それは脅しか」
「いいえ。制度です。不服があれば、国王陛下にどうぞ——ああ、陛下はさきほど、この制度を承認されましたが」
——金で締めて、権力で蓋をする。ブラック企業の基本だ。
国王は最終的に、俺の改革の続行を認めた。「成果が出ているから」という理由で。
数字は嘘をつかない。前世でも今世でも、それだけは変わらない。
その夜、屋敷に戻ると、イリス王女が待っていた。
「今日の御前会議、見てたわ」
「……ご感想は」
「怖かったわ。——正直に言うわ。あなたが、怖かった」
「……」
「あなた、本当に人の動かし方を知ってるのね。でも——あのガルシア公爵の顔を見た?」
「見ました」
「あの人、泣きそうだったわよ」
胸が、ずきん、と痛んだ。
前世の記憶。追い詰められた部下の顔。「もう限界です」と言う声を「甘えるな」と切り捨てた日。退職届を投げつけられた日。——そして、最後の日。包丁を持った新入社員の、泣いている目。
「……殿下。ひとつ聞いてもいいですか」
「何?」
「俺のやっていることは——改革ですか。それとも搾取ですか」
イリス王女は答えなかった。
代わりに窓の外を見た。
「……分からないわ。でもね、アルト。結果が出ているのは事実よ。道路が直って、税収が上がって、民の生活は良くなっている。それも事実」
「でも貴族たちは疲弊しています」
「ええ。でも民は救われている。——あなたの前の職場ではどうだったの?」
前世。俺の会社。社員は疲弊していた。でも会社は成長していた。顧客は満足していた。株主は喜んでいた。
——それで俺は「正しい」と思っていた。死ぬまで。
「……ダメだったんです。前の職場は」
「何がダメだったの?」
「全部です。——いや、一つだけ言うなら。俺が『結果が出ているから正しい』と思っていたことが、一番ダメだった」
イリス王女は少し驚いたように俺を見た。
「じゃあ——どうするの?」
「…………」
どうする。どうすればいい。
前世の俺は何も変えなかった。変える前に死んだ。刺されて、倒れて、天井のシミを見ながら死んだ。
——だから今世は。
「少し、やり方を変えます」
翌週。
俺は朝礼で、一つだけ制度を変えた。
「今日から、月に一度、全領主に自領の視察を義務付けます」
貴族たちがざわめく。また何か始まるのかという顔をしている。
「ただし、視察先は王宮が指定しません。領主自身が選んでください。自分の領地の、一番見たくない場所を」
「……見たくない場所?」
「貧民街でも、壊れた橋でも、飢えた子供のいる村でも。あなたが一番見たくないと思う場所に行ってください。そして、見てきたことをレポートに書いてください」
沈黙が落ちた。
いつものような「ふざけるな」という怒号がない。
「……数字じゃなくていいのか」
ガルシア公爵が、低い声で言った。
「はい。今回は文章で。あなたの言葉で。見たものを、そのまま」
ガルシア公爵は黙った。
——数字で追い詰めることはできる。前世でやった。今世でもやった。
でも数字では変えられないものがある。前世ではそれに気づけなかった。
……いや。気づいていたのかもしれない。気づかないふりをしていたのだ。その方が楽だったから。
結果。
翌月のレポートは、これまでと全く違うものになった。
ガルシア公爵は——七十二歳のあの大貴族は——自分の領地の南端にある、半壊した漁村を訪れていた。
レポートの最後に、こう書いてあった。
『儂は五十年も領主をやっていたのに、この村の名前すら知らなかった。恥ずかしいやら情けないやら、怒りすら湧いた。誰に対しての怒りかは、自分でもわからん』
——ガルシア公爵の筆跡だった。今度こそ、本人が書いたものだ。インクも安物で、字も震えていた。
マルセル伯爵は、領地の炭鉱町を訪れていた。
『住民に話しかけたら、最初は領主だと信じてもらえなかった。無理もない。私はこの町に一度も来たことがなかったのだから』
レナート侯爵は、国境沿いの農村を訪れていた。
『子供たちは裸足だった。冬なのに、靴がないのだ。税を取るだけ取って、何も返していなかったことを、今日知った。四十七歳にして、初めて』
俺はそれらのレポートを読みながら、少し——ほんの少しだけ——息を吐いた。
その後の半年は、驚くほど早かった。
貴族たちが変わった。全員ではない。でも何人かが、確実に変わった。
ガルシア公爵は毎月、領地の別の村を訪れるようになった。訪問先で聞いた要望を、自分の財源で対応し始めた。
マルセル伯爵は炭鉱の安全基準を改定した。社交パーティーの回数が半分に減った。
レナート侯爵は——靴を送った。国境の農村に、子供用の靴を。自分の侯爵家の紋章入りの、立派な靴を。
数字も上がった。税収は前年比三十パーセント増。道路の補修率は九十二パーセント。市場の物価指数は安定。防衛予算が確保され、隣国の圧力に対する抑止力も回復した。
国庫はパンパンだった。別に魔法を使ったわけでも、新しい税を作ったわけでもない。領主たちがサボっていた分が、まともに回収され、まともに使われるようになった。ただそれだけだ。浮いた予算で街道を整備し、橋を架け、農地に水路を引いた。国民の生活が目に見えて変わっていく。
大陸議会が発行する「国力番付」で、ラグナリア王国は十位から四位に跳ね上がった。たった半年で。
——前世の会社も、同じだった。仕組みを入れただけで売上が倍になった。人を絞れば、数字は出る。当たり前の話だ。
王国は、まだ統一されていない。北の三領主は反発を続けているし、南の離島は独立気運がある。
でも——動き始めた。
歯車が噛み合い始めた。
俺はそれを見ながら、前世を思い出していた。
あの頃も——歯車は噛み合っていた。会社は成長していた。数字は上がっていた。
そして社員は壊れていた。
今は、どうだろう。
分からない。正直に言えば——分からない。
半年後の朝礼で、ガルシア公爵が俺に歩み寄ってきた。
「……アルト殿」
「はい」
「その——礼を言わねばなるまいと思ってな」
「礼?」
「儂はあなたを恨んでいた。朝七時に叩き起こされ、毎週書類を書かされ、名前を全員の前で読み上げられた。殺してやりたいとすら思った」
——殺す。
腹の奥が、きゅっと冷えた。
「だが、今なら分かる。儂は怠けていた。五十年も。領民の顔も知らず、名前も知らず、税だけ取って暮らしていた。それを突きつけてくれたのは、あなただ」
「……」
「感謝する。本心だ」
俺は、笑おうとして——笑えなかった。
『殺してやりたいとすら思った』
前世の新入社員も、そう思ったのだろうか。
そして——実行した。
「公爵、一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「もし俺のやり方が——もし俺が間違っていたら、言ってくれますか。止めてくれますか」
ガルシア公爵はきょとんとした顔をして、それから豪快に笑った。
「何を言っとる。間違っていたら止めるに決まっておろう。儂は貴族だぞ。使用人じゃない」
「……そうですね」
「それとも何だ。前の職場では、誰も止めてくれなかったのか?」
——止めてくれなかったんじゃない。
止めようとした声を、俺が聞かなかったのだ。
「……まあ、そんなところです」
ガルシア公爵は、不思議そうに俺を見ていた。
夜。
執務室で一人、報告書の束を確認していると、イリス王女が来た。
「まだ働いてるの」
「報告書の確認が残ってまして」
「あなたこそブラックよね。自分自身に対して」
「はは。否定できません」
イリス王女は椅子に座って、窓の外の月を見た。
「ねえ、アルト。あなた、前の職場で何があったの」
「……何もありませんよ」
「嘘。あなた、時々すごく遠い目をする。何かを思い出して、怖がっている顔」
「……」
「教えてくれなくてもいいわ。でもね——あなたが怖がっているうちは、大丈夫だと思う」
「大丈夫?」
「自分のやり方を怖いと思える人間は、まだ引き返せるってこと」
——引き返す。
前世では引き返さなかった。引き返す前に、腹を刺された。
「……殿下。俺は前の職場で、人を壊しました」
「…………」
「それも自覚なく。自分では正しいことをしていると思っていました。結果が出ていたから。数字が上がっていたから。——最後に、壊した相手に刺されました」
しまった。言いすぎた。
だがイリス王女は動じなかった。
「……刺された?」
「比喩です」
「嘘ね。でもいいわ。比喩ということにしておく」
沈黙。
「……それで、今はどうなの」
「何がですか」
「今のあなたのやり方。前の職場と同じ? 違う?」
俺は少し考えた。
朝七時の朝礼。週次レポート。ランキング。補助金カット。——手法は、前世と大して変わらない。
変わったのは——何だろう。
「……分かりません。正直、分かりません。手法は同じです。人を追い込んで、動かして、結果を出させる。構造は変わっていない」
「じゃあ何が違うの」
「視察を入れたこと、ぐらいですかね。数字だけじゃなく、自分の目で見ろと。——前世の俺に足りなかったのは、たぶんそこです。現場を見なかった。数字だけ見て、人を見なかった」
「それは——大きな違いよ」
「そうでしょうか」
「ええ。少なくとも、ガルシア公爵は変わったわ。あの人、先週から毎朝六時に起きてるらしいわよ。自主的に」
「六時? 七時の朝礼より一時間も早いじゃないですか」
「年寄りは朝が早いのよ」
少しだけ笑った。
少しだけ——本当に少しだけ——胸が軽くなった気がした。
——だが。
その翌月のことだ。
夜、執務室で一人レポートを精査していたら、背後から刺された。
——は?
振り返る。若い貴族だった。見覚えがある。マルセル伯爵の家の次男だ。目が据わっている。手には短剣。
俺の腹に突き立てた短剣が——弾かれた。
金属音ではなく、柔らかい光の音がした。胸元に隠した護符が淡く輝いて、消えた。
——『命守りの聖碑』。
改革を始める前に買った。ヴァイザー家の遺産相続分を全額つぎ込んだ。金貨八百枚。家一軒分の値段だ。
致命傷を三回まで無効化する、この世界で最も高価な防具の一つ。
なぜ買ったか。理由は単純だ。
前世で刺されて死んだからだ。
前世の経験から学んだのは、反省でも贖罪でもなく——リスクヘッジだった。人を追い詰める仕事をするなら、刺される前提で備えろ。
「あ……あ……」
マルセル伯爵の次男が、短剣を握ったまま震えている。刺したはずなのに、相手が平然としている。そりゃ怖いだろう。
「落ち着いてください」
俺は笑顔で言った。
「お気持ちは分かります。——前の職場でも同じことがありましたから」
「な、なんで……死なないんだ……!」
「死なないようにしてあるんです。経費です」
経費。
そう、これは経費だ。人を追い詰める仕事をするなら、刺されるリスクは織り込み済みだ。前世ではそれを怠った。今世では最初に手を打った。
——それだけの話だ。
衛兵を呼んで、マルセル伯爵の次男を引き渡した。
翌日の朝礼は通常通り七時に始めた。
「昨夜、刺されました」
場が凍った。
「ご安心ください。護符があるので無事です。それよりレポートの提出が遅れている方が三名いらっしゃいます。マルセル伯爵、ドーラン子爵、カイン男爵。本日中にお願いします」
「い、今のは聞き流せんぞ!? 刺されたと言ったか!?」
「はい。でも死んでないので業務に支障はありません。レポートの件ですが——」
「支障はないではないわ!!」
イリス王女が立ち上がっていた。顔が真っ白だ。
「あなた、刺されたのよ!? なぜそんなに平然としていられるの!?」
「護符がありますので。あと二回は大丈夫です」
「あと二回!?」
「はい。三回まで有効なので、今回で残り二回です。コスト的にはまだ余裕があります」
大広間が、完全に沈黙した。
誰も何も言えなかった。
——この男は、刺されることを前提にしている。刺されるリスクを計算に入れて、それでも改革を止めない。
狂っている。
たぶん、全員がそう思っただろう。
俺自身もそう思う。
残り二回。
なくなったら経費で落とす。まだやれる。




