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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

前世はブラック企業の社長でした。搾取の仕組みは全部知ってます

作者: 双葉からす
掲載日:2026/03/02

腹を刺された感覚を、俺は今でも覚えている。


 重たくて、熱くて、そのくせ妙に冷たい。カーペットの匂い。蛍光灯の白い光。天井のシミ。最後に見えたのは、二十三歳の新入社員の目だった。


 泣いていた。


 怒りでも憎しみでもなく、泣いていた。包丁を握ったまま、子供みたいに泣いていた。


 ああ、追い詰めたのは俺か——と思ったのが、前世の最後の記憶だ。


 次に目を開けたら、天蓋付きのベッドの上にいた。


 転生、というやつらしい。


 俺の名前はアルト・ヴァイザー。ラグナリア王国、ヴァイザー辺境伯家の三男。家督を継ぐ気もなければ期待されてもいない、空気みたいな存在だった。


 十六年間、静かに暮らした。


 前世の記憶はある。でも思い出したくなかった。あの目を——あの泣き顔を忘れたくて、辺境の屋敷で本を読み、馬に乗り、平穏な人生を送ろうとしていた。


 それが崩れたのは、王都に呼ばれた日だ。


「アルト様、王都への出仕命令でございます」


 父上の名代として宮廷に出ろと言われた。長兄は領地経営、次兄は軍に出ている。三男の俺は余り物だ。行っても座っているだけでいい。たぶんそういう話だった。


 ——甘かった。


 王都に着いて三日目。王宮の大広間で行われた「領主会議」を見て、俺は目を疑った。


 会議時間、四時間半。


 議題、三つ。


 結論、ゼロ。


 貴族たちは延々と挨拶と社交辞令を繰り返し、肝心の議題になると「これはもう少し検討を」「各領の事情もございますし」「次回に持ち越しましょう」。


 そして散会後、全員で夕食会。二時間。


 その後、茶会。一時間半。


 ——俺は前世で年商三百億の会社を回していた人間だ。社員三百人に日毎のKPIを叩きつけ、未達なら翌朝のミーティングで名指しし、週次で進捗を詰め、月次で数字が足りなければ席替え——要するに左遷——をちらつかせていた。


 目の前の光景が、信じられなかった。


「なんだこれ。ウチの新入社員の方がまだ仕事してたぞ」


 思わず呟いた声が、隣のイリス王女に聞こえていたらしい。


「……今、何と?」


 赤い髪を肩で切り揃えた、切れ長の目の女性。第一王女イリス・ラグナリア。齢二十。俺より四つ年上だが、目の鋭さは四十代の役員クラスだ。


「いえ、独り言です」


「独り言にしては辛辣ね。『新入社員の方がまだ仕事してた』?」


 聞こえてた。全部。


「……殿下は、この状況をどうお考えですか」


「最悪よ。この国は、怠惰に食われて死ぬわ」


 彼女の目は真剣だった。


「——でも、誰も変えようとしない。変えたら自分が楽できなくなるもの」


 俺は少し考えて、口を開いた。


「俺にやらせてくれませんか」


「何を?」


「この国の——経営を」


 イリス王女は眉を上げた。


「……経営? 国を?」


「ええ。組織が腐る理由はいつも同じです。管理がない。評価がない。締め切りがない。この三つを入れるだけで、どんな組織でも動きます」


「それは理論上の話でしょう」


「理論じゃないです。実践で三百人回してました。——まあ、前の職場ですけど」


 前世のことは言えない。でも嘘はついていない。


 イリス王女は十秒ほど俺を見つめて、小さく笑った。


「面白い。やってみなさい。私の名前を使っていいわ。ただし——」


「ただし?」


「結果が出なかったら、辺境に帰ってもらうわよ」


「結果は出ます。断言します」


 こうして俺は、王女直属の「行政改革特別補佐官」になった。


 肩書きは仰々しいが、要するに雑用係だ。権限は王女から借りる。後ろ盾は王女の名前だけ。


 ——十分だ。ブラック企業の社長に必要なものは、権限じゃない。


 人を動かす技術だ。



 最初にやったのは、朝礼の導入だった。


「明日から毎朝七時に王宮に集合してください」


 御前会議で俺がそう言った瞬間、場が凍った。


 そりゃそうだ。この国の貴族は早くても昼前に起きて、午後からのんびり王宮に顔を出す。七時なんて使用人ですら嫌がる時間だ。


 ガルシア公爵——白髪の巨漢で、この国で最も広い領地を持つ大貴族——が顔を真っ赤にして立ち上がった。


「ふ、ふざけるな! 我々は貴族だぞ! 朝七時だと!?」


「はい。前の職場では始業八時でしたが、考慮して七時にしました」


「考慮!? どこがだ!」


「八時より一時間しか早くないでしょう。かなり譲歩したつもりです」


 ガルシア公爵が痙攣した。イリス王女が目を逸らしている。笑いを堪えているのだと後で知った。


 次に導入したのが、週次レポートだ。


 A4サイズの羊皮紙一枚。記入項目は五つ。領地人口、税収、公共事業の進捗、市場物価、住民からの要望件数。


「毎週月曜日の朝礼時に提出してください。フォーマットは統一です」


「フォーマット……?」


「書き方の見本です。これに沿って書いてください。自由記述ではなく、数字で。『順調です』とか『問題ありません』は禁止です。数字を書いてください。数字を」


 マルセル伯爵——社交界の華と呼ばれる貴公子——が蒼白になっていた。


「あ、あの……数字と言われましても、我が領の税収など把握して……」


「把握してないんですか?」


「…………そもそも、なぜ辺境伯の三男風情に……」


 空気が変わった。核心を突かれた——と思ったのは一瞬だった。


 イリス王女が立ち上がった。


「彼の命令は、私の命令です。つまり王家の命令。——異論は?」


 声は静かだったが、目が笑っていなかった。大広間が一瞬で凍りついた。


 マルセル伯爵が口をつぐむ。他の貴族も目を逸らした。この国の第一王女に楯突く度胸のある者は——いない。


「じゃあ把握してください。来週までに。それが領主の仕事です」


 俺は笑顔で言い添えた。


「……もし集計の仕方が分からなければ、俺が雛形を作りますので、お気軽にどうぞ」


 マルセル伯爵の顔が余計に青くなった。


 ——笑顔が怖いと言われたのは、前世からだ。


 以降、誰も「三男風情に」とは言わなくなった。俺の後ろには王女がいる。その事実が、この国のどんな理屈よりも重かった。



 地獄が始まった。


 いや、彼らにとっての地獄が。


 朝七時の朝礼。最初の一週間、半分以上の貴族が遅刻した。


 俺は遅刻者の名前を一覧にして、翌日の朝礼で読み上げた。


「遅刻者一覧です。ガルシア公爵、マルセル伯爵、ドーラン子爵、レナート侯爵……」


「や、やめろ! 名前を読み上げるな!」


「遅刻しなければ読み上げません。簡単な話です」


 二週目、遅刻者は三割に減った。


 三週目、ほぼゼロになった。


 人間は「恥」に弱い。これは前世で学んだ最初の法則だ。


 週次レポートは最初、壊滅的だった。数字の入っていない報告書。「おおむね良好」と書かれただけの羊皮紙。白紙で提出してきた猛者もいた。


 俺は全てのレポートを評価して、ランキングにした。


「今月の領地運営ランキングです。一位、トレンス辺境伯。二位、ハイドリヒ男爵。三位——」


「ま、待て。最下位は誰だ……」


「ガルシア公爵です」


「なっ——!」


「レポート未提出が二回、数字記載なしが一回。評価のしようがありません。ちなみに前の職場でこの成績だと、翌月にはデスクがなくなってました」


「デスク……?」


「机です。席がなくなるんです」


 ガルシア公爵は七十二歳にして、初めて「叱られる」という経験をしたらしい。


 その夜、ガルシア公爵の屋敷では、五人の執事が徹夜でレポートを作成していた。


 翌週、ガルシア公爵のレポートは内容量が全体の三倍あった。やればできるじゃないか。


 ——いや、執事がやっただけだが。まあいい。前世でも、社長が全部やる必要はなかった。部下に任せる能力も実力のうちだ。



 二ヶ月が経った。


 信じられないことに、国が動き始めていた。


 道路が直り始めた。レポートに「未補修の道路」を書かせたら、「書くのが恥ずかしいから直した」という領主が続出したのだ。


 税収が上がった。そもそも「自分の領地の税収を知らなかった」領主が半数以上いたのだ。知ったら、さすがに危機感を持った。


 市場の物価が安定した。流通ルートの問題を「宿題」として出したら、隣接する領地同士で勝手に連携し始めた。ランキングで負けたくないからだ。


 俺は何もしていない。


 仕組みを作っただけだ。


 ——前世と同じだ。仕組みを作れば、人は勝手に動く。恐怖でも、使命感でも、見栄でも。理由は何でもいい。動けばいい。


 イリス王女が執務室に来た。


「すごいわね。本当に国が変わってきている」


「当然です。この程度のことは、まともな組織なら当たり前にやっていることです」


「でも——ちょっと気になることがあるの」


「何ですか」


「あなた、楽しそうよね」


 俺は手を止めた。


「……楽しい?」


「ええ。人を動かしている時のあなた、すごく生き生きしてる」


 ——言われて気づいた。


 確かに、心臓が跳ねている。脳が冴えている。全身に血が巡っている感覚がある。


 これは——前世でも感じていた。社員が目標を達成した時。数字が伸びた時。組織が回り始めた時の、あの感覚。


 あの、人を支配している感覚。


 背筋が凍った。


「……殿下。俺は、少し怖いんです」


「何が?」


「俺が楽しんでいることが、です」


 イリス王女はじっと俺を見つめていた。



 三ヶ月目。反乱が起きた——というほど大げさではないが、限りなくそれに近いものが。


 ガルシア公爵を中心に、十二人の領主が連名で国王に直訴した。


「アルト・ヴァイザーの行政改革は、貴族の尊厳を踏みにじるものである。即刻解任されたし」


 直訴の場に俺も呼ばれた。国王の前で、ガルシア公爵が滔々と訴える。


「毎朝七時の出仕など、使用人の扱いだ!」


「公爵。使用人は六時に起きてますよ」


「黙れ! 我々は貴族だ!」


「はい。だから七時にしたんです。使用人より一時間遅い。これ以上寝かせる気ですか?」


「ぐ……!」


「週次報告も限度がある! 我々は毎週毎週、書類に追われている!」


「公爵。あれ書いてるの、公爵じゃなくて執事ですよね」


「な——なぜそれを……!」


「フォントが違います。というか筆跡が違います。あと、公爵の報告書だけインクの質が高い。明らかに別の人間が書いてます」


 大広間が静まり返った。


 ガルシア公爵の顔が紫色になる。


 ——このやり取り。このテンポ。この空気。


 知っている。前世の俺が、何度もやった。


 反論を潰す。逃げ道を塞ぐ。正論で追い詰める。笑顔で。


 あの新入社員も——こうやって追い詰めたのだ。


「……公爵」


 俺は声のトーンを落とした。笑顔のまま、一歩近づいた。


「不満があるのは分かりました。強制するつもりはありません」


 場の空気が一瞬、緩んだ。


「ただ、報告書の提出がない領地には、国からの補助金を停止します。これは財政上の判断です。感情ではなく、数字の話です」


 空気が再び凍った。


「それから——レポートの内容が著しく不十分な領地には、王室監査官を派遣します。帳簿の精査、税の使途確認、領民への聞き取り。全部、やります」


 ガルシア公爵の目が見開かれた。


「……そ、それは脅しか」


「いいえ。制度です。不服があれば、国王陛下にどうぞ——ああ、陛下はさきほど、この制度を承認されましたが」


 ——金で締めて、権力で蓋をする。ブラック企業の基本だ。


 国王は最終的に、俺の改革の続行を認めた。「成果が出ているから」という理由で。


 数字は嘘をつかない。前世でも今世でも、それだけは変わらない。



 その夜、屋敷に戻ると、イリス王女が待っていた。


「今日の御前会議、見てたわ」


「……ご感想は」


「怖かったわ。——正直に言うわ。あなたが、怖かった」


「……」


「あなた、本当に人の動かし方を知ってるのね。でも——あのガルシア公爵の顔を見た?」


「見ました」


「あの人、泣きそうだったわよ」


 胸が、ずきん、と痛んだ。


 前世の記憶。追い詰められた部下の顔。「もう限界です」と言う声を「甘えるな」と切り捨てた日。退職届を投げつけられた日。——そして、最後の日。包丁を持った新入社員の、泣いている目。


「……殿下。ひとつ聞いてもいいですか」


「何?」


「俺のやっていることは——改革ですか。それとも搾取ですか」


 イリス王女は答えなかった。


 代わりに窓の外を見た。


「……分からないわ。でもね、アルト。結果が出ているのは事実よ。道路が直って、税収が上がって、民の生活は良くなっている。それも事実」


「でも貴族たちは疲弊しています」


「ええ。でも民は救われている。——あなたの前の職場ではどうだったの?」


 前世。俺の会社。社員は疲弊していた。でも会社は成長していた。顧客は満足していた。株主は喜んでいた。


 ——それで俺は「正しい」と思っていた。死ぬまで。


「……ダメだったんです。前の職場は」


「何がダメだったの?」


「全部です。——いや、一つだけ言うなら。俺が『結果が出ているから正しい』と思っていたことが、一番ダメだった」


 イリス王女は少し驚いたように俺を見た。


「じゃあ——どうするの?」


「…………」


 どうする。どうすればいい。


 前世の俺は何も変えなかった。変える前に死んだ。刺されて、倒れて、天井のシミを見ながら死んだ。


 ——だから今世は。


「少し、やり方を変えます」



 翌週。


 俺は朝礼で、一つだけ制度を変えた。


「今日から、月に一度、全領主に自領の視察を義務付けます」


 貴族たちがざわめく。また何か始まるのかという顔をしている。


「ただし、視察先は王宮が指定しません。領主自身が選んでください。自分の領地の、一番見たくない場所を」


「……見たくない場所?」


「貧民街でも、壊れた橋でも、飢えた子供のいる村でも。あなたが一番見たくないと思う場所に行ってください。そして、見てきたことをレポートに書いてください」


 沈黙が落ちた。


 いつものような「ふざけるな」という怒号がない。


「……数字じゃなくていいのか」


 ガルシア公爵が、低い声で言った。


「はい。今回は文章で。あなたの言葉で。見たものを、そのまま」


 ガルシア公爵は黙った。


 ——数字で追い詰めることはできる。前世でやった。今世でもやった。


 でも数字では変えられないものがある。前世ではそれに気づけなかった。


 ……いや。気づいていたのかもしれない。気づかないふりをしていたのだ。その方が楽だったから。


 結果。


 翌月のレポートは、これまでと全く違うものになった。


 ガルシア公爵は——七十二歳のあの大貴族は——自分の領地の南端にある、半壊した漁村を訪れていた。


 レポートの最後に、こう書いてあった。


『儂は五十年も領主をやっていたのに、この村の名前すら知らなかった。恥ずかしいやら情けないやら、怒りすら湧いた。誰に対しての怒りかは、自分でもわからん』


 ——ガルシア公爵の筆跡だった。今度こそ、本人が書いたものだ。インクも安物で、字も震えていた。


 マルセル伯爵は、領地の炭鉱町を訪れていた。


『住民に話しかけたら、最初は領主だと信じてもらえなかった。無理もない。私はこの町に一度も来たことがなかったのだから』


 レナート侯爵は、国境沿いの農村を訪れていた。


『子供たちは裸足だった。冬なのに、靴がないのだ。税を取るだけ取って、何も返していなかったことを、今日知った。四十七歳にして、初めて』


 俺はそれらのレポートを読みながら、少し——ほんの少しだけ——息を吐いた。



 その後の半年は、驚くほど早かった。


 貴族たちが変わった。全員ではない。でも何人かが、確実に変わった。


 ガルシア公爵は毎月、領地の別の村を訪れるようになった。訪問先で聞いた要望を、自分の財源で対応し始めた。


 マルセル伯爵は炭鉱の安全基準を改定した。社交パーティーの回数が半分に減った。


 レナート侯爵は——靴を送った。国境の農村に、子供用の靴を。自分の侯爵家の紋章入りの、立派な靴を。


 数字も上がった。税収は前年比三十パーセント増。道路の補修率は九十二パーセント。市場の物価指数は安定。防衛予算が確保され、隣国の圧力に対する抑止力も回復した。


 国庫はパンパンだった。別に魔法を使ったわけでも、新しい税を作ったわけでもない。領主たちがサボっていた分が、まともに回収され、まともに使われるようになった。ただそれだけだ。浮いた予算で街道を整備し、橋を架け、農地に水路を引いた。国民の生活が目に見えて変わっていく。


 大陸議会が発行する「国力番付」で、ラグナリア王国は十位から四位に跳ね上がった。たった半年で。


 ——前世の会社も、同じだった。仕組みを入れただけで売上が倍になった。人を絞れば、数字は出る。当たり前の話だ。


 王国は、まだ統一されていない。北の三領主は反発を続けているし、南の離島は独立気運がある。


 でも——動き始めた。


 歯車が噛み合い始めた。


 俺はそれを見ながら、前世を思い出していた。


 あの頃も——歯車は噛み合っていた。会社は成長していた。数字は上がっていた。


 そして社員は壊れていた。


 今は、どうだろう。


 分からない。正直に言えば——分からない。



 半年後の朝礼で、ガルシア公爵が俺に歩み寄ってきた。


「……アルト殿」


「はい」


「その——礼を言わねばなるまいと思ってな」


「礼?」


「儂はあなたを恨んでいた。朝七時に叩き起こされ、毎週書類を書かされ、名前を全員の前で読み上げられた。殺してやりたいとすら思った」


 ——殺す。


 腹の奥が、きゅっと冷えた。


「だが、今なら分かる。儂は怠けていた。五十年も。領民の顔も知らず、名前も知らず、税だけ取って暮らしていた。それを突きつけてくれたのは、あなただ」


「……」


「感謝する。本心だ」


 俺は、笑おうとして——笑えなかった。


『殺してやりたいとすら思った』


 前世の新入社員も、そう思ったのだろうか。


 そして——実行した。


「公爵、一つだけ聞いていいですか」


「何だ」


「もし俺のやり方が——もし俺が間違っていたら、言ってくれますか。止めてくれますか」


 ガルシア公爵はきょとんとした顔をして、それから豪快に笑った。


「何を言っとる。間違っていたら止めるに決まっておろう。儂は貴族だぞ。使用人じゃない」


「……そうですね」


「それとも何だ。前の職場では、誰も止めてくれなかったのか?」


 ——止めてくれなかったんじゃない。


 止めようとした声を、俺が聞かなかったのだ。


「……まあ、そんなところです」


 ガルシア公爵は、不思議そうに俺を見ていた。



 夜。


 執務室で一人、報告書の束を確認していると、イリス王女が来た。


「まだ働いてるの」


「報告書の確認が残ってまして」


「あなたこそブラックよね。自分自身に対して」


「はは。否定できません」


 イリス王女は椅子に座って、窓の外の月を見た。


「ねえ、アルト。あなた、前の職場で何があったの」


「……何もありませんよ」


「嘘。あなた、時々すごく遠い目をする。何かを思い出して、怖がっている顔」


「……」


「教えてくれなくてもいいわ。でもね——あなたが怖がっているうちは、大丈夫だと思う」


「大丈夫?」


「自分のやり方を怖いと思える人間は、まだ引き返せるってこと」


 ——引き返す。


 前世では引き返さなかった。引き返す前に、腹を刺された。


「……殿下。俺は前の職場で、人を壊しました」


「…………」


「それも自覚なく。自分では正しいことをしていると思っていました。結果が出ていたから。数字が上がっていたから。——最後に、壊した相手に刺されました」


 しまった。言いすぎた。


 だがイリス王女は動じなかった。


「……刺された?」


「比喩です」


「嘘ね。でもいいわ。比喩ということにしておく」


 沈黙。


「……それで、今はどうなの」


「何がですか」


「今のあなたのやり方。前の職場と同じ? 違う?」


 俺は少し考えた。


 朝七時の朝礼。週次レポート。ランキング。補助金カット。——手法は、前世と大して変わらない。


 変わったのは——何だろう。


「……分かりません。正直、分かりません。手法は同じです。人を追い込んで、動かして、結果を出させる。構造は変わっていない」


「じゃあ何が違うの」


「視察を入れたこと、ぐらいですかね。数字だけじゃなく、自分の目で見ろと。——前世の俺に足りなかったのは、たぶんそこです。現場を見なかった。数字だけ見て、人を見なかった」


「それは——大きな違いよ」


「そうでしょうか」


「ええ。少なくとも、ガルシア公爵は変わったわ。あの人、先週から毎朝六時に起きてるらしいわよ。自主的に」


「六時? 七時の朝礼より一時間も早いじゃないですか」


「年寄りは朝が早いのよ」


 少しだけ笑った。


 少しだけ——本当に少しだけ——胸が軽くなった気がした。



 ——だが。


 その翌月のことだ。


 夜、執務室で一人レポートを精査していたら、背後から刺された。


 ——は?


 振り返る。若い貴族だった。見覚えがある。マルセル伯爵の家の次男だ。目が据わっている。手には短剣。


 俺の腹に突き立てた短剣が——弾かれた。


 金属音ではなく、柔らかい光の音がした。胸元に隠した護符が淡く輝いて、消えた。


 ——『命守りの聖碑いのちもりのせいひ』。


 改革を始める前に買った。ヴァイザー家の遺産相続分を全額つぎ込んだ。金貨八百枚。家一軒分の値段だ。


 致命傷を三回まで無効化する、この世界で最も高価な防具の一つ。


 なぜ買ったか。理由は単純だ。


 前世で刺されて死んだからだ。


 前世の経験から学んだのは、反省でも贖罪でもなく——リスクヘッジだった。人を追い詰める仕事をするなら、刺される前提で備えろ。


「あ……あ……」


 マルセル伯爵の次男が、短剣を握ったまま震えている。刺したはずなのに、相手が平然としている。そりゃ怖いだろう。


「落ち着いてください」


 俺は笑顔で言った。


「お気持ちは分かります。——前の職場でも同じことがありましたから」


「な、なんで……死なないんだ……!」


「死なないようにしてあるんです。経費です」


 経費。


 そう、これは経費だ。人を追い詰める仕事をするなら、刺されるリスクは織り込み済みだ。前世ではそれを怠った。今世では最初に手を打った。


 ——それだけの話だ。


 衛兵を呼んで、マルセル伯爵の次男を引き渡した。


 翌日の朝礼は通常通り七時に始めた。


「昨夜、刺されました」


 場が凍った。


「ご安心ください。護符があるので無事です。それよりレポートの提出が遅れている方が三名いらっしゃいます。マルセル伯爵、ドーラン子爵、カイン男爵。本日中にお願いします」


「い、今のは聞き流せんぞ!? 刺されたと言ったか!?」


「はい。でも死んでないので業務に支障はありません。レポートの件ですが——」


「支障はないではないわ!!」


 イリス王女が立ち上がっていた。顔が真っ白だ。


「あなた、刺されたのよ!? なぜそんなに平然としていられるの!?」


「護符がありますので。あと二回は大丈夫です」


「あと二回!?」


「はい。三回まで有効なので、今回で残り二回です。コスト的にはまだ余裕があります」


 大広間が、完全に沈黙した。


 誰も何も言えなかった。


 ——この男は、刺されることを前提にしている。刺されるリスクを計算に入れて、それでも改革を止めない。


 狂っている。


 たぶん、全員がそう思っただろう。


 俺自身もそう思う。


 残り二回。


 なくなったら経費で落とす。まだやれる。

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― 新着の感想 ―
つ、つよい あと2回までは刺されてもオッケーとか、 そこまで振り切れた人は、一種のカリスマだ…… そこまでキマってるなら、人がついていくわな… できれば彼に幸あれ。
若手社員を壊す前に自分自身を壊してたってこと・?!こわ!
物凄く面白かった。 辛かったけれど、むちゃくちゃ面白かった。 人が生きて関わりつながり働く姿がここにあった。 畳の上で死ねない人の生き様。畳ない世界だったわ。
感想一覧
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