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最終日・戦士ときーちゃん


店に戻ろう。

公園を出て角を曲がった途端、彼女と目が合った。木下さんだ。


『ご、ごめんなさい。見るつもりはなかったのだけど、連絡も返信がないし、近くにいるなら探そうと思って。』


スマホを見ると、なるほど。彼女から

解散しました。井上さんは大丈夫ですか?

のLINEが入っている。


『そうでしたか。わざわざすみません。他の方達は?』


『みんな思い思いに二次会を開催したり、帰ったりしたみたいです。』


『木下さんお一人ってことは、もう帰られるところですか?』


しばしの沈黙。なぜ口を噤む必要があるんだ。

待てよ、見るつもりはなかった。そう言っていた。どこから見ていたかはわからないが、おそらく彼女に抱きしめられたところは見ていたのだろう。


『その…井上さんって彼氏がいると聞いていたんですけど…その。』


木下さんはとても言いづらそうに話す。

彼女の代弁をするのであれば、彼氏がいる女になにをちょっかいかけているんだ。ナルちゃんめ。と言うところだろう。


だがここで素直に別れたと言うことを明かしていいのか?彼女のプライバシーを守る必要があるし、彼氏をすぐ乗り換えようとしている。なんて誤解を与えてもいけない。そんな意味のある抱擁ではなかったと思っている。

うーん…


『いえ。いいんです。ご本人達にもいろいろな事情もあるでしょうから。私もそろそろ失礼しますね。』


マズい。せっかく仲良くなれそうなチャンスなのに、ここを逃せばきっと彼女とは仲良くなれないだろう。


『あの、木下さん。よければこのあともう一件。いかがですか?』


沈黙が流れた。彼女は視線を彷徨わせ、ひどく不安定な感情を見せる。


『…先ほどの件について、事情を尋ねるかもしれません。それでもですか?』


彼女は強い目でこちらを見た。


『構いません。答えられることであれば。』


僕もしっかりと見返した。


駅前におしゃれなバーがある。そんなことを話していたのは確か軟派だったか。木下さんをここに連れて行き、酒と雰囲気に酔わせて。みたいな話だったろうか。

酒を飲む場所なんて洒落たものを僕は知らない。軟派よ、君が軟派でよかった。利用させてもらう。


ウォールナットのテーブルが設えられた半個席に案内された。

目の前には不安げな表情を隠そうともしない木下さんだ。

それぞれ酒を注文する。僕は強いのをぐいっとやりたい気分だ。


注文を聞きにきたウェイトレスにジン系で強いの、好き嫌いはないからあとは任せる。という合ってるかどうかわからない注文をした。


彼女も同じのをと告げていた。酔いたい気分なのは変わらないらしい。


『まずは細かいことは忘れましょう。こうして木下さんとご一緒できることを嬉しく思います。ありがとうございます。』


酒がテーブルに置かれた。マティーニというらしい。


『私もです。お誘いいただいてありがとうございます。』


チンとグラスを鳴らした。

これは強い。喉から順に体が焼けていくようだ。

彼女も唇を濡らす程度を飲み、驚いている。


『強いけど、美味しい。』


彼女はそう呟いた。


『お酒、好きなんですね。マティーニを飲んで美味しいと言えるのはお酒が好きな証拠です。』


とりあえずらしいことを言っておこうとした精一杯の背伸びだ。


『お詳しいんですね。』


『いえ、たまたまです。』


しばしの沈黙。無言でグラスを傾ける。こういう時が一番酔うんだよな。


『先ほどは色々とありがとうございました。そして申し訳ありませんでした。あなたのために隣を空けていたのですが、強引に割り込まれてしまって。』


『いえいえ。いいんです。木下さんの顔を見た瞬間から軟、戸田が強引に行ったんだろうなと思ったので。』


『だから助けてくださったんですか。その…ビールをわざとこぼしてまで。』


『気に食わなかっただけですよ。あの雰囲気。得意な人がいるとは思えない。口説くにしたってもっとスマートなやり方があったはずだ。』


『とても助かりました。あのままならどうしようかとほとほと困り果ててたものですから。』


『それに英雄は井上さんです。それにしても驚きました。酔ってあんな風になるなんて。』


彼女はようやくクスッと笑った。


『ええ。本当に。場の空気なんてお構いなしでしたからね。羨ましい。』


『憧れないでくださいよ?あれは中々の諸刃の剣ですからね。』


僕もニヤッとして答えた。


『そうかもしれませんね。』


彼女の表情がどんどんと赤みを増し、にこやかになっていく。


『だからこそ、ハッキリ聞いておきたいんです。あの公園で起きたこと。』


ついに核心か。僕は同じ酒を注文し彼女もそれに倣った。


『彼女のプライバシーに関わることです。言えないことの方が多い。』


『…別れた、ということですよね?彼女少し前に、このまま付き合っていていいのかとか。色々と話をしてくださったので。』


彼氏自慢されたのはいつだったか。1週間たたずして別れてるのなら、むしろ体験版としてなら十分にありうる。か。


『ご存じなら。はい。あの公園でタクシーに酔っ払いだと拒否され、困り果てた際に彼氏に連絡するよう促したんです。その時の発言でした。』


『そういうことでしたか。それで公園にいたんですね。私はその。てっきりお二人がそういう関係になったんだと。』


言いづらそうにしている。ここまで酔った上で言いづらそうにしているということは、素面ではまず聞けないセリフだろう。


『いいえ。それは断じて違います。木下さんを守ったことを褒めてくれた?みたいなニュアンスでした。お互いお酒の上ですし、彼女もだいぶ前後不覚でしたから。さして含みがあるとは思っていませんよ。親愛のものとありがたく受け取ることにしています。』


正直に伝えた。聞く側としては微妙だろう。


『そうでしたか…。すみません。私に関係のないことなのに、根掘り葉掘り聞いてしまって。どうしても気になってしまったものですから。』


顔の赤みが増している。


『お気になさらないでください。気にかけていただけるだけでこちらは嬉しいものですよ。』


楽しい時間はあっという間に過ぎる。ついこの前までは冷たい目で僕を見ていた彼女が、今ではこんなにも表情豊かに僕と話をしている。このことが僕はたまらなく嬉しかった。ナルちゃんも喜んでいる。


『そろそろ出ましょうか。終電も近くなってきましたし。』


『え、ええ。そうですね。』


少し引っかかる言い方だったな。だとしてもまさかこの木下さんが一夜のラブストーリーなど求めているはずもないが。


会計を済ませて店を出た。やはりきっちりと半額は支払うスタイルのようだ。

階段を降りる彼女の足元がおぼつかない。確かにあれだけ飲んだんだ。鉄の心で耐えている僕はともかく、彼女は相当酔っているのだろう。


『す、すいません。酔いが回ってしまって。』


彼女の肩を抱きながら階段を降りていく。うーん。これぞ役得。男冥利に尽きる展開だ。


『構いませんよ。付き合わせすぎました。』


『少し休ませてもらえませんか?座れる場所があれば…』


『駅まで行っちゃいましょう。そこまでいったら一息つけます。』


彼女を支えながら道中を歩く。自販機で水を購入し彼女と共に水を飲んだ。

駅に着いたと同時に時間を忘れていたことを思い出す。終電まであと5分。あまり時間がない。


『木下さん。終電まであと5分です。』


ホームのベンチに並んで座る彼女に報告した。彼女は目を回しているのか焦点が定まっていない。


『はい。すみません。ご迷惑ばかりおかけして。』


『いいんです。酒を飲む時は無事な方が介抱するってルールですから。次僕が立てない時は頼みますよ?』


彼女は優しく微笑んだ。


『ふふっ、また飲もうって誘われたように聞こえました。』


『あっ、すいません。そこまでは考えていな』


『いいですよ。でも条件があります。』


僕はぴたりと黙った。彼女は焦点の合った目でこちらをじっと見た。


『抱きしめてください。井上さんよりも長く。』


立ち上がりこちらを真っ直ぐに見た彼女は冗談を言っている顔ではなかった。頬は赤らんでる。足元はふらついている。だが、何か芯のようなものを感じた。


アナウンスが鳴りはじめた。これからけたたましい音を鳴らしながら電車がホームに滑り込んでくるだろう。


『さっきは抱きしめられたんです。でも今回は僕が抱きしめる。その違いは大きいですよ?』


彼女を優しく抱きしめた。

僕の時間は止まり、彼女の時間も止まったに違いない。動いているのはこちらを見て来る他の乗客と、ものすごい勢いで滑り込んでくる電車のみ。


不意に彼女からも抱きしめられた。ゆっくりと背中に手を回し力を入れてくる。


『好きです。中谷さん』


けたたましい電車の音が鳴り響く中、確かに鼓膜に届いたその四文字が、僕の心臓をこれでもかと打った。

パッと彼女は僕から離れると、電車に乗り込む。僕は温もりの喪失感に惑わされ、うまく言葉を紡ぐことができない。


『また来週。』

優しく手を振る彼女の姿が目に焼き付いた。

自然と僕も手を振り返し、この姿を脳裏に焼き付けよう。その一心で彼女をひたすら見つめ続けた。


電車のアナウンスが鳴り、ドアが閉まる。

彼女はこちらを見たまま景色の向こうに溶けていった。


今し方起きたことの整理がつかない。

頭が回らない。思考が冴えない。緊張状態が一気に抜けた僕は、文字通りベンチに体を投げ出した。抑えていた酔いが一気に回った気分だ。


井上さんのこと、軟派のその後、二次会のマティーニ。

様々なものが朧げに頭に浮かんでは消えてゆく。

長い1日、いや1週間だった。


木下さんの笑顔をかけた死闘を制し、僕は勝利した。しかし、何だろうこの感情は。彼女との不思議な距離感は今日で一気に詰まった。


僕は思う。今日もまた、勝ち残った。恋愛という戦場に打ち勝ち、そして自分達だけの平和なひとときを手に入れたのだ。

僕は次なる戦いに備える。来週もまた、社会という戦場は容赦なく僕を待っている。しかし今はこの幻想に身を埋めていたい。

以上になります。閲覧いただきありがとうございました。

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