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最終日・戦士の隣


職場から飲み会に移動する時のこの一瞬の空白。この空白がいつになっても慣れない。みんなの動向を観察し、移動を始める雰囲気作り。そして会場には誰とどう行くのか?そして最後、自分は誰の隣になるか。


誰の隣に着くか。上記は全てこれのためと言っても過言ではない。


会場に着いた途端、まるで常識のように奥から詰めていく。つまりその時に隣に立っている人間が隣に座る可能性が高い。


そしてそんなことは全員が熟知している。従って定時になった途端、我々の心理戦の火蓋が切って落とされるのだ。


引用『飲み会の極意、あなたの隣に座るには…?』より一部抜粋。 著者ナルちゃん。


『お先に失礼します。』


僕は誰よりも早く部署を出た。飲み会?隣の席?知ったことか。ナルちゃんの隣に座りたがる女性社員などはいない。


当然軟派に僕の飲み代は出させるのだ、あとは普段口にしないほんの少しの贅沢として、酒と食事を頂ければそれで良い。その意味では中央に近い座席も捨て難いが…うーん。


ドアが開きます。エレベーターが僕に語りかける。

そうだった。僕が僕の頃、一番最初に好きになったのは君だったね。エレベーター。

いつも健気に僕を乗せ、文句一つ言わず僕を連れて行ってくれる。佐倉さんでも井上さんでも、木下さんでもない。僕が唯一心を開けるのは君だけだよ、エレベーター。


1Fを押し、ドアが閉まろうとする刹那、こちらに向かって歩いてくる人が見えた。

すかさず社会人テクニック『忖度』を発動し、慌てて開を押す。

これをできずにライオンがエレベーターを逃した。なんてことになれば僕の未来は暗澹たる結果になるだろう。


『すいませーん。』


そう言い乗ってきたのは井上さんだ。

再び閉を押し、エレベーターのドアが閉まった。

何故だろう。普段会話をする人だとしても、エレベーターの中では気まずくなることがある。密室で2人きり。この状況で平気かどうかという指標が、ある意味本当の仲良しかの境界なのかもしれない。


『今朝はすいませんでした。私ったら何回も…』


前言撤回だ。こんな気まずい話をこんな気まずい場所で普通に話しかけてくる彼女が、気まずさなど感じているはずもない。


『いえ。気にしていませんよ。僕も悪かったですから。』


『ほんと、私ったら昔からバカなことばっかやってて…元彼も、周りのみんなもそこが良い。って言ってくれてたんです。でもそれは認められてるみたいですごい嬉しいけど、でもやっぱりそれも嫌で…バカだけど仕方ないって。そう思われてるのかなって。』


なに?いきなり独白めいたものが始まった。彼女はどうやら自分について真剣に悩んでいるらしい。


少しはこの場の空気についても悩んでもらいたいが。

エレベーターがゆっくりと1Fへと向かっている。僕に与えられた使命は、ドアが開く前にこの会話に区切りをつけること。さもなくば、離脱のタイミングを失うどころか隣の席に座る羽目になるかもしれない。井上さんが酔えばどうなるか…考えなくともわかる。おバカA最終形態の出来上がりに違いない。


『僕は少し違うと思いますよ。みんなバカだから良いって言ってるんじゃない。悩んで頑張っている井上さんも含めて良いって言ってるんじゃないですか?もし井上さんが、私バカでも良いんだって考えてたんだとしたら、みんな良いって言ってくれなかったと思います』


終業後のエレベーターで何を言わされているんだ僕は。


『そう、かな?わたしはバカでも良いってこと?』


判断に困る。バカでも良いわけじゃない。だが、彼女は本当に僕の発言を受けてこう言っている可能性もある。


『精一杯悩んで、精一杯頑張るバカならみんな好きってことですよきっと。』


『あなたも?』


おっと。予想外の発言だが、これには他意はないだろう。だがナルちゃんを経験した僕から言わせれば、これはセクハラと紙一重だ。逆の立場でやっている場面を想像してもらいたい。


『ええ。』


井上さんがにっこりと笑った。かわいい。


ドアが開きます。エレベーターの音が鳴る。完璧だ。あの限られた時間で綺麗に話に区切りがついた。ここからは自然な流れだ。エレベーターの開を押す側の僕の出足が少し遅れることにかこつけて、少しずつ距離を離していき、それじゃ失礼します。これで行ける。プランは完璧だ。


『あなたも飲み会行くんですよね?一緒にいきましょう?』


笑顔も合わさって会心の一撃だ。ここから断るのはあまりに気まず過ぎる。かと言ってノリノリで着いていったとしても待ち受けるのはおバカA最終形態。


落ち着け、考えろ…

現在時刻は17時8分。飲み会の開催は18時丁度、軽い残業程度ならこなして来るゆとりある時間設定だ。ここでYESと答えれば、少なくともあと1時間くらいは彼女と一緒にいる羽目になる。保つか?正直自信がない。

だがここで断れば、一緒に行くのすら嫌がる。さっきは好きと言ったのに、という彼女の思考のモヤモヤが生まれるはずだ。用事があるといったとしても、着いて来られる可能性すらある。大人だから問題ない?おそらく通用しない。

今後のことを考えればYESという他ない。

であれば…

そうだ。閃いた。

この擦り付け作戦なら彼女に不自然さもなく行ける。(この間1.4秒)


『もちろんです。ただ、少し早いですね。そこのベンチで時間を潰しませんか?』


会社前のベンチを指差した。


『そうですね。中々話する機会もなかったし、楽しそうです。』


かかった。理想通りの展開。

作戦はこうだ。会社前のベンチで時間を潰し、道ゆく戦士たちの退勤を眺めていれば、必ず飲み会参加メンバーが通る。そのメンバーたちが井上さんに声をかけたタイミングを見計らって会社に忘れ物をしたと言う。そうすれば井上さんはなんら疑問に思わずにそのメンバー達と飲み会に行くだろう。完璧だ。


『ええ。では飲み物でも買ってきます。』


ゆっくりと近場の自販機に行く。

もちろん一緒に仲良く座っているなど周りからすれば怪しいことこの上ない。リスクのある作戦だ。少しでも距離は離れていたほうがいい。僕の精神面の負荷を和らげる目的もある。


彼女は何を飲むだろうか…確か給湯室では、彼女専用の砂糖が置いてあったはずだ。なら甘い缶コーヒーでいいだろう。ベンチに戻り彼女にコーヒーを渡した。


『えー、すごーい。わたしが甘いの好きなの知ってたのぉ?』


まずい。本来の姿に戻りかけている。ここはあえてブラックが正解だったのか。


『なんとなくそんな気がしただけです。』


『わたしのこと、ちゃんと見てくれてるんだぁ』


コクリとコーヒーを飲む彼女。なんだか不穏な発言だ。前に彼氏に似てると言ってきたり、今回のこの発言といい。言い回しが自然とは言えない。だが、狙ってやってるとも思えない。これを狙ってやっているのなら腹黒No. 1の座は腹黒のものではないということになる。


『たまたまですよ。当たってよかった。』


観察の結果など口が裂けても言えない。良くも悪くも影響は深刻だ。


『あっ、井上さーん。と、お疲れ様です…』


確かこの子は経理の子だったはずだ。

僕らを見て明らかに陽と陰を使い分けるのはやめていただきたい。


『あっ、神田さーん。お疲れー。』


神田さんというのか。僕は神田さんは好きになれない。僕のことが嫌いな子は僕も嫌いだ。


『これから飲み会でしょ?一緒に行こう?』


神田さんはとびっきりの笑顔を井上さんに向けるものの、こちらを伺う頃には完全に不審者を見る目を僕に向けている。わかっている。わかっているさ。


『あーすいません井上さん。デスクに忘れ物が。先にお二人で行っててください。失礼します。』


『あぁ、そうなんだぁ。残念ですぅ。わかりました』


ああ。井上さん。君がおバカAで良かった。

だがそこの女、聞こえるように、変なこと言われなかった?と聞くのはやめろ。失礼にも程がある。


そそくさと会社に戻る僕。

作戦通りだ。寸分狂わず狙い通りの結果だ。だが何故だろう。少しだけ悲しい。


デスクに来はしたものの、もうアリバイは出来てしまった。あとは社内にまだ残っている人間に、いかにも忘れ物をした奴だという動きさえ見せればいい。


僕はポケットの中の自宅の鍵を手に握り込み、その手でデスクの引き出しを開け、いかにも引き出しの中から鍵を出した風を装う。

美しい、観客のいない1人劇。僕のこの行動は誰も見られていないのに、井上さんに対して筋を通した。

そもそも嘘をつくなという話は置いておいて。


時刻は17時20分。頃合いだ。歩いていけば20分で着く。ゆっくり歩き、途中でコンビニにでも寄ればいい。


『ふうむ、感心だねぇ。』


僕の全身がレッドアラート状態になった。

完全に油断した。記者に背後を取られるとは。


『課長、お疲れ様です。』


『今日はみんながやけに慌ただしく帰っているのが気になってねえ。飲み会でもやるのかい?私は誘われていないがねぇ。どうしてだろうねぇ?』


記者め…先ほど経理の人間に対して、権威と高圧で取材をしていたのを僕は知っている。飲み会が開かれるという事実を知りながら、あたかもなんとなく気づきましたという雰囲気での語り口。そしてその事実を僕の精神を削るために利用する根性。記者の名は伊達ではないようだ。


記者が話し出した途端に残っていた人間は、小さくお疲れ様でしたと呟き、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていく。何故。何故僕だけがこんな仕打ちを。どうしてか言って欲しいなら言ってやってもいいんだぞ。


『そうですね。あまり細々とした会に課長をお誘いするのを躊躇う気持ちは、わたしもそれなりに理解はできます。』


『では、細々としてない会ならわたしは誘われると?』


裏を返せば、を用いるタイミングを考えろ。ハラスメントで僕を断罪しようとするのなら、何故この男はいまだに会社にのさばっていられるんだ。


『そうでしょうね。幹事がどなたかもあるでしょうが。』


『そうかそうか。君が幹事なら喜んでわたしを誘うと?では仕方ないねぇキミィ。お言葉に甘えるとしようじゃないか。来月誘ってもらおう、幹事は当然君だ。』


ライオンよ、今ならあなたの靴を舐めたっていい。どうか僕を救ってくれ。

不自然にならない程度の間を置き、神の慈悲が来ないことを確認した上で


『ありがとうございます。楽しみにしていてください。』


社会人テクニック『営業スマイル』と『ポーカーフェイス』の複合技をお見舞いした。表情筋を動かす営業スマイルを使い、ポーカーフェイスで固定。さもなくば今にも涙が頬を伝いそうだ。


『任せたよお、キミィ、それじゃあ、お先。』


お疲れ様です。なんとか伝えることはできた。

ガックリと膝をつかないで立っている僕を褒めてもらいたいくらいだ。

もう無理だ。なんで僕がこんな仕打ちを受けなければならない。飲み会?無理だ。こんな気持ちで酒が美味いわけがない。


今日は欠席の連絡を軟派に送ろう。


まるで泥の中を歩くような重い足取りで廊下を歩いていく。僕は負けた。あの状況を覆す術を持たず、策を巡らせることもできなかった。美しい1人劇に酔っている暇があったのなら、すぐに帰るべきだったのだ。


『お疲れ様です。今からですか?』


木下さんだ。今日はよく会う。

この邂逅は何を意味するか。わかっている。彼女も僕に飲み会に行けと強要する。来るとホッとすると話していたということは、僕が来ないと不都合があるんだろう?僕は行かなくてはならないということだ。


『お疲れ様です。ええ。』


『せっかくです、一緒に行きませんか?』


雲間から一筋の光が差し込んできた。その光は瞬く間に大きくなり、数秒かけて雲を払いのけ、今僕の心は雲ひとつない晴天。その中を自由に駆け回る僕。隣には木下さんだ。


『ええ。もちろんです。』


今この瞬間だけは顔を覗かせたナルちゃんに任せよう。あまりの出来事の連続でメンタルが崩壊しかけているからだ。

ただし、首輪はしっかりとつけて。


2人でエレベーターに乗り込む。今日は色々な女性と2人きりでエレベーターに乗っている。ごめんよ、エレベーター。決して浮気ではない。君以外にも愛する女性ができた。それだけなんだ。


『今日は参加してくれてありがとうございます。広報の方とは面識がなく断ろうと思ったんですが、あなたが来るからいいでしょう?と経理の子に押し切られてしまって。』


『僕との面識と言っても、あまりいい思い出ではないのが残念なところですが。』


『今となってはもう大したことじゃありません。それより、周りがまだ誤解をしてるみたいなのが少し…』


『いえ。当然かと。むしろ木下さんがこうして接してくださることに感謝しています。』


『少し、面白いなと思って。』


『面白い?ですか?』


『ええ。あなたのことは何度か見る機会がありました。普段はキッチリ仕事をなさって、物腰も柔らかく論理的。ただ、その…異性というかそういう方面になるとまたその…おかしなことをするというか。そのギャップが面白かったんです。私、内心では大して怖くはありませんでしたよ。ただ、目をつけられたら厄介だなという思いはあったので…』


『えーと、はい。申し訳ありません。』


『いえ、いいんです。今はそういう面がなくなった、とは今朝聞きましたしね。』


エレベーターのドアが開いた。

今度は距離を離そうとは思わない。ドアを開ける僕を、彼女は後手にバッグをさげて待っているからだ。


タクシーに乗り込み、行き先を告げる。

ゆっくりと走り出したタクシーの車内は、どことなく落ち着いた雰囲気に感じられる。彼女が以前持っていた警戒心がほとんどなくなっているのは事実なのだろう。ここでナルちゃんに任せれば、本当に彼女及び経理の全員から嫌われるのは目に見えている。

今はただ、この居心地の良さを噛み締めていたい。


タクシーが居酒屋の前に着くと、料金を支払う。僕は当然のように全額を支払ったが、彼女は当然のように半額をこちらに渡してきた。

結構です。という僕に対してしっかりとした眼差しで受け取って欲しいと彼女は言い、僕はそれに屈した形だ。なるほど、しっかりした人だ。


『じゃあ、お先にどうぞ。僕なんかと一緒に来たって見られたら、それこそ、どうかしてると思われますよ。』


『そうでしょうか?でしたら先に行かせてもらいます。でも、隣は空けておきますね。』


彼女はそう言って居酒屋のドアをくぐっていった。


僕は…何かを期待してもいいのだろうか。ナルちゃんではない、僕すらもそう感じ始めていた。

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