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最終日・戦士とナンパ


何故だろう。体が重い。昨日の激闘が微睡の中渦を巻いて僕に襲いかかる。

ライオンの雄叫び、佐倉さんの涙、井上さんと記者の置き物感。腹黒の嫌味。


あれだけの戦闘があった後にも関わらず、社会は朝を強制する。重い体を起こし身支度をして家を出た。


哀愁漂う戦士達はいつにも増して寂しげに見える。まるで操り人形のように足だけをセカセカと動かし、表情はぼんやりと暗い。僕も同じ顔をしているのだろうか。


会社が見えてきた。と同時にまた昨日の光景がフラッシュバックする。ナルシストのナルちゃん…ナルちゃん…ナルちゃん…。


『おはようございます。』


うわあ、という声のぅくらいが飛び出てしまった。不意打ちで僕に挨拶をしてくる人などそう多くはないのに。

おはようございますのぉくらいを発声しながら隣を見た。

木下さんだ。

案の定、僕の挨拶はリズムを失い、ぉおぅふみたいな発音になった。


『何ですか?』


木下さんはそう僕に聞き返した。


『おはようございます。いえ、何でもありません。少し驚いただけです。』


極力明るく言ったつもりではあるが、いつもの声のトーンは出ない。

そのまま彼女との会話は終わったものだと確信し、また歩き始めた。だが


『今日はいい天気ですね。』


木下さんが会話を続けようとしたことに驚いた。


『え、ええ。あの、何か…?』


図らずも昨日の木下さんと同じ対応をとってしまった。だが、その経緯は天と地ほどの差がある。


『何って、歩いてるのを見かけましたから。話でもしながら歩こうかと思いまして。それとも急いでますか?』


クスっと笑いながら彼女はまさに昨日と同じ対応を逆の立場でやっている。


彼女の笑顔を見た瞬間、僕の脳は完全に覚醒した。

落ち着け、考えろ…

彼女のこの一日での変わりようは一体なんだ?

(それにしても笑顔がかわいい)

ナルちゃん事件があって、この人は間違いなく被害者だったはずだ。その被害者である彼女が僕に対してよそよそしくなる訳でも、邪険にする訳でもなく、こうして笑顔を見せながら隣を歩いている。おかしい。それなりの時間彼女を見てきた僕だが、笑顔を見たことなんて一度もなかった。それが昨日に続き2回連続だ。ハットトリックを願ってもいいのだろうか。

(それにしても笑顔が美しい)

まさか、僕の溢れ出る魅力が彼女に対して…いけない。ナルちゃんはもう卒業したんだ。

とすると、可能性としては昨日の出来事に対する社会人必須テクニック『フォローアップ』か。確かに全く仕事での絡みがない訳じゃない。社内コミュニケーションを円滑にするためにも、マイナスがあったらそのマイナスを埋めるだけのプラスを与えなくては釣り合いが取れない。なるほど、読めたぞ。(この間1.2秒)


『いえいえ。行く先も着かなきゃ行けない時間も一緒なのですから。』


『案外手厳しいんですね。皮肉がお上手だとは思っても見ませんでした。』


この心地いい会話のリズム。どっかのおバカAに木下さんの爪の垢を煎じて飲ませたい気分だ。

わかるかい?井上さん。読解力が試される問題だ。そろそろ昆虫博士は卒業しようね。


『申し訳ありませんでした。今までの僕ではなく、ありのままの僕でいようと恥ずかしながら思いまして。』


『そうですか。とてもいいことだと思いますよ。前の時よりずっといい。』


『木下さんの前ではもう恥も外聞もありませんからね。』


自嘲気味に笑った。


『そうですね。でも前のイタイ作り笑いよりもよっぽど人間味があります。それではここで。』


『え、ええ。わざわざお気遣いいただきましてありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。』


会社の前に辿り着き、彼女に礼を言うと僕はエレベーターに乗り込んだ。

知らない顔と知っているのに知らない顔に囲まれながら8階に着いた。


『おはようございます。』


挨拶をしながら歩く。


『おはようございます。』

佐倉さんの無機質な声が聞こえた。そうそう。普通はこうなるんだ。木下さんは気を回しすぎだ。


いつものデスクに辿り着き、カバンを置く。

ごちゃごちゃと自称、始業の準備を始め、仕上げにコーヒーを淹れに行く。


今日も今日とて現れるのであれば、木下さんに爪の垢をもらいにいかないと。

きのしたさぁーん、爪の垢ください。

…セクハラか?


『おはようございます。』


おや、まだ元気がなさげだ。まだ僕を警戒してるんだろうか。


『おはようございます。』


とすると彼女の安寧のためにも、早くコーヒーを淹れて去らなくては。


『あのぉ、ちょっとお話ししたいことあるんですけどぉ、いいですかぁ?』


今まであえてこの事実には触れないでいたが、井上さんは見た目は可愛い。中身が少しあれだが、その天真爛漫さと可愛さで男性社員の中には根強いファンもいる。ファンの中での鉄則は、彼女には彼女らしくいてもらいたい。らしい。

彼女がイケメンの彼氏を手に入れたと聞いた時のファン達の顔ったらもう。今朝の僕と同じくらいだった。


そんなおバカで可愛い子が周囲に人がいないことを確認し、こちらを伺いながら悲痛さを乗せた瞳でまっすぐに見つめてくる。

美人がやればそれだけでドラマのワンシーンの完成だ。

その悲しみは僕が取り除いてあげる。

やはり彼女みたいな子は僕が幸せに…おっといけないいけない。この場合僕は純粋な視聴者ではなく、演じる役者の立ち位置だ。


『はい。何でしょう?』


この子のことだ。どうせ次の瞬間にはイカとタコの足の本数の違いを教えてくれるはずだ。


『あの、昨日はごめんなさい。言い訳するつもりじゃないんですけど、佐倉さんが怖いでしょ?ってすごい勢いで来て。うんって言ったらいつの間にかあの席に座ってたの。私そんなこと全然望んでなかった。本当にごめんなさい。ちゃんとそんなつもりないって言えば良かったのに。』


彼女の顔がみるみる赤くなり、感情的に話し始めた。

ナルちゃんの僕なら、すかさず優しく抱きしめていたはずだ。

しかし、僕はもうナルちゃんではない。


落ち着け、考えろ…

彼女はあの場に赴いたのは佐倉さんの勢いだったという。

確かにこれはその可能性が高い。井上さんはその過ごし方的にあまり人を嫌うタイプではない。ニュアンスもどちらかと言えば怖いって言っておこうくらいなものだろう。

だが、弾劾裁判のあの中での態度、いつもの井上節が炸裂していた。今の謝罪の状況から見るに整合性が取れていない。

そして、言い出せなかったとも言った。

確かにこれはそう。ライオンが荒れ狂い佐倉さんを呼べと言っていたあのタイミングで、井上さんみたいな子が異議ありを唱えるには少し酷だろう。

勢い、態度、言い出せない、おバカ

仕方ない。賛成多数で井上さんは無罪とします。(この間0.7秒)


『井上さん?顔をあげてください。こちらこそ申し訳ありませんでした。少しでも怖いと思わせてしまったのなら僕にも責任がありますから。』


『じゃあ、許してくれる?』


涙を瞳にため許しを乞う。なるほど、彼女に惚れる男が多いのも理解できる。守ってあげたい。


『ええ、もちろんです。僕のことも許してもらえませんか?』


『うん。もちろん。ありがとう、ナルちゃん』


言ったと同時、しまったと顔に書き、口元を手で覆い隠した。

このおバカ…だが、おバカは罪ではない。これはこれで井上さんらしいじゃないか。


『こちらこそありがとうございます。それじゃあこれで。』

コーヒーを手に持ち、去ろうとした。すかさず彼女がこちらに寄り、あろうことか腕を掴まれた。


『違うの、その、わざとじゃなくて、違うの、違うの!ごめんね、ごめんなさい。』


大きな声で謝罪し、本格的に泣き出してしまった。こちらがせっかくスルーしたのに台無しだ。

ほらみろ、野次馬がこちらを観察している。

朝の給湯室で行われる不倫と愛憎の物語をみんな期待している。

どうやら僕のナルちゃん像はまだまだ崩せそうにもないようだ。

女性社員にキッと睨まれた僕は、また心にダメージを負いデスクに戻った。


女性社員が人目を憚ることなく井上さんの周りに集まっている。

考えなくてもわかる。ナルちゃんがまたキモイことしたんだろ?あんな奴クビにしてやれ!という顔を隠そうともせず集まってはこちらを警戒しているからだ。

だが


『私が悪いの、ナル…彼は悪くないの‼️』


そう大きな声で女性社員とぶつかっている。これなら心配ないだろう。

あそこまでのことがありながら、まだナル、と口から飛び出てくる事の方がよほど心配だ。


時間が経つにつれ、女性社員は各々の仕事に戻っていく。それを遠巻きに見つめる男性社員はなんのことかあまりわかっていない。井上さんを守ってあげたいと思っているくらいなものだろう。


『おい、随分やらかしたらしいじゃねーか。』


不意に隣のデスクの同僚が話しかけてきた。こいつは基本会話嫌いだが、雑談ではなく目的のための会話をすることは嫌いじゃないようだ。


『やらかした?何を?』


可能性がありすぎるが故に、まるでシラを切る形になるのは仕方ない。彼がどれだけ情報を握っているか掴みかねている。


粉飾、有給、キャバクラ、ハラスメント。

今週は本当に色々ありすぎている。


『何ってお前女性社員にセクハラして歩いてるんだろ?この前経理の子が言ってたぞ。』


なるほど、確かに一番広まりやすそうな話ではある。


『誤解だったってことで話はついてる。僕も謝ったさ。』


『お前は佐倉さん狙いなんだってな。でもあの子は難しいぜ?可愛いから男に対する目が肥えてんだよ。お前じゃ残念ながら書類選考すら通らねえな。』


僕は佐倉さん狙いというわけではない。ナルちゃんは違ったらしいが。今となってはなつきちゃんへの想いもナルちゃんが持っていたんだとわかる。


『わかっている。痛いほどに。アレだけ痛かったから気づけたんだ。』


『男として気持ちはわかるぜ?気持ちだけならな。それより俺はやっぱ木下さんだなぁ。あの子マジで美人だろ。』


こいつ…僕のきーちゃんを狙ってるだと。許せない。今すぐ腹黒を差し向けて、こいつを社会的に抹殺…いや、いやいやいや。またナルちゃんが顔を出した。落ち着け。僕らしくもない。


『なあ、お前木下さんの連絡先とか知らねえのかよ?指輪はしてないから旦那はいないだろうけど、あの子彼氏いんのかなぁ。今度誘ってみようかなぁ。』


『悪いけど、プライベートの方は知らない。知ってたとして他人には教えられないだろう?そして彼氏の有無も知らない。』


『期待はしてねーよ。なあ、協力してくれよ。今日金曜の夜だろ?俺らと経理の子達で飲み会開こうぜ。』


飲み会、悪しき風習、飲みニケーション、タバコミュニケーション、君の手酌で飲むビールは美味しいなあ、この後2人で二次会行かね?悪いけど推しの生配信あるんで。

様々なイメージが僕の脳内を去来する。


『悪いけど、僕は散々な目に遭ったばかりだ。僕の協力なんて今ならライ…部長に目をつけられるだけだ。』


『それもそうか。ハラスメント騒動あったやつが女の子をノリノリで飲み会に誘うだなんて、下半身に脳みそついてんのか疑われるもんな。』


ギャハハと笑う同僚。軟派に加えて下品か。こいつはナルちゃんと同レベルだ。


『もういいかい。明日までにイベント物販の段取りつけなきゃいけなくてね。』


にべもなくそう告げると、僕はまたパソコンをいじり始める。

軟派ははいはいと言いながら、デスクでスマホを触り始めた。

佐倉さんの書類選考に通らなくても、木下さんに彼氏がいても、僕には関係がない。

だが、木下さんに彼氏。その言葉を聞くたびに僕の中のナルちゃんが出てこようとする。まるで厄介な二重人格になってしまったようだ。

今度心療内科への受診を検討すべきか…


ひとしきり検討し終えると、僕は黙々と戦いに従事する。それにしても穏やかな時間だ。ただのルーティーンと化した戦いがこんなにも心地よいものだったなんて。今週は色々なものと戦いすぎた。

記者、ライオン、腹黒、女性社員。全てにおいて多大な犠牲を払いながら勝利してきた。だが、これらは本当に勝利と言えるのだろうか。


トイレから戻る道すがら、今となっては聞き慣れた声がした。


『お疲れ様です。』


振り返らなくてもわかる。木下さんだ。


『お疲れ様です。』


あんなことがあった後なのに、見かけたらしっかりと声をかけてくれる。できた人だ。歩き去ろうとした時にまた声をかけられた。


『あの、今日の飲み会って来られるんですか?』


『はい?』


『先ほど経理の子達が今晩広報の方と飲み会をするって話をしていて。よかったらと私も声をかけてもらってたんですけど…広報の方とはあまり面識もないですし。』


『は、はぁ…』


『それで今日の飲み会にいらっしゃるのかなとふと気になりまして。』


落ち着け、考えろ…

ナルちゃんが先ほどからうるさいくらい僕の頭の中で叫んでいる。ついに僕の魅力がうんたらかんたら、寂しがりやのマイハニーがどうたら。落ち着け。

おそらく彼女の性格から考えて、飲み会等にはあまり顔を出していないはずだ。にも関わらず今日の飲み会は行くかどうか悩んでいるようにも見える。その飲み会に普段はない何か目的意識のようなものがあるとしたら。

可能性としては

彼女が実は飲み会が好き。

イメチェンを図ろうとしている。

ナルちゃんを試している。

知り合いがいないから今まで行きたくなかった。

飲み会を機に誰かに話したいことがある。

広報に仲良くなりたい人がいる。

ストレスでパァーとやりたい。


僕は行くべきか行かないべきか。あえて聞いてくるとしたら、この答えで彼女の動向や心境が変わるのかもしれない。

来るなら行きたくない?来るなら行きたい?

今朝の行動を踏まえても前者の可能性は低いだろう。あとは単に会話のネタとして話している可能性も…

…ダメだ。可能性が多すぎる。絞るにしても不確定要素が多すぎる。

どう答えるのが最善か。

……だが、今はナルちゃん経過観察中のはずだ。外聞と体裁のためにもここはおとなしくしておく。これが最善策だろう。(この間2.4秒)


『お恥ずかしながら、経理の方との飲み会のお話は今初めて聞きましたよ。この機会に木下さんも楽しんで来られるといいですね。』


ナルちゃんがうるさい。参加しろだの、引き止めておくれだの。ええい、仕方ないだろう。お前のせいでこうなってるんだ。


『そう、ですか。あの、申し訳ありませんでした。失礼します。』


踵を返す彼女。仕方ない。何かのフラグが立ったようにも見えていたが、これがナルちゃんフィルターによるものなのか、自信がまるでない。

おとなしくするしかない。

すごすごとデスクに戻る。


オートモードが無意識に発動していた僕は、せかせかと歩いてくる軟派に声をかけられてオートモードが終了した。


『おい、お前。今日経理と飲み会やるから来い。』


なんて杜撰な誘い方だ。これだから下品な男は。


『さっきの話あったろ?経理の仲良い子に話したらとんとん拍子でなんと今日飲み会開けることになったんだ。経理の子が教えてくれたんだけどよ。なんでも木下さん、広報とは面識ないから行かないって言ったらしい。お前木下さんと面識あるんだろ?さっきお前も行くって言っといたから。頼むぞ、な?』


は?軟派に下品、加えて強引。か。大したものだ。


『その話は木下さんから聞いた。僕はそんな話聞いてもなかったし、行かないって言っておいたよ。』


『違うって、その話したのは知ってる。木下さんが、さっき彼は行かないって言ってましたって言ってたからな。だからその後にやっぱり行くことにしたんだよ。って言ったんだ。お前の話よりも後。わかるか?』


噛み砕かれなくともわかる。唯一わからないのはなぜ勝手に出席を決めたか。これだけだ。


『それで?』


『頼むよ、お前も来てくれ。お前が来るって言った時のあのホッとした表情だけは許せねえが、背に腹は変えられねぇ。この通りだ。』


…今なんと?ホッとした表情?僕を心の安定剤と認定してくれているのか?なら話は変わってくる。


『わかった。奢りは当然として、これで手を打とう。』


僕は合法的にファイルを2冊、彼の両手に置いた。


『あ、ああ…仕方ねえ。いつまでだ?』


にこやかに笑いながら僕は伝えた。


『今日中だ。』


今日はどうやら美味い酒が飲めそうだ。

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