四日目後半・戦士の過ち
「失礼します。」
パタリと会議室のドアを閉め、それぞれの表情を伺う。
記者は…なるほど、自分の上長の前で部下を怒り慣れていないのがまるわかりだ。
謙りと威圧のバランスを決めかねていると見た。
腹黒は…流石だ。表情からは一切読み取れない。強いて言えばいつもより笑顔というくらいだ。
そして問題は百獣の王。奴は怒気を立ち昇らせ、ゆらゆらと揺れる蒸気が天井へと昇っているようにも見える。
会議室内の飽和水蒸気量の計測を行ってみたいものだ。
「座りたまえ」
百獣の王はさすがの貫禄で一言だけ僕に言った。
僕も馬鹿ではない。ある程度のことは理解している。
女性社員に怖がられている、今朝話したと伝えた女性社員が呼び出される、しばしの話の後に僕の呼び出し、そしてオールスター。
ここまで条件が揃えばさすがの僕でも理解できる。
勝利条件は オールスターを黙らせ、この部屋を出ること。
前提条件
女性社員は僕の魅力にとらわれないよう警戒している。
しかしそれが上長たちには勘違いして伝わり、恐怖されているとしている。
僕は女性社員を怖がらせたことなど一度もない。
さあ、かかってこい。
「率直に尋ねる。君は女性社員に対し何を言った?」
こんなにきっちりと喋る記者は初めてかもしれない。
「言ったこと、ですか。ええと確か、井上さんには挨拶と、ナルちゃんを警戒する必要はないと伝えたはずです。ナルちゃんとは、
女性社員がつけた僕のニックネームのようで、由来までは聞いておりません。そして、佐倉さんですが、ナルちゃんの話は佐倉さんが井上さんに伝えたとのことで、佐倉さんにもナルちゃんを警戒する必要はないと伝えました。なぜかそれを伝えるととても怯え始めましたので、僕らも男と女なのだから、君たちの気持ちはわかっている。信じてほしい。そう伝えたかと存じます。」
一気に喋り切り、奴らの反応を伺う。
「キミィ、職場で男女を匂わせていいと思っているのかね?」
おっと。記者がもう嫌味モードを抑えきれないようだ。弱点を見つければすかさず抉ることに快感を覚えるタイプだな。
「ええ。生物学的に男と女はきっちりと分かれており思考、判断、感情等が性別によって異なることは社会的に認められている事実かと。文脈において女性を労る気持ちを持つのは男性として自然なことと伝えたつもりです。』
「ふふっ、手強いねぇ」
腹黒が茶々を入れてくる。
「君のその発言を受け、井上さんは恐怖を。そして佐倉さんは精神的苦痛を覚えたようだが、まだ自然なことと?」
精神的苦痛?恋煩いをそんな風にとらえるのかこいつらは。まったく、女心を何もわかっていない。彼女らは構われたい。さみしがりな生き物なんだ。
「はい。むしろ文脈において皆様方はどうお考えですか?私としてはセクハラ、パワハラ等の要件を満たしているとは到底思えません。私は身体接触、容姿への言及、性的な発言、それらはなく、唯一抵触の可能性があるのは彼女らを女性といったことですが、私は男と女という生物学的事実を述べたまでです。」
「しかしだねぇ、事実彼女らがそう言っているわけだし・・・」
「彼女らがそう感じてしまった理由に関しては私はわかりかねます。正直に申し上げれば些細なすれ違いによるものかと。私の勘違いの可能性も含め、皆様立ち合いのもとお話をさせていただければと存じます。」
記者はここで脱落だ。将を射んとする者はまず馬を射よ。だいぶ騒々しいいななきではあったが、良い頃合いだ。
「次長。言いたいことはあるか。」
ライオンの唸り声が聞こえる。いつからここは動物園になったんだ。
「いえ?私は今は特に。」
今はと付け足すことによって、決定的なタイミングで僕を蹴落とす気だ。だが、腹黒は僕に貸しの精算を行わせたいはず。
貸しの追加にならない程度に今は頼らせてもらうとしよう。
「わが部署でこんなことを起こすとはな。火のない所に煙は立たぬものだが。』
吠えるライオンの言葉には肉食獣の獰猛さが宿っている。これは放置すれば今にも暴れだしそうだ。
「では、井上さん。入ってください。」
腹黒が奥から井上さんを入室させる。
まさかこの場でいきなり被害を訴える女性を入室させるだって?ハラスメント対策のマニュアルを読み直したほうがいい。
「井上さん。君なら話せばわかるって思ったらしい。もちろん彼女からの提案だ。感謝することだね。」
腹黒の秘策かと勘繰ってしまったが、彼女からの提案ならば納得だ。しかし、井上さんか・・・話の通りやすさから佐倉さんのほうがよかった気がする。
「失礼しまぁーす」
まるで緊張感のないいつもの井上さんが現れた。さすがに昆虫トークは始めないようだが。
「まず私たちに説明してないことがあるだろう?ナルちゃんとは一体何なんだ?」
ライオンが井上さんに問いかけた。
「えーっとぉ、私も聞いただけなんですけど、ナルシストから来てるらしいですよ。」
・・・ナルシスト?誰のことだ。
「木下ちゃんとかぁ、佐倉ちゃんとかが話したときに、聞いていたみんながナルシストっぽいってなって。それでみたいです」
・・・ナルシスト?誰のことだ。
「女性社員でよってたかって彼を馬鹿にしていたと、それだけの話か?』
おっと、潮目が変わったぞ?完全にライオンの矛先は女性社員たちに向いた。
『佐倉さんを連れてこい。同席が嫌だと断るなら彼は不問とする。』
ライオンがついにキレた。本来ハラスメントの事実聴取に当人達を同席させるなど絶対にあり得ない。が、キレた肉食獣は勢いのまま獲物に齧り付く。そしてその獲物はすでに僕じゃない。楽勝ムーブだ。
数分程度の時間が経ち、佐倉さんが加わった。
『彼をナルシストと陰で馬鹿にしていたようだな。その口でよくも彼を悪し様に言ったものだ。何か言いたいことはあるか?』
佐倉さんは完全に蛇に睨まれた蛙状態だ。
『私が言ったんじゃありません。そんなことよりも、この人怖いんです。だってこの』
言い訳をつらつら並べ始める。ライオンはその空気を感じたのだろう。言葉を遮り吠えた。
『井上さんが君から聞いたと彼が言っている。少なくともここにいる2人はこれを事実だと認定している。君は自分の口でそのふざけたあだ名を口にして、知らない人間に先入観を与えた。それのどこが 自分は言ってない だ。弁えろ。』
ライオンの唸り声が止むと、すっかり意気消沈した佐倉さんがそこにはいた。押し黙り、下を向いている。
『このことは君の訴えの正当性を著しく下げる。それを踏まえて尚主張したいことがあるのなら言うがいい。』
ライオンの本領発揮だ。さすがは海千山千の強者を薙ぎ倒してきただけはある。
『この人、まるで私の彼氏面して馴れ馴れしく話しかけてきて…僕らは男と女だからとか、私の気持ちはわかってるだとか…怖いんです…』
な、なんだと…まさか、怖いだなんてそんなことあるわけ…いや、待てよ。確かにこの場は僕を怖いということにしておけば、彼女の正当性は保持されるだろう。彼女も自らの正当性を失いたくないがために、オールスターが誤解している恐怖をそのまま利用した形というわけだ。
佐倉さんは今にも泣きそうな顔でライオンに告白していく。
ライオンの体がぐいっとこちらを向いた。
『君が蔑称をつけられていたことは理解した。そしてそれは良識のある社員としては許されないことも。だが、その事と君が佐倉さんに言った言葉は別の問題だ。何か申し開きはあるか?』
クソっ、この土壇場であの佐倉さんめ。僕の息の根を止めるつもりか…女は嫉妬で相手を破滅させる願望を持つという。自分のものにならないのならいらない。というわけか。
『はい。私からすれば意味がわからない事が多すぎます。まず彼氏面とのことですが、具体的にどの発言が該当していたのかが判然としません。私にその意識はなく、佐倉さんに対しては社員皆と同じ大切な仲間と認識しており、それ以上でも以下でもありません。そして男と女の発言に関しては、先ほど記…失礼、課長にお伝えしたとおりでございます。』
社会人必須テクニック『保身』
誰しもが社会に身を置き、洗礼を受けた後まず一番に習得するテクニックだ。逆を言えばこれができない社会人は多大なストレスと日々向き合っている事だろう。割り切ってしまえばどうということはない。人としての評価とは別問題だが。
『でも!経理の木下さんに、寂しい想いをさせてごめんねとか。浮気は嫌いなんだ、わかるだろう?とか、朝いきなり隣に並ばれて話しかけられるとか。あと自分イケメンって感じで歩いてるのとか。社内でキモいナルシストって噂になってるんです!だから井上さんにも気をつけてねって。それだけなんです…』
あり得ない。僕を貶めるための嘘か?にしては井上さんがやたら頷いている。そういう時は頷かない方がいいのに。
もしかして、僕は本当にナルシストと思われていた?女性社員たちのぎこちない冷たい態度は、嫉妬ではなく恐怖、警戒心…?
自分に酔っている男が馴れ馴れしく、寂しい思いをさせてごめんね?僕らも男と女だ…グフフ。そういきなり社内で言ってくるとしたら…もし本当にそうだとしたら…それは完全にレッドカードレベルだろう。2人っきりはNG、上司への相談。なるほど。理解できる流れかもしれない。
もしかして、木下さんは嫉妬ではなくただの業務として僕の相手を?僕などハナから眼中にないからあの態度だったと…そんなの…そんなのって…
『木下さんは何と?』
ライオンが何か唸っている。僕にはただの雑音にしか聞こえない。
『彼は確かに変わっているかもしれないけれど、そんな風に扱うのは可哀想。いずれ気づくわよ。と。』
『そうか。随分達観した物言いだが、彼女らしい。さて次長。まとめてくれ。』
『はい。今回の問題は彼女らに対するハラスメントの事実確認です。
まずは井上さん。彼女は佐倉さんから警戒せよと言われただけであり、なんらハラスメントをされた証拠や状況は見出せません。
そして佐倉さん。彼女が言われた僕らは男と女。この発言はかなり慎重に扱わなくてはならない言葉だとは思いますが、現状ではそれ以上のハラスメントは見受けられず、発言した本人からは生物学的事実を述べたまでと説明があり、それを逸脱するような明確な行為があったわけではありません。加えて彼女は彼を貶めるようなあだ名を喧伝し、社内の風紀を著しく乱す恐れのある行為を行っている。これは明確にアウトです。就業規則によれば、社内風紀を著しく乱し、業務に重大な影響を及ぼすものは懲戒に処すると明記してあります。
これらの事情を鑑みれば、直ちに彼をハラスメントと判断するには弱いかと。』
『ここまでで反論があるものはいるか?………いないようだな。なら諸君らの意見を聞こう。』
『はい。私が彼女に誤解を与えてしまったのは事実のようです。私から今回の件は深く謝罪させていただきたいと存じます。ですが、やはりハラスメントを行ったと言われるのは遺憾であり、そこに関してはきっちりと対応をさせていただきたいです。』
『わ、私は。確かに怖かったですけど、こうやって皆さんに囲まれて彼は悪くないって言うのなら、これ以上何か言えるわけないじゃないですか…』
佐倉さん…あなたって人は…
『それは違う。君がハラスメントを起こされたという確たる信念があるのであれば、我々もこの話をここで納めるつもりはないし、君の意見を封殺するつもりなど毛頭ない。』
『なにも、ないです。何もしません…失礼します。』
彼女はポツリとそう呟くと、力無く部屋を出て行った。
『さて、では君に聞こう。この度の騒動、なぜ起きたと思う?』
『申し訳ありませんでした。コミュニケーションのズレが招いた結果のようです。社員との関わり合いについて、改めて意識を正して業務に取り組む所存です。』
『うむ。下がりたまえ。』
『はい。失礼致します。』
勝った。当初の目的通り記者、腹黒、ライオンを黙らせて僕はこの部屋を出られた。
ドアを閉め、歩きながら勝利を噛み締める。
まさか社会人生命が終わるような戦いに身を投じることになろうとは。しかし、勝った。今回ばかりはあの腹黒も終始僕に押されっぱなしだった。悪くない気分だ。
ガチャリと会議室のドアが開いた音が聞こえた。腹黒だ。
『木下さん、連れてきて話聞いちゃおうかなぁ〜』
腹黒め…
マズイ…さっきの流れで言えば、一番僕と濃密な会話をしたのは彼女だ。あの美人が涙ながらに辛さを語れば、社内の男性社員99%は敵に回る。
『なーんて、冗談ですよ。それじゃ。』
そう言って僕とは逆方向に歩いていく。
なんて事だ、この二日で腹黒に貸しと弱みを作ってしまった。
トボトボと歩いていると、前から渦中の人物が歩いてくる。僕にとっての恥の象徴、勘違い妄想中年男の第一の被害者だ。
『木下さん、少しいいでしょうか。』
返事をし、警戒心を隠す事なく立ち止まる彼女。
『木下さんに対して散々無礼な対応を取りました。先ほど佐倉さんから事実を聞かされまして、僕がいかに愚かだったのか。そしてあなたにどれほど嫌な思いをさせてしまったのかと言うことを知りました。本当に申し訳ありませんでした。』
『気づいていただけたのなら結構です。確かに少し困らせられましたが、あなたのように間違いに気づける人はそう多くない。これから改めて、よろしくお願いしますね。』
言い終わると同時、彼女は微笑んだ。彼女の微笑みを初めて見た僕は、今、間違いなく、彼女とは上手くやっていける。そう確信した。
僕の唯一の居場所に帰り、今日も今日とてすっかり冷めたコーヒーを啜る。
大変な一日だった。
ハラスメントを疑われ、僕の社会人生命をかけた死闘を制し、僕は勝利した。しかし、何だろうこの喪失感は。しばらくナルシストという言葉は聞きたくない。そして、恥の象徴たる女性社員はしばらく見たくない。そんな逃避に走ってしまいそうだ。
僕は思う。今日もまた、勝ち残った。社会という戦場に打ち勝ち、そして自分だけの平和なひとときを手に入れたのだ。
僕は次なる戦いに備える。明日もまた、社会という戦場は容赦なく僕を待っている。しかし今はこの虚無に身を埋めていたい。
女性社員の間ではナルちゃんはライオンにコテンパンに叩きのめされ、ナルちゃんではなくなったという噂が実しやかに流れ始めたらしい。