三日目・戦士と経費
『で、これはどういうことかご説明いただけますよね?』
僕になかなかの剣幕で押しかけてきたこの人は、美人と噂の経理の木下さんだ。
朝から木下さんが真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた時は、ついに僕にも春が来たのかと思ったものだ。彼女の氷のような冷たい目線に気づくまでは。
『おはようございます。木下さん。今日もいい天気ですね。』
努めて明るく、爽やかイケメン風を自称する僕らしい挨拶だ。これには野に咲く一輪の花も、あまりの爽やかさに頬を赤らめ視線を逸らしてしまうだろう。
『おはようございます。経費精算書に記載のある経費使用目的、及び場所が大変不明瞭です。ここで納得いく説明を得られないのであれば、却下されるだけでは留まらず、おそらく諮問にかけられることになります。ご説明を願います。』
なるほどなるほど、僕が怪しげなお金を使い込み、あまつさえ会社から経費を掠め取ろうとする守銭奴だと君は言いたいわけか。
『まだカバンすら置いていないんだ。身軽になってからそちらに伺っても?』
木下さんに対し努めて明るく振る舞う僕.彼女から今の僕は爽やかイケメン風に見えているのだろうか。それとも会社経費で豪遊する炎上系YouTuberの最先端と見られているのだろうか。
『わかりました。ですがすぐに来て頂けない場合は私は上に報告する義務があるので。責任は取れませんよ.』
これは完全に敵対モードだ。仕方ない。彼女の余計な仕事を増やしてしまったのだ。
いや待てよ、逆に考えれば彼女と会話する合法的なチャンスが生まれたとも考えられる。
『はい。始業の準備を整え、すぐに向かいます。』
なんて浮かれたのは刹那。
僕は徐々に自分が窮地に立たされていることを自覚し始めた。
彼女の持つ経費精算書には(株)八島観光物産、89000円と書いてある。
そう。キャバクラだ。
あの日僕は馴染みの取引先と、なつきちゃんに会いに行った。そしてなつきちゃんに心奪われ、夢のような時間を過ごし、気づけば取引先が先に帰っているという始末。酒の席での失態だと笑い飛ばしてくれる豪気な男だが、金の払いには聡い。酔ってなつきちゃんにきっぷのいい男と思わせるための浅はかな方便が頭を駆け巡る。
『僕なら多少こういう経費は使えますから。』
とか。
『これくらいはうちに払わせてくださいよ。』
とか。
行きは良い良い帰りは怖い。
酒を飲んでる時は大層幸せだが、起きた瞬間には必ず酒を飲みすぎたことを後悔する。
そう。僕は今になってようやく後悔し、反省し、しかし改善はせずに切り抜けようと心に決めた。
朝のコーヒーは始業の準備に含まれるか?答えはイエスだろう。アンケートをとるまでもない。
給湯室で朝の一杯を拵えていると、必ずここでエンカウントする彼女が歩いてきた。
『あっ、おはようござーいます。知ってましたか?カレーうどんとカレー南蛮の違いってネギが入ってるかどうかなんですってぇ。』
相変わらずパンチが効いている。今日はうどんか。彼女は虫博士になりたいのではなかったようだ。
コポコポとコーヒーが踊る。あと1分もあればこのエンカウントから逃げることができる。
『ああ井上さんおはようございます。昨日はありがとうございました。』
おっといけない。昨日のアレは作者の許諾をとっていなかったのだった。思わず彼女の十八番を披露した瞬間がフラッシュバックするところだ。ご馳走なんてしない。むしろお釣りをもらいたいくらいだ。
『昨日ぉ?何かありましたっけ…あっそーだ!思い出しました。カレーパン、美味しかったですかぁ?』
い、意味がわからない。彼女にカレーパンと共にいたことを見られたことはないし、彼女からもらった覚えもない。だとするとこのセリフにはどんな意味が、落ち着け、考えるんだ…カレーうどん、カレー南蛮、カレーパン、彼女はカレー博士になりたいと?
いや、待て待て、相手は井上さんだ。
今日はカレーの魔人になった。それだけのことだ。
『カレーパン、ですか?すみません。ちょっと覚えがなくて…』
『えっ?あぁそうだ。カレーパンは彼氏にあげたんでしたぁ。ごめんなさーい、でも仕方ないんです。だってあなたって私の好きな彼氏にそっくりなんだもん。』
真っ直ぐ僕を見ながら微笑む彼女。
僕も罪な男だ。こうしてまた1人の女性の心を奪ってしまうとは。しかも恋人がいる女性なんて。だが仕方ない。モテる男は辛いぜとはいい言葉だ。
『すみません。僕には佐倉さんや木下さん、なつきちゃんという心に決めた人がもういるので。』
『は?え?どういうことですかぁ?というか心に決めた人いっぱいいるなんて、ちょっとキモいですね。失礼します。』
足早に彼女は去っていった。
ふぅ、こうしてまた1人の女性を無意識の魅力で誘惑し、失恋させてしまったか…次からは風を取ってしまってもいいのかもしれない。
僕は熱々のコーヒーを手に持つと、ゆっくりデスクに座った。
切り替えなくては。今はおバカAよりなつきちゃんだ。
そもそもキャバクラを経費で精算してはならない理由はなんだ?嫉妬か?木下ちゃん、もしかして僕が他の女に会いにいったことに嫉妬を?それならば理解できる。つまり経費精算にかこつけて、僕の女は私だけアピをしにきたと。なるほど。非常に論理的かつ合理的帰結だ。
だとするならば、ここは男の度量で彼女を許してやるしかないだろう。好きな男が他の女といればそりゃあ嫉妬もするものだ。仕方がない。全く、今日はモテ期のようだ。
ゆっくりとデスクを離れ、確かな足取りで胸を張り、まっすぐにきーちゃんの元へ向かう。
『ようやくきましたね。さあ、説明をどうぞ。この矢島観光物産ってどこですか?』
『慌てないで、君は勘違いをしている。落ち着いて僕の話を聞くんだ。』
包容力のある男はモテる。モテてしまう。罪なことだ。
『はい?』
『矢島観光物産。そこはいわゆる、その、大人の社交場さ。馴染みのティーの佐々木さんと行ったんだ。全く、彼は無類の女性好きでね。付き合わされるこっちも困ったものだよ。僕はあまりそういう店に行くわけじゃない。仕事の付き合いで仕方なく。だ。浮気は嫌いなんだよ。わかるだろ?』
周りのデスクの女子社員が一斉にヒソヒソと話し始めた気がする。やれやれ、僕が硬派な男だと広まるのはあっという間のようだ。
『あの、全く興味はないので。キャバクラを経費で精算しようなんて大胆ですね。役職のない一般社員は固定申請外の経費については原則事前申告と承認が必要です。』
ピシャリと言い放つ彼女の言葉には何の温度感もない。つまり今はまだまだ僕を許す気はないようだ。
『そうはいうけれど、事前申告のみでしか経費が使えないなんて、柔軟性がないにも程がある。では商談の後の席が急に組まれたらどうする?取引先に払えというのが正解かい?』
ここまで言うつもりはなかったのに、すまないきーちゃん。悪気があるわけじゃないが、ここは論理的に進めさせてもらう。
『はぁ、でしたらそのように関係部署や上長に進言すればよいのでは?私にはそれを聞く義務も責任もありません。規則に従って処理するまでです。』
随分とツンツンしてるな。やはり女の嫉妬は恐ろしい。教えてくれてありがとう。
『やれやれ、わかったよ。今から僕がその経費精算を通してくる。ここに印をもらえばいいね?わかったよ、子猫ちゃん、少しの間待っているんだよ?』
周りの雑音が音量を増してきた。嘘…とか、え、マジ…みたいな声が聞こえてくる。
女の嫉妬は恐ろしい。今日は嫌と言うほど学んだ。だから周りの社員も嫉妬の視線を向けるのはやめて欲しいものだ。
僕はデスクに背を向けて他部署に行く。その後の木下さんのデスク周りでは、女子社員たちが今起きたことを克明に記憶し、社内に向けて猛スピードで拡散する用意をしていた。
『失礼します。』
僕は今経理課長のもとに訪れていた。
先だってのやり取りでわざわざこんな遠方まで遠征するなんて。
『何か御用?』
優しげな声色、温かな眼差し。まるで小学校の保健の先生のような立ち振る舞いだ。
いけない。僕の魅力を抑えなくては。どうやら今日の僕は女性に効きすぎるらしいから。
『先ほど木下さんと話していたのですが、経費精算をする際に一部例外があったため、木下さんの裁量では判断ができないとのことで参りました。こちらがその精算書です。』
機械的に淡々と話すことを意識した。これくらいなら僕の魅力に卒倒することもないだろう。
『ごめんなさいね、わざわざこんなところまで。本来なら木下さんが持ってくるべきなのに…さて、拝見します。失礼ですけど、これ、もしかして夜のお店?あなた役職は?』
『広報課に所属しております。一般社員です。』
『木下さんから聞いたかもしれないけれど、固定申請外の経費精算は事前申告が原則なの。ごめんなさいね。』
『お言葉ですが、そうだとすれば、柔軟性がないと言わざるをえません。では商談の後等急に席を組むこととなったとしたらどうします?取引先に払えというのでしょうか?』
『いいえ。他の社員の方々は皆さん可能性がありそうな時は事前申請をし、席が組まれない場合は申請取り消しの措置をとっているわ。まして金額的にもそこまで大きくはならないことが多いから、私たちも実務上最適化するような姿勢で取り組んでいるの。』
なるほどなるほど、一般社員と僕との明確な差を浮き彫りにし、特別感を与える。優越感を与えて親密になろうと言う作戦。というわけか。読めていますよ総務課長。ここからは少しずつ、僕に違和感を持たれない程度に距離を詰めていくといったところか。望むところだ。
『何事にも例外はあります。その例外に柔軟に対応することこそ、私たちが新たな挑戦を拒まれず、より社に貢献していくための礎となると存じます。』
『あなた、口が上手いのね。要するに、キャバクラにもっと行きたいから経費で落とせってことね?』
保健の先生のくせに随分と生々しいことを。
『いえ、そのような極端なことを申し上げるつもりはございません。』
『そう。わかりました。ではあなたの課の課長以上の方の承認を持ってこの決済は通します。いいですね?その方の承認を得てきてください。話は以上です。』
なんということだ…なつきちゃんとの邂逅には必ず記者以上の存在が付き纏うことになってしまった。この保健医、侮れない。
僕は挨拶をして踵を返し、きーちゃんのデスク横を通りかかる。
彼女と目が合った時に軽く会釈をしてみる。すると彼女は何事もなかったかのように視線を戻し業務に戻った。やれやれ、可愛げがあるじゃないか。
僕の唯一の居場所たる自分のデスクについた。ここから何とか作戦を立てなくては。
すっかり冷め切ったコーヒーを啜る。
少しシミュレートしてみよう。
もしも記者に話した場合
『君の浅ましい性欲に会社を巻き込むだなんて、とんでもないねぇキミィ』確率は95%
残り5%は『どうして私に声をかけなかったのかな?次からは私に声をかけるように。(ハンコドーン)』だろう。
もしもライオンに話した場合
『君は金を払って狩りをするのかね?狩りは自らの体と知恵で行うものだ。情けない男だね。』確率は95%。本当にこんな事言うかは疑問だが。
残りは『仕方がない。君は社にとっての大事な人物だ。キャバクラに行けず、ウチの女性社員を惑わされては困るからな。はははっ(ハンコドーン)』
といったところか。
約20回に1回の確率に89000円をベットするのは明らかに非合理的だ。僕の安月給の中の89000円というのは、一般人が婚約指輪を購入するくらいの重みを伴う。
かくなる上は、奴を引き込むしかないか。
一番可能性はあるが、一番何をしでかすかわからないと言う意味で避けてきたのだが…
問題はいかに記者の目を掻い潜るかだ。記者がデスクであくびをしているうちはこの作戦は成就しない。奴のご機嫌を損ねてしまうからだ。
となれば、記者が席を立っていて、かつ緊急性があり、仕方なく彼に声をかけたというシナリオを作らなくては。
落ち着け、考えろ…
席を立たせる。これに関してはやり方はいくらでもあるように思う。
問題はいない間を長くし、その間に対応せざるを得なかった。という絵を描くことだ。
よし、これしかない。この展開ならきっと条件を全てクリアする。(この間20秒)
頼んだぞ、佐々木。
今後のなつきちゃんとの恋路は全て君にかかっている。
午後。記者がスマホで通話し、笑い声と共に電話を切った。
始まったか?僕は記者の様子を具に観察し、同志が作戦を成功させたかを確かめる。
5分後記者は席を立ち、部署を出て行った。
よし、ほぼ間違いなく同志の作戦だ。上手くいっている。
なんてことはない。同志に連絡をし、うまいこといって記者を席から立たせよと指示を出しただけだ。記者はおそらく面会に向かったのだろう。
同志は快くこの提案を受け入れた。彼もまた、お気に入りの子りっちゃんのために戦う戦士だということだ。
程なくして、きーちゃんが会いにきてくれた。
僕が同志のタイミングに合わせ、書類ができたからと呼んでおいたのだ。
『それで、わざわざこんな所まで経費精算書をもらいに来たのですが。』
不機嫌さを隠そうともしないきーちゃん。それはそうだろう。彼女の傷を抉ってしまう行為なのだから。
『あっ、しまった。課長がいませんね。仕方ない。』
僕は少し大き目の声で、記者不在のアピールを周囲にする。周囲は事情はわからないが、ともかく経理からの用事を記者に伝える必要があったのだろうと推測するはずだ。
『ちょっと、まだ承認を得ていないということですか?』
『大丈夫。すぐに持ってくるよ。安心してくれ。』
次長の元へ向かう。
『次長。失礼致します。よろしいでしょうか。』
そう。記者もダメ、ライオンもダメなら彼がいる。
課長以上の条件を満たしているのはこの男しかいない。
『んー、なあに?』
ただこの男、少しアレというか。僕の苦手なタイプなのだ。常に柔和な表情をし、部下に対しても上司に対しても物腰柔らかく対応をしてくる。一番読みづらい男のため、僕はなかなかこの男を攻略できずにいる。
『実は先日、株式会社ティーの佐々木様と会食をいたしまして。急だったものですから、その経費の精算に際しての事前申告が間に合いませんでした。経理課長からは部署内課長以上の役職の方からの承認が必要と伺いまして。記…いえ、課長は現在来客対応中とのことで、勝手ながら次長にお願いしに参りました。大変申し訳ございませんが、ご承認の印をいただけますでしょうか。こちらが経費精算書です。』
スッと次長のデスクに用紙を滑らせた。
次長は数秒で用紙の全てに目を通し、あっさりと承認印を押した。
『はい。これでいい?後からでいいから、
この経費精算に関しての報告書をまとめて僕に頂戴。言いたくないなら課長には言わなくていいよ。』
何だこの対応は。もしかして、僕が一生ついていかなければならない男は記者でもライオンでもなく、この男、次長なのかもしれない。
『ありがとうございます。では今日中に作成し、アップロードをしておきます。失礼します。』
用紙を恭しく受け取った僕は、それだけ言うと失礼のない程度に足早に去ろうとする。
『ああ、それと君。君もなかなかに計算高いようだ。課長がいなくなるタイミングをうまく計算に入れたね?もしかするとそれも策のうちかな?なんなら今から課長のところに行って、誰と話してたか聞いてこようかな。』
部屋を出るドアノブに手を伸ばそうとした瞬間に呼び止められてしまった。いや、呼び止められたなんて生優しいものじゃない。これは権威からの合法的な脅迫だ。
『次長、それに関しましては』
僕の拙い言い訳が口から飛び出す前に次長に口を挟まれた。
『貸し一つ。だね?』
神対応などとんでもない。この男はきっちり精算させるつもりだ。経費以外の何かで。そしてハンコ押されてしまった以上、僕は抗うことはできない。なんていう策士、なんという腹黒さだ。ニコニコとした微笑みの仮面をとれば、そこには生々しい悪魔の顔があるに違いない。
『…失礼致します。』
なんとか絞り出せた声を集め、次長の耳に届けた。利息を取られないか心配で仕方がない。
だが、今はそれよりも大事なことがある。最愛のきーちゃんが僕の帰りを待っているのだから。
『お待たせ。ごめんね寂しい思いをさせて。これがお待ちかねの経費精算書だよ、どーぞ。』
『あ、はい…受領しました。失礼致します。』
彼女は矢継ぎ早にそう言うと、一切目を合わせることもなく去っていった。
やれやれ。女心と秋の空とはよくいったものだ。仕事に照れを持ち込むなんて、可愛いところあるじゃないか。
自らのデスクに座り直し、淹れてきた熱々のコーヒーを啜る。
これから僕に待ち受けるのはきーちゃんとの甘酸っぱい社内恋愛。なつきちゃんとの夢の時間。そして腹黒からの債務の請求だ。不安はある。しかし、人は誰しも不安を乗り越え生きている。
僕は思う。今日もまた、勝ち残った。社会という戦場に打ち勝ち、そして自分だけの平和なひとときを手に入れたのだ。
僕は次なる戦いに備える。明日もまた、社会という戦場は容赦なく僕を待っている。しかし今はこの高揚に身を埋めていたい。
経理部を中心に、彼のあだ名がナルシストのナルちゃんに決まり、陰でそう呼ばれているのを知るのはまだ少し先の話。