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一日目・戦士の目覚め

この作品はフィクションです。実在する人物や団体とは関係がありません。

会社内での繊細な話題を取り扱います。

一部読者に不快な表現・ハラスメント等が使用されていることもあります。あらかじめご了承ください。

上記ご確認いただいた上でご覧ください。

朝、目が覚める。


たったこの一言には収まらないほどに、起床は憂鬱だ。動かない頭を叱咤し、ベッドの誘惑に抗い、身支度する決意を固める。


社会で息をするものは、皆この戦いに勝利してこそ社会人なのだろう。

僕は毎度の如く死闘を繰り広げているが、周囲の人間はいつもまるで置かれた地蔵のように始業時間にはそこにいる。神が与えた天賦なのか、それとも悟らせぬ技術を育んだのか。

天が二物を与えないのなら、僕にとっての一物は何か。


今朝の戦いもここまでくれば凡そ勝利とみなしていいだろう。体を起こし、規則的に振動する機械を黙らせる。

ここからはまるで運命に定められたかのように一定だ。定められていないのは冷蔵庫の中身くらいなものだ。

ドアを閉める際、忘れ物はないかと思考を巡らせることも、地下鉄の定期券が胸ポケットに入っていることを確認するのも、鍵をかけ忘れたことに気づかずに空き巣を疑いながら帰るのも、きっと運命に違いない。


見慣れた改札をくぐり、僕は電車に乗り込む。

満員電車に揺られ、鬱々とした感情と再び襲いくる眠気と戦う。

さあ、第2ラウンドの開始だ。毎回必ず倒すのに、飽きもせず毎回必ず僕に挑んでくる。

万一奴に後塵を拝するようなことがあれば、それは会社員として失格の烙印を押される瞬間に違いないのだ。しかし不安要素もある。一度油断すれば、ゆっくりと、しかし確実に僕の脳に眠りという毒を流し込む。加えて奇跡的に手すりをつかめた僕はいつもより少しだけ脇が甘い。これは僕の甘えか、敵を程よく利用する気なのか、今の僕には判然としない。

規則正しい振動、心地よい車内温度、手すりの安心感。毒が回りきる前に、アナウンスが僕の勝利を告げ電車を降りるのだった。 

死闘を制したのは今日も僕だ。


戦士たちに紛れて改札を出ると、やはり見慣れた光景が僕を待ち受ける。着慣れないスーツを着て、胸を高鳴らせていた僕はもうそこにはいない。哀愁を漂わせ、戦士の隊列に加わる。

おっといけない。すでに第3ラウンドは始まっている。社の人間が、とりわけ直属の上司と出会ってしまったら最悪だ。

彼は身の回りで起きるあらゆることに偏った批評をし、悪意があるかはわからないが、誤った情報を拡散させる。まるでいい加減なメディアだ。もしも僕が寝ぼけた顔していれば、それだけで彼の心の中の新聞には特大の見出しとして飾られるだろう。

そしてでかでかと見出しが書かれたそれを社内で喧伝するであろう彼は、前世はきっと記者だったのだろう。


エントランスに入る頃には僕はもうすっかり戦士の顔だ。睡魔に惑わされ、上司の陰に怯えていた僕はもういない。軽やかな足取りで、努めて爽やかな挨拶を受付に投げつけて、颯爽とエレベーターに向かう。ここが正念場だ。エレベーターに乗り合わせる相手次第で、今日の運勢が決まると言っていい。

エレベーターの前で立ち止まる。いた。前世が記者だった男だ。

元記者の姿を視界に入れた瞬間に僕のレーダーはアラートを鳴らしている。


『おはようございます。』


先手必勝だ。

万一この挨拶が遅れてしまった時には、スキャンダルとして今日の一面を飾られてしまうだろう。


『相変わらずの重役出勤ぶりだねぇキミィ。次からは敬語で話さねばならないかね?』


これだ。この意味不明なくせに僕が悪かったような気になる圧倒的暴論。

僕は抵抗をする気などサラサラない。僕は30分前に出社しているーだとか、重役ではありませんーだとかを言い放ったが最後、エレベーターに乗ることは当分お預けになってしまう。


『申し訳ありません。気をつけます。』


社会人になってからというもの、悪いと思っていないことを申し訳なさそうに謝る。僕はこれらの武器、社会人必須テクニックを巧みに用いてこの戦場を生き残ってきた男だ。ここで僕の社会人必須テクニック『謝意のない謝罪』を見せつけて正解だった。


『そうかそうか。君はいつも気をつけることだけは得意だなぁ。そして気をつけるだけで直そうとはしない。その証拠に私が君と出会ってから君にこのセリフを言うのは四度目だ。』


誰か来てくれ。沈黙を許容されるたったの数秒に僕は永遠のような長さを感じた。


『申し訳ありません。以後このようなことがないように精進いたします』


同じことを違う表現で伝える。そうすることにより、様々な角度から反省していると見せかける。これぞ社会人必須テクニック『多角的ニュアンス』だ。僕が学びを得た真骨頂。

しばしの沈黙。そう。戦いはなにも鍔迫り合いだけで決まるものではない。

僕の技術が、敵を沈黙させるという形で刹那の勝利を掴み取った。


『ドアが閉まります』


僕と敵だけを受け入れ、無機質な声が響く。

ああ、最後の望みは絶たれたようだ。これからはまるで拷問を受けるが如く、僕は敵との時間を過ごさねばならない。

階数を表示するモニターを凝視し、1秒でも早く上に上がれと僕は心でせがむ。願えば届くかもしれない。そう思ってしまうほどに、僕は何かに縋らなくてはならない心境にいる。


『キミィ、この前の遠井物産の打ち合わせ、進捗はどうだね?あれだ、0からのベースとして、0からのソリューションをイノベーションできているのか?バリューのマネタイズはどうだ?』


ここにきて会心の一撃だ。まずい。何を言っているかわからない。大体0からのベースとして0からのソリューションって、そもそも日本語が怪しい…どうする。


落ち着け、考えろ…

0から問題解決の技術革新?価値の収益化?無茶苦茶考えればわからなくもないが、問題があるのに0からってどういうことだ、価値、価値とは商品を指す。すなわち…

いや、いやいや。落ち着け僕。

まず意味がわかって使ってるわけがない。内容が無茶苦茶だ。そして、普段のやつを見ていれば、見栄を張りたかったんだろう、これが一番合理的だ。

奴のプライドを刺激せずに、あえて奴の優位性を認め、しかし仕事はこなした雰囲気を醸す。これしかない。(この間0.5秒)


『流石難しい言葉をご存知なのですね。僕の語彙程度ではいまいちわかりかねます。ですが遠井物産の担当の方とは連絡を密に取り合っており、次の段階であるイベント開催の日程、来賓、内容等はかなり煮詰まっております。後ほど詳細な報告書を拝見いただければと思います。』


『キミィ、時代は常に移り変わっているんだ。私は新しいものを取り入れて、更なるスキルアップと社への貢献をしている。私のように自分をアップデートしている人間こそが、この変化の激しい時代を勝ち抜けるんだよ?』


勝った。ただの嫌味で終わるこの展開は、凡そ予想しうる中で最善の返答だ。

モニターが8階を示し、ドアが開いた。

僕は二つの意味で勝ったのだ。これは凱旋に違いない。

待てよ?僕は凱旋と言った。凱旋とは勝って帰ることだ。

会社に帰るとは、僕にとってここは僕の居場所なのか。

エレベーターの閉まる音が妙に耳に残った気がした。


『おはようございます。』


会社のドアをくぐる。

気を取り直そう。僕はここでは爽やかイケメン風だ。あの愛らしい顔で笑顔を振り撒く可愛い佐倉さんも、怜悧な瞳で仕事をこなす美人の木下さんも。僕の爽やかイケメン風に誤魔化されるかもしれない。

宝くじだって買わなければ当たらない。つまり、当たって砕ける。これは一つの真理なんだ。


『おはようございます。』

『おはようございます。』


二人の無機質な挨拶が響く。こちらを見てくれたかも怪しいものだ。これならば音声読み上げソフトの方がまだ温かい。

こんなことならエレベーターのほうがマシというものだ。

僕の恋人は佐倉さんでも木下さんでもなく、名もないエレベーターなのかもしれない。誰にでも平等で、いつも僕を望む場所に連れて行ってくれる。彼女はそれを仕事だと言ってのけるであろう健気さもある。今後好きなタイプと聞かれた時は、エレベーターと答えることにしよう。


いつものデスクが僕を迎える。

雑に散らかった書類、デスクに転がるペンの数々。裸でまとめてあるA4の用紙は所々が折れている。ホチキスの針だけが数個転がるこの光景こそが僕のデスクだ。もちろん必要なものは探すところから始まる。周りの人間からの白い目はもう慣れた。

デスクに座る前にコーヒーを淹れよう。そうして熱々のコーヒーの苦さで、この苦々しい記憶を上塗りしてしまえばいい。


『おはよう』


この声は…僕の中で警戒度が一気に上がる。まるでライオンの足音が聞こえたシマウマのように。

さっき会った奴よりも数段偉い奴のボスが現れた。実力派、武闘派と名高いこの男は、この弱肉強食の世界をその牙だけでのし上がってきた猛者だ。


『おはようございます。』


まずい、連戦続きでHPもMPも心許ない。絶体絶命だ。

かくなる上は玉砕しか…


『おはようございまぁーす、あっ!部長知ってました?綺麗な蝶々って大体蛾なんですってぇー。』


一人で笑っている。あれは愛らしいおバカと有名な井上さんだ。しめた。渡りに船とはこのことだ。飛んで火に入る夏の虫、鴨がネギ背負ってやってきた。

ん?ええい、なんでもいい。

落ち着け…考えろ…

状況を整理しよう。

目の前にはライオン、隣にはおバカA、そして爽やかイケメン風。この数式に答えはあるのか…どう考えても井上さんに引っ掻き回してもらうしかない。井上さんのエンジンにガソリンを入れるには…そうだ!これだ、これしかない(この間0.7秒)


『あっ井上さんおはようございます。聞きましたよ。超イケメンの彼氏ができたんですってね。昨日みんなに自慢してたって同僚から聞きました。』


会心の一撃が決まった。

見事に彼女の血圧と体温が上がっていく。


『そうなのー!?いやぁーんもうー、あ、写真見る?部長もどうです?見てくださーい、超イケメンですからぁ、しかも超優しくてぇ』


『あ、あぁ』


いかな肉食獣といえど、所詮は獣。不意打ちされ驚きが勝ると対応は後手。

どうやら僕はハイオクを入れてしまったらしい。が、それはそれで好都合だ。後は自然にフェードアウトするだけでいい。デスクに戻り、熱々のコーヒーを啜る。これこそが戦士たる僕の勝利の美酒に違いない。


さて、背中から打たれる心配は無くなったものの、今日も今日とて戦いが始まる。社会人にとっての戦い。労働だ。

僕は慣れた手つきでファイリングされた書類の業務進捗報告に詳細を挟み、付箋とともに隣のデスクに置く。

部長があたかもそこに置いた風を見せかけて、僕の仕事をやってもらうのだ。あたかも部長というのがポイント。僕の仕業だとバレてはいけないし、僕の仕事と疑われた時は素直に謝る。

社会人必須テクニック『自然な誤解』。

この自然を強調さえすれば、相手は疑わしかったとしても言及を避けてくる。更に机の一番上の引き出しには、かつて部長に付箋で注意された部長語録が大量に眠っている。

後は最適なものを選び貼り付ければ完成だ。

この社会人にとっての犯罪にも似た行為だが、それは仕方ないことだ。弱いものは騙され、搾取される。強いもののみが生存を許されたここは、会社という戦場なのだ。


隣の同僚がデスクに戻ってくる。僕のある意味緊張の一瞬だ。

彼が嫌そうな声をあげれば僕の勝ち、僕に話しかけてくれば僕の負けだ。

大丈夫、プランは完璧だ。この展開で話しかけられるはずが


『おい、お前の仕事こっちのデスクに置いてあったぞ』


同僚がこちらにファイルを渡してくる。バカな。作戦は完璧だったはずだ。まさか、指紋か?指紋でバレたのか?


『ほらここ、作成者お前の名前じゃん。宜しく』


『あっ、本当だなぁ。ありがとう、部長、間違って置いちゃったのかなぁ』


上ずる声、彷徨う視線、僕の鉄面皮に亀裂が入る瞬間。

なあに、勝者がいれば敗者もいる。それでも立ち上がってきたからこそ、今の僕がいる。そう。これは成長に必要なことだったんだ。

ファイルが机を滑る音が嘲笑に聞こえてならなかった。


敗戦国は賠償を。これは国際的に決められたものでもある。僕はというと、先の戦闘の敗残処理の真っ最中だ。業務進捗報告とかいう意味があるかすら疑わしい書類を飾り付けていた。


『ふぅ。』


息を抜きながら2時間ほど集中していた自らの体を労る。デスクワークだからこそストレッチは重要だ。目が見えない、肩が凝る、腰が痛む。戦闘で体を傷めるが如く、我々戦士たちも常にそのリスクと戦っているのだ。

まずいっ、前から見慣れた見たくない顔がこっちに向かってくる。あれは元記者だ。

僕はすぐさまパソコンに視線を戻し、とりあえず両手を使い、キーボードをものすごい速さで叩きまくる。当然ファイルには意味のわからない文字列が大量に出来上がっていく。

社会人必須テクニック『やってる感』だ。

とりあえず忙しそうだから後にしよう。この譲歩確率を1%でもあげるための策。手法は様々だが、僕の好むスタイルは電話応対をしてるフリをしつつ、キーボードを叩くという大技だ。

これはバレる可能性が高い上に、バレたら取り返しのつかない程の辱めを受けるためあまり使用することはないが、最高に忙しそうでイカしてる。僕はそう思っている。

ちなみに画面を覗き込まれた瞬間に終わるため、相手は選ばなくてはならない。

元記者はまっすぐ僕のデスクに向かい、ピタリと歩みを止めた。取材か…?


『きたまえ、進捗報告会議だ。』


奴はそれだけ言うと後をついてこいと言わんばかりの態度を出す。


落ち着け…考えろ…

その会議は明日のはずだ。可能性は二つ。隣に同僚がいることを踏まえると、ここでは言えない話をするためにあえて会議と言っただけ。

もしくは明日の会議が今日に変更になり、僕に何も言っていなかったことを全て無かったことにして連れていく。のどちらかだ。

どちらにせよ、この状況における選択肢はかなり限定的だ。拒むことは許されず、かと言って準備できていませんでしたなんて言おうものなら、ライブ中継までされかねない。

問題はこの報告書の内容だ。明日まででいいと考えていたし、この資料はまだ60%程度しかできていない。

考えろ、考えろ。この60%を魔法のように100パーセントにする方法を…(この間0.2秒)


『はい。承知いたしました。』


とりあえずここはテンプレだ。席を立つフリをして時間稼ぎを?いや、それでは解決にならない。仕方ない。少し名誉が削がれるが、背に腹は変えられない。

廊下を突き進む元記者に声をかける。


『申し訳ありません。会議の前にお手洗いよろしいでしょうか?』


『君は小学生なのかね?せんせートイレーを私にやられても困るんだがねぇ。会議に行く時間に合わせて済ませておくのが常識じゃないのかね?そして本来であれば君が私の元に来るのが筋じゃないのかね?君は業務怠慢では飽き足らず、トイレの行き方も教わらなければならないのかね?』


クッ…だから嫌だったんだこの戦法は。不必要な傷を負ってしまう。大体いきなり会議に呼び出しておいて何をいっているこの記者は。

…だが、ここで言い返せば会議の後が憂鬱でたまらなくなる。ここは我慢だ。


『はい。大変申し訳ありません。』


『まあいい。第二会議室だ。すぐに来たまえ。』


記者はそういうと、歩を進めていく。

すかさず僕はトイレの方面に歩いていくと見せかけて、廊下の角でやつの視界が切れた瞬間に風を置き去りにする速度で自らのデスクに辿り着いた。

奴と別れて稼げた時間は精々3分といったところだろう。

この3分の利用の仕方で僕の今後の社会人生活が決まる言っても過言ではない。

本来3分とは平和と安寧の象徴のはずだ。僕の象徴は残業用として、今も引き出しの中に転がっている。

お昼はあいつにお湯を入れて、3分の成長を見守ることとしよう。


すぐさまデスクに戻った僕には、すでに考えがあった。

社会人禁忌テクニック『粉飾』だ。

これは確実にやってはいけないことだ。粉飾決算を行う上官たちがどうなってきたかなど言うまでもない。しかし考えてもみてほしい。粉飾決算という言葉が生まれたのは、粉飾決算を行なってきた歴史があるからに他ならないのだ。

郷に入っては郷に従え、虎穴に入らずんば虎子を得ず。2年前の進捗報告書を1分で引っ張り出して、1分で作成者とその内容を致命的にずれない程度に抑える。そして残りの1分で仕上げだ。プレゼン資料に関してはそれっぽいものが既にある。

PCにデータを移行させながら会議室への道のりを歩いていく。

おそらく軍評定に赴く軍師はこのような気持ちだったのだろう。

大きなギャンブルだ。見たことがある。一言そう言われるだけで僕は終わる。

だが大丈夫。恐れることはない。今の僕には軍師の魂が宿っているのだから。


会議室の扉が目の前に迫る。中に入れば、僕の敵たちが待ち構えているはずだ。歩みを進めるごとに心拍数が微かに上がっていく。だめだ、軍師としての冷静さを失ってはいけない。

ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。中から聞こえる声は、さながら戦前の合議だ。


会議室に足を踏み入れると、そこはまさに見慣れた戦場だ。長机に並び、資料という武器を広げる同僚たちは、僕を値踏みするような視線をぶつけてすぐに手元の資料へと舞い戻る。もちろん僕の目は彼らの目も分析する対象だ。

奴ら草食動物の心理はこの会議の雰囲気を如実に表すのだから。

そして注目すべきはあそこにいる、元記者とライオンだ。今回ばかりはおバカAの破天荒さも期待できないだろう。

粉飾は気づかれてはいけない。時の流れるままに、明鏡止水の心を忘れてはいけないのだ。

最も大事なことは自然であること。

資料の数値の細かいところを知っている同僚もいるが、奴のことは移動時間のLINEで買収済み。事実上敵は2人に絞られている。

会議が始まる。ピーンと張り詰めていく雰囲気。社会人としての戦の本番だ。


「こちらが今期の現在進捗です。」


堂々とした態度、自信に満ち溢れた声。これらを意図的に作り出す社会人必須テクニック『ハッタリ』だ。

ハッタリをかましつつ、ライオンと記者の動向を伺う。

元記者の目が資料に落ちる。つまらなさそうな顔。嬉々として文句を言ってくる奴のつまらない顔、これが意味するところは異変に気づけていないということ。

元記者はクリア。僕は軍師としての冷静さを保ちながら、進捗会議自体の進捗を計算していく。


「なるほど、進捗は順調のようだな。」


ライオンの声は穏やかだが、その背後には獰猛な肉食獣の牙が隠れている。僕らシマウマがライオンのテリトリーで気が抜けるはずもない。ましてや禁忌に手を染めた僕は、戦局を有利に進めることが至上命題なのだ。

会議を進行させていく。僕は言葉を選び、自らの完成している部分は大袈裟に執拗に、しかし粉飾部分は流るる水の如く自然にスルーしていく。

この場にいる全員を大部隊の部隊長のようにコントロールしていく。ただの「社会人の会議」なんてとんでもない。これは紛れもなく我々戦士にとっての死闘なのだから。

約20分にわたる僕のパートは一瞬で終わったかのように思えた。記者は相変わらずムスッとした顔を崩さず、ライオンは時折喉を鳴らしていた。あれは威嚇ではなく、僕がカップラーメンを食べ終えた時の顔と同じだ。奴らの疑念はわずかも生まれなかった。完璧だ。これはまさに軍師の勝利だ。


会議室を後にした僕は、高揚した精神を落ち着けていた。背筋を伸ばし、深く息をつく。今にも法螺貝を響かせ勝鬨を上げたくなるが、ここで戦ったのはまだ一部。そう。あくまで理不尽なヤマを乗り切っただけに過ぎない。時刻は11時58分を指している。心の中で記者に散々毒付くのは後でもいいだろう。戦士にも休息は必要だ。


デスクに座り、引き出しに眠る安寧と平和の象徴を取り出す。人生を決定づける3分と、幸せへのカウントダウンの3分。社会という戦場での死闘を乗り越えた者だけが味わえる、優しくも穏やかな3分だ。

お湯を注ぐ。僕は安らぎを噛み締めるようにじっと見守る。いつの間にか戦士になり、この3分の愛しさを忘れていた気がした。何もせず、ただ蓋の端から登ってくる湯気を眺める。

タイマーの音が鳴る。ペリッと蓋を剥がし、無造作に端を突っ込んで掻き回した。


僕は思う。今日もまた、勝ち残った。社会という戦場に打ち勝ち、そして自分だけの平和なひとときを手に入れたのだ、と。

カップ麺をすすりながら、僕は次なる戦いに備える。明日もまた、社会という戦場は容赦なく僕を待っている。しかし今はこの安寧に身を埋めていたい。


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