この街には、魔女がいる
この街には、魔女がいる。
絵本やアニメの中でよくある箒を使ったり魔法で戦うのではなく、黒装束の不気味な女のことだ。
その姿を見たら呪われる。気づいたら殺される。
逃げても逃げても追ってくる。物理的に離れても、魔女の追跡は夢の中まで続く。
そんな都市伝説の存在に目をつけられてしまった、私の話。
午後十一時。残業を終えた私は、ひとけのない街をほんの少し早足で歩いていた。
持ち帰りの仕事用の書類が詰め込まれたカバンがずっしりと重い。一歩ごとに全身の疲れが広がっていくかのようで、その場で座り込んでしまいたくなる。
でも、足を止めるわけにはいかなかった。
疲れによる幻聴かも知れないけれど、確かに聞こえてくるのだ。――背後から迫る、何者かの足音が。
ただのストーカーだったらいい。いや、ストーカーだとしても全然いいことなんてないが、その方がマシだ。足音はハイヒールのコツコツという響きに似ていた。
気づかないふりをして、ただ足を進める。
いくつもの角を曲がりながら前進。街灯だけに照らされた道は薄暗い。
目前に見えてきたアパート、その影がやけに遠く思えた。
「――ッ」
ふと、何かに引っ張られた感覚がして足がもつれる。
疲れた体は言うことを聞かない。受け身も取れずにごろんと転がり、カバンの中身が散乱してしまう。
「ねぇ、気づいているんでしょう?」
くす。くすくす。くすくすくすくす。
耳障りな笑い声。鼓膜の中にねっとりと届く、声がする。
それでもなお、私は振り向いたりしなかった。
静かに立ち上がって、「小石にでも躓いたかなぁ……」と独りごちたあと――耐え切れなくなって走り出す。
痛くなるほど激しく脈打ち、警報を鳴らしていた胸の鼓動は、やっとの思いでアパートの部屋に辿り着いても治らなかった。
カバンとその中身を置き忘れたことをずいぶん経ってから思い出したが、取りに戻ったりはしなかった。
この街には、魔女がいる。
絵本やらアニメの中のように鮮やかな魔法を使って箒に乗ったり戦ったりはしない。気味の悪い、黒装束の女のことをそう呼ぶらしい。
ボサボサの長い黒髪を揺らし、夜闇と同色のドレスを纏って、黒いヒールを鳴らして背後に迫ってくる魔女。
魔女の姿を一度見てしまったら呪われるという密かな都市伝説があり、実際に数ヶ月に一度は夜明けになると死因不明の亡骸が転がっている。
それが魔女と関係があるのかどうか、証拠もなければ目撃情報も一切ないけれど。
魔女についての話を私が知ったのは、この街に引っ越してきてからだった。
大学卒業後に親元を離れて就職した職場から程近く、かつ格安のアパート。そこに居を構え、新生活が始まった……のだが。
「そこ、やめといた方がいいんじゃない?」
「物好きだなぁ。そんなところに住むなんて」
「お化けか何か出るって噂よ。普通はそんなの信じられないと思うけど、それで精神やっちゃって新人の子が何人辞めていったことか……。それでなくても若い女の子は不審者に襲われやすいんだから、あなたも気をつけなさいね」
お局や上司、先輩にまで、引っ越しの話をすると心配と迷惑が混じり合ったような視線を向けられた。
どこに住んでいたって文句を言われる筋合いはない。それでも、ここまで言われるとどうしても思ってしまう。
本当に何かがいるのではないか、と。
私は思い切って、アパートの住民たちに聞いてみた。
住民のほとんどは面倒臭そうな顔をするか、口を閉ざすか。その中で一人だけ、隣人のお婆さんが内緒話をするような小声で魔女の存在を教えてくれた。
「このことを大っぴらに言うんじゃないよ。自分について噂されてるって魔女が知ったら、喜んで狙いに来るからね」
「……?」
「魔女のことを決して忘れてはいけない。でも、忘れたふりをしないといけないのさ」
「魔女を認識しなければいい。そしたらきっと殺されないから」なんてお婆さんは笑ったけれど、いざ遭遇したとして、そんな不審者を無視する方が身の危険があるだろう。
色々と問うてみても、お婆さんはそれ以上何も言ってくれなかった。
「ありがとうございました」
頭を下げて自室に引き下がったはいいが、さて、困った。
私にお金はない。一回引っ越しするのに、せっせと貯金していた学生時代のバイト代を使ったのだ。通勤や食費などを賄う分のお金ももちろん必要で、今の稼ぎの中から引っ越しに必要な額を捻出するのは難しい。
となると私にできることは限られている。不審者に出会わないように注意して行動する、それくらいだ。
「所詮は都市伝説……見たら死ぬなんて噂に尾鰭がついただけに決まってる……」
一応身の回りに警戒していたおかげか、しばらくは平穏に過ごせた。転居してから三ヶ月、魔女の噂を忘れかけてしまうくらいには。
だが、それは不意にやって来た。
残業したのがいけなかった。結局仕事が終わり切らなかったのだから、早々に帰れば良かったと後悔している。
深夜の街を一人きりで帰っていた最中、私はふと魔女のことを思い出した。思い出し、耳をすました途端、ヒールの音が聞こえてきて……そのあとはまるで悪夢だった。
交番に行こうかとも一瞬思った。けれど背後にいるそれが仮に魔女だとすれば、きっと何の役にも立たない。
だから気づかないふりを貫き通すしかなかったのだ。
無事に自分の部屋まで辿り着けたものの、忍び込まれるのじゃないかと震えが止まらなかった。
だが極度の緊張状態が続いたせいか意識が遠くなり、いつの間にか翌朝になっていたのを見るに、侵入してこなかったのだろう。
どうやら一命を取り留めたらしい。
けれど本当に私は、魔女から逃れられたのだろうか?
背筋に嫌な悪寒が走ったような、そんな気がした。
*※*※*
――夢を見る。
コツコツという足音。なんとも形容し難い邪悪な気配。
鋭いナイフを向けられているかのような、恐ろしさとおぞましさがすぐ背後にある。
『ねぇ、気づいているんでしょう?』
己を餌と見做している狩人へ警戒を向ける、動物的な本能に違いない。聞こえてきた気色の悪い声に思わず振り返りたくなる。
だがその直前、「逃げろ」と理性が叫んで、私はのろのろと駆け出した。
『あなたよ、ほら。無視しなくてもいいじゃない』
女の吐息が首筋にかかる。
もっと、もっと早く走らなければ。
だが、突然足を引っ張られた。
あの夜とそっくりそのままに。
『逃げられるとでも思ってるの?』
くす。くすくす。くすくすくすくす。
笑い声は高く木霊し、耳を塞いでもなお、聞こえなくなることはない。
永遠と思えるほどに響き渡り続ける。
*※*※*
――あれは絶対にただのストーカーなんかじゃない。
今まで都市伝説なんて信じてこなかった。
せいぜい某動画配信サイトの『怖い話』をゆるりと楽しむ程度。この世に怪異が実在するわけがないと思っていた。
今、私は確実に魔女に追い詰められている。
カバンを紛失したことで上司に叱責されるし、魔女の恐怖を思い返しては眠れないしで散々だ。
そんな中でさらにおかしな夢まで見てしまうのだから、頭がどうにかなりそうだった。
初めてあの魔女に遭遇してから数日経つが、その間毎晩である。安眠は魔女との遭遇後の気絶同然の睡眠以来できていなかった。
眠るのがあまりに嫌でコーヒーがぶ飲みにくわえて踊り明かそうとしたのに、妙な睡魔が襲ってきて抗えない……その事実がたまらなく怖い。
やはり逃げられなどしなかったのだ、と絶望を味わった。
きっとこのまま何もしなかったら、いつか魔女という名の死に捕まってしまうだろう。
それだけは避けたい。なのに打てる手はない。八方塞がりだ。
だから私は、知恵を求めた。
ほとんど神頼みに近い。広い広いSNSの海でなら誰か教えてくれるのではないかと、祈りに似た心地で呟く。
お願いです。私を魔女から助けてください。
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