このたび妹になりました。お兄ちゃん、愛してください。
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
全ての始まりは、突然言われたこの一言だった。
俺の目の前に立つのは一人の少女。可愛らしいカーディガンを羽織り、今にも太ももが見えてしまいそうなスカートを履いた彼女は、ニコッと俺へ笑いかける。
少し頬が赤くなっているところを見るに恥じらっているようにも見えた。まあ、彼女の他の表情を知らないので、ただの勘違いかも知れないが。
だって──。
「あの、さ」
「なんですか?」
「……君、誰なんだ」
俺はたった今、彼女と初めて出会ったばかりなのだ。
*✴︎*✴︎*✴︎*
都心部の郊外にある住宅街にある一戸建て。
そんな何の変哲もない自宅に帰ったら、見知らぬ美少女がいた。
美人というよりは可愛らしく幼い顔立ちの癖に、出るところは出て引っ込むべきところは引っ込んだ体型をしている──そのような少女が、平然として俺の家に居座っていたのだ。
おまけに俺のことをお兄ちゃんなんていう風に呼んで、出迎えた。
夢だろうかと何度か瞬きを繰り返すも少女の姿は消えてくれない。
「もぉう。私のこと覚えてくれてないんですか? あなたの可愛い可愛い妹、陽葵ですよー!」
「は?」
俺にこんなに可愛い妹なんて存在しないはずだ。
兄弟がいてくれたらいいなと妄想したことがないではない。しかし残念ながら正真正銘の一人っ子。生き別れの妹、だなんていう物語の中でしか滅多に見かけない過去を持っていたりはしないし、さらには陽葵という名前に聞き覚えすらなかった。
わけがわからない……が、考えられる可能性としては一つ。
「人違いなんじゃないか? あ、俺は下谷颯っていうんだけど」
朝、鍵を閉め忘れて家を出てしまい、うっかり家を間違えた女の子が上がってきてしまったのではないか。そして知らない人を『お兄ちゃん』と呼ぶ、精神が幼めな美少女なのでは?
そんな俺の考えはすぐに否定された。
「人違いなわけないですよ、お兄ちゃん。私は陽葵。下谷陽葵です。……正確に言えばまだ下谷じゃないですけど」
「まだ? それは一体どういう」
だが、その美少女は俺に言葉を続けさせなかった。
すぐ目の前に近づいてきたかと思うと、少しばかり悪戯っぽい口調で囁いたのだ。
「お兄ちゃん、だーいすき」
── ── ── ── ── ── ── ── ── ──えっ。
甘い声に鼓膜が蕩け切って、言葉の意味を理解するまでに時間が掛かってしまった。
そうでなくてもさっぱり解らなかったかも知れないが。
は???である。大混乱である。
初対面のはずなのに。こちらの名前もまだ教えていないのに……好き、だなんて。
妹を名乗る彼女が何者であるにせよ、とんでもないことになったと俺は思った。
*✴︎*✴︎*✴︎*
──その少女の正体が明らかになったのは、俺の父親が仕事から帰ってきてからのことだ。
「再婚!?」
「そうなんだ、つい数日前に話し合って決まったばかりだったから、颯に伝え損ねてた」
「そういうことは早く言ってくれよ……」
父が帰ってくるまでの間、一つ屋根の下で見知らぬ美少女と二人きり、どれほど神経を使ったことか。父を睨めば、「悪い悪い」と軽い調子で謝られた。
我が家は父子家庭だ。
ろくに働かず浮気をした母親が原因で五年前に離婚し、俺は父親の方についてきた。それから長らく二人で暮らしてきたし、結婚をするつもりなんてどこにもないように見えていたから驚いたどころの話ではない。
今だって何かのドッキリじゃないのかと疑っている。というかむしろ、ドッキリであってほしいくらいである。
「陽葵ちゃんのことはしっかり紹介するつもりだったんだが」
「だって颯さんに……お兄ちゃんに早く会いたくて」
「そうか。それは良かった」
何も良くない。
「仲良くするんだぞ」
「もちろんです。心配はかけさせませんよ」
陽葵という名の少女は父親の再婚相手の娘。俺と同じ高校生だという。
そんな女の子と同居しろと言うのか、この父親は。思春期男子をなんだと思っているのだろう。
というか普通、勝手に親の再婚で兄弟なんかできたら嫌に決まっているのに、実際俺は今からでもお断りしたいのに、この美少女──陽葵ははしゃいでいる理由がまったくもって理解不能だった。
父は陽葵に茶菓子を出すためにダイニングへ消える。その背中を見送ったあと、陽葵が俺に向き直った。
「改めまして。──このたび妹になりました。お兄ちゃん、愛してください」
「……あい、する?」
「兄妹だったら愛し合って当然ですよね。兄は妹を可愛がるものです。妹は兄を慕うものです。違いますか?」
いや、そんなことをつい先ほどまで一人っ子だった、というか、まだ正式には籍を入れていないらしいので今も一人っ子である俺に言われても困る。
知り合いの話を聞く限り、兄弟関係というのはそんないいものばかりではないような気がしてならないのだが、違うのだろうか。
「というか愛し合う兄妹ってそれ、シスコンとブラコンなんじゃ……」
「うちは妹とも結構仲良しですよー? あ、妹の名前はえりかっていうんですけど」
「もう一人いるのか。じゃあなんで今日は君だけで来たんだ?」
俺の問いかけに、さも当たり前のように陽葵は答えた。
「今日はほんの挨拶ですよ。えりかにお兄ちゃんを取られるわけにはいかないので、ちょっと先を越して会っておくいて、私の存在を焼き付けられたらいいなーって思って来ました。私、お兄ちゃんの特別になりたいですから」
「……俺の、特別に?」
「そうです。ただの妹じゃダメなんです。足りないんです」
陽葵の目には熱がこもっていた。
どうしてそこまで言うのか。本当は問い詰めたかったが、父親が戻ってきてしまったので口をつぐむ。
気になることがあり過ぎる。でも父の手前、これから妹になるらしい彼女と微妙な空気に鳴るのはまずい。
俺の右肩に腕を絡ませ、ベタベタと擦り寄りながら茶菓子を頬張る陽葵は楽しそうに笑っている。
まったく何なんだ、この女は。いくら美少女でも、出会ったばかりの相手からこんな態度を取られても全然嬉しくない。もはやホラーだ。
俺はただされるがままになるしかなかった。
この時の俺はまだ知らない。
妹であることを口実に接触されては可愛く口説きまくられ、情けなくもあっさりと陥落してしまうことも。
実は陽葵が同じ学校の後輩で、ずっと片想いをされていたことも。
かなり嫉妬深く、俺の近くにいる女という女に敵意を向ける陽葵に困らされることも。
そして、彼女と墓場まで付き合うことになる未来も――。
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