闇に紛れて
1940年5月
リールへの道はもはや道ではなかった。 それは戦争の廃墟を縫うように続く、曲がりくねった不確かな道だった。焼け落ちた村々の残骸からはいまだに煙が立ち上り、空気は火薬と腐敗の臭い、そしてそれ以上に何か決定的なものの匂いを含んでいた。 私は幽霊のように動き、破壊された建物や茂みの影に身を潜め、ドイツ兵の靴音が一定のリズムで響く道を避けて進んだ。
ダンケルクを脱出できたのはまったくの幸運だった。 最後の船が出港し、撤退の銃声が遠のくころ、私は取り残された何千人もの兵士のひとりだった。 敵の哨戒が海岸線をくまなく捜索する中、私は瓦礫の中を這い、できるだけ身を低くした。死者の中に身を紛れ込ませることで生き延びたのだ。 泥を塗りつけ、制服を引き裂き、敵兵の足音がすぐそばを通る時には、息をひそめて倒れた兵士のふりをした。 夜の帳が下りると、這うようにして海岸を離れ、田園地帯へと逃れた。 目指すはリール。 しかし、通常なら半日で着くはずの道のりが、一週間の苦難となることを私はまだ知らなかった。
身体は痛み、飢えが腹を蝕み、疲労が地面へと私を引きずり込もうとする。 それでも、止まるわけにはいかなかった。止まれば見つかる。 見つかれば、どんな結末が待っているか考えたくもなかった。 どんな音も脅威に思えた。遠くで響くエンジン音、野良犬の吠え声、風に煽られて軋む窓の鎧戸。 そのすべてに、私は身をすくめ、神経をすり減らしていた。
廃屋を漁りながら、なんとか飢えを凌いだ。 ある農家の跡地で、硬くなったパンの欠片を見つけた。 靴底のように固かったが、命をつなぐには十分だった。 廃墟となった町の裏手に残っていた雨水桶からは、数日の渇きを癒せるだけの水を手に入れた。 しかし、本当の脅威は飢えではなかった。 それはドイツ兵だった。
軍用車両が、避けなければならない道路を轟音とともに進んでいく。 兵士たちは笑い、煙草をふかし、瓦礫の中で指示を飛ばしていた。 何度も、私は土の中に身を伏せ、ブーツの足音がすぐ傍を通り過ぎるのを息を殺してやり過ごした。 たったひとつの視線、ひとつの何気ない仕草で見つかってしまう可能性があった。 それでも、なぜか運は私を見放さなかった。
夜は最も過酷だった。 暗闇の中で身を縮め、寒さと緊張で筋肉が硬直する。 わずかな物音にも神経を尖らせ、眠ることなどほとんどできなかった。 崩れた壁の下、瓦礫の山の陰、そんな場所でわずかな休息を取った。 そして、遠くから響く砲撃の音。 砲弾が空を切り裂き、何キロも先で炸裂する。その衝撃は地面を震わせ、眠ることすら許さなかった。 戦争は決して静まることがなかった。
二日目の夜、飢えが耐え難い苦痛となって私を襲った。 水もほとんど残っておらず、最後のパンの欠片を口にしたのは何時間も前だった。 脚の力が抜け、思考が鈍くなる。 そんな時、目の前に農家が現れた。奇跡のように無傷に近い建物。 わずかに開いた窓からはかすかな灯りが漏れ、風に乗って食事の匂いが漂ってきた。
私はゆっくりと近づき、納屋の壁に身を寄せた。 木の隙間から内部を覗き込む。 そこには穀物の袋、水の入ったポンプ、そして食卓に並ぶパンとチーズ。 喉が鳴るのを感じた。 手を伸ばせば、ほんの少しだけ取ることができる。 生き延びるために必要な分だけ。 しかし、扉に手をかけた瞬間、私は躊躇した。
私は英国陸軍の兵士だった。 いや、かつてそうだったのだ。 兵士は守るべき民衆から盗むものではない。 たとえ今、極限の飢えに苦しんでいたとしても、誇りだけは失いたくなかった。 私は歯を食いしばり、一歩後ずさった。 そして静かにその場を離れた。
焼け落ちた村の外れで、壊れた荷車を見つけた。 その中には、かつての暮らしの名残が散乱していた。 木製の子供のおもちゃ、割れた写真立て、擦り切れた婦人靴。 戦争は情に価値を見出さない。 私も同じだった。 私は必要なものだけを取った、毛布、へこみのあるイワシの缶詰、錆びたナイフ。 そして、再び歩き出した。
ある朝、私は鉄道の線路を見つけ、それに沿って南へと進んだ。 危険な道だった。 線路沿いには巡回兵がいる可能性が高い。 しかし、リールへ向かう最も確実な道でもあった。 足が震えるまで歩き続け、痛みに耐えられなくなるとやっと休息を取った。 飢えは容赦なく腹を締め付け、喉は渇きで焼けるようだった。それでも、前へ進み続けた。
ある時、私は人の声を聞いた。 風に乗って聞こえてくる囁き声。 幻聴かもしれない。 過去の記憶かもしれない。 母の「夕飯よ」という声。 父が暖炉の前でパイプに火をつける姿。 遠くで笑う兄、もうこの世にはいない、異国の土に埋もれた兄。 私は奥歯を噛み締め、現実に意識を引き戻した。 過去はない。ただ、次の一歩を踏み出すだけだ。
ドイツ軍の巡回に危うく遭遇しかけたこともあった。 線路沿いを五人の兵士が歩いてくるのを見た時、私は瞬時に草むらに身を投げた。 ライフルを肩に掛け、無精髭を生やした兵士たちが、疲れた足取りで通り過ぎる。私は土に顔を押し付け、ひたすら息を殺していた。 兵士たちの足音が遠ざかり、やっと顔を上げた時、私は寒さで震えていた。 それとも恐怖だったのか。
リールが目前に迫った時、最大の難関が現れた。 検問所だ。 ドイツ兵が道を封鎖し、占領下のフランスを移動するわずかな民間人を監視していた。 回り道をするには開けた土地が多すぎる。 このぼろぼろの服装が通用するかもしれないが、一言でも間違えれば、すべてが終わる。
私はじっと待ち、隙を探した。 そして幸運が訪れた。補給車が到着し、兵士たちの注意がそちらへ向いたのだ。 その隙に、私は移動中の避難民の集団に紛れ込んだ。 頭を垂れ、一歩ずつ慎重に前へ。
そして、ついに検問を抜けた。
リールの街が目の前に広がった。 だが、そこに待っていたのは、私の知るリールではなかった。 ドイツ軍の旗が翻り、兵士が通りを巡回し、市民たちは沈黙の中で日々を送っていた。 私は深く息を吸い込み、心を決めた。 ここからが本当の戦いだった。
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