新宿常夜街鬼録 ~紅包~
新宿駅は迷宮。新宿は眠らない街。
そんな言葉をよく聞くけれど、実はその地下にこそ、本物の迷宮が、眠らない街が存在する。
それは百年以上前の震災によってできた、巨大な地下空間に造られた街。
新宿駅よりも複雑怪奇な魔窟であり、陽の光が届かない永遠の夜の街。
その名を『常夜街』。
昼間でも暗く、街のあちこちに吊るされた無数のランタンや提灯が、橙や赤の光で街を照らしている。
常に夜だから『常夜街』。あるいは――あの世を意味する『常世』の古い表記『常夜』から名付けられたとも言われている。
その名の通り、この世からかけ離れた常夜街に住むのは普通の人間ではない。八割が人間でないもの。残り二割の人間も、それなりに普通ではないもの。
正真正銘の魑魅魍魎が支配する、地上の法律も常識も通用しない街。人間が迷い込めば、命の保証はないと言われている。
それゆえ、常夜街に入るには申請が必要で、案内人と一緒に行動するのが原則だ。
また、地上からの入口には警備員が常駐し、特別な通行証が無い者は通れないようになっていた。
新宿駅のアルプス広場の端にある小さな改札にも、常夜街への通路がある。改札には、今夜配属されたばかりの警備員が気合を入れて立っていた。
そんな改札の前に、一人の少年が立ち止まる。
少年はポケットを探りながら「あれぇ?」と首を傾げた。改札前に佇んだままの少年に、新人警備員が話しかける。
「君、観光客かい? 今日の受付時間はもう過ぎているよ。常夜街に行きたいのなら、明日、受付で手続きをしてから案内係と一緒に……」
研修で習った文言を並べつつ、少年の様子をさっと観察する。
高校生くらいだろうか。毛先の跳ねた癖のある髪に、猫のような淡い色の大きな目が印象的だ。ぶかぶかの白いウインドブレーカーに黒い細身のジーンズ、ごつめの紫色のスニーカー。上着の背に、白黒の勾玉を組み合わせたような陰陽太極図と八卦の図がでかでかと描かれていることを除けば、まあ、外見は普通の少年だ。
持ち物は黒いボディバッグに……大きく膨らんだ二つのエコバッグ。
今から観光に行こうとしているのに、すでに荷物を大量に持っていることを不審に思い、警備員は目を眇める。
「ちょっと、君……」
「あった!」
声を上げた少年は、ボディバッグの財布からICカードを取り出した。藍色とも黒色ともつかぬ深い色のカードに照明が反射する様は、まるで夜の闇に浮かぶ灯りのようだ。
「そうだそうだ。さっきレンタルのカードと間違って入れ替えたんだった」
少年は一人で納得しながら、ほっと胸を撫で下ろす仕草を見せた。
「うーん、アプリ入れてもなぁ……どうせ地下じゃスマホ使えないし……」
ぶつぶつと独り言ちる少年は、がさりと鳴るエコバックを抱え直した。一方に入っているのは大量のレンタルDVDのパッケージと大量の駄菓子、もう一方に入っているのはトイレットペーパーとフロア掃除用具の取り換えシート数種類だ。
生活感ある中身に呆気にとられる警備員の前で、少年はICカードを慣れた手つきで改札にかざす。ピロンと正常な音を立てた改札は、少年が通ることをすんなりと許した。
「あ、お勤めご苦労様です!」
少年は振り返り、エコバッグに入った駄菓子の一つ――十円で買える明太子味のスナック菓子を、警備員に向けて放つ。
反射で受け取った警備員に愛想よく手を振りながら、少年は軽い足取りで改札の向こう――地下に降りる階段へと消えていく。
思わず手を振り返して少年を見送った警備員だったが、はっと我に返り、隣にいた先輩警備員の方を向いた。
「だ、大丈夫なんですか? あんな子供が一人で常夜街に……!」
「ああ、心配ないよ」
年嵩の、ここの警備を長年担当している先輩は当然のように答えた。その顔には笑いを堪える色があり、どうやら新人後輩の反応を楽しんでいたようだ。
「あの子のこと、知ってたんですか……」
「そりゃあな。何しろ、あの子は――」
先輩の指はタイル張りの床を――そのはるか下にある街を示した。
「常夜街の住人だからな」
***
常夜街の南方にある『東妖街』。
大きな赤い門をくぐれば、きらびやかな中国建築が密集した街が広がっている。横浜や長崎にある中華街を思わせる、風情と活気ある場所だ。
張り出した屋根の縁や建物を繋ぐ回廊には、無数のランタンが下げられ、街全体を淡く照らす。町のそこかしこに立派な古廟があり、豪華な装飾や彫刻に彩られた建物が人々の目を楽しませる。かと思えば、中国建築と洋館建築が混ざった時計塔もあり、モダンでレトロな街並みは散策にうってつけだ。
大通りには様々な屋台が並び、観光客は出来立て熱々の餡餅や顔の倍の大きさはある鶏の唐揚げに齧り付く。ミルク味のふわふわの氷にフルーツをたっぷり乗せた雪花冰、甘くて冷たい西瓜のジュースや香り高い中国茶が、歩き疲れ乾いた身体を潤す。
少しずつ賑わってきた夜市を見下ろしながら、少年は常夜街の裏名物である、宙にせり出した狭い階段を降りた。
地下に広がる常夜街は、深さにしておよそ数十メートル。新宿駅の真下には、吹き抜けのようになった空洞があり、一番下の大通りまで見下ろせるようになっている。その周囲にはブロックを積み重ねるように建物が建てられ、隙間を縫うように通路や回廊が設けられていた。
地下十数階ほどの層――正確に何層あるのかは誰も知らない――を上下に繋ぐのは無数の階段だ。後から取って付けられて、空洞部分に張り出しているものも多い。
簡素な手すりから身を乗り出し、手を滑らせでもしたら数十メートル下の通りに真っ逆さま……の危険な階段だが、見晴らしの良さやスリル感があるせいか、「映える」と観光客の間で密かに人気らしい。もっとも、危険なため大抵は進入禁止となっており、地元民が使うばかりだ。観光客は新宿駅から専用のエレベーターで一番下の層まで降りることが多い。
観光客の多いエレベーターより、人のいない階段の方が気楽だ。少年はふんふんと鼻歌交じりに、危険な階段を二段飛ばしで降りる。
辿り着いたのは、中層にある二階建ての小さな建物だった。空洞にせり出た建屋の周囲には、階段と通路がぐるりと張り巡らされている。
二階部分は、中層にある通りに面して店舗が構えられていた。
蓮の花が描かれた紫色の暖簾が下がり、軒下の古びた木の看板には『蓮夢堂』と書かれている。一階部分は住居スペースで、回り込んだ狭い階段の踊り場に面して通用口があった。
少年は通用口の方から入り、「ただいまー」と声を掛ける。
靴を脱ぎ、大きなエコバッグを抱えて狭い廊下を抜け、台所に入る。丸テーブルにエコバッグの中身をがさがさと出していると、入口の暖簾を掻き分けて、背の高い青年が現れた。
「おかえり、大河」
少年――大河に優しく微笑みかけるのは、美しい青年だった。
珠のような白い肌も、切れ長の目も、まっすぐな鼻筋も、薄紅をさしたような唇も。彼のすべてが、名工が丹精込めて彫り上げたような至上の一品だ。射干玉色の長い髪を背中に垂らし、上品な紫色に白銀色の糸で繊細な刺繍が施された中国服をすらりとした肢体に纏っている。
傾国と表現しても差し支えない美貌の彼が立つと、普通の古い台所の背景でも映画のワンシーンのようだった。
「ただいま、百蓮」
彼こそ、この家の主で、店の主。
名を王百蓮といった。
百蓮は戸棚から茶器を取り出し、慣れた所作で茶を淹れる。
温かな湯気と共にジャスミンの香りが立ち昇る。白い器に注がれた淡い金色の茶が、大河の前に差し出された。
「急ぎのお使い、ご苦労さまでした」
百蓮はテーブルに置かれたトイレットペーパー十二ロール入りを確認して頷いた。大河は少し熱めの茶を啜る。
「万華楼からの頼みだし。人間のお客さん用のでしょ? 最近雑誌に載ったせいで増えてきてるもんね」
「うん。後で届けてくれるかい?」
「可以。あと、取り換えシート。床拭き用と埃取り用でよかったよね?」
「ありがとう。……雑巾や羽箒もいいのだけれど、こちらの方が便利な時もあってね。埃が綺麗にくっつくし、水を使わなくていいのは楽ですよ。気になる所をさっと一拭き。近頃の人間はすごい物を作りますね」
「百蓮も元・人間でしょ」
シートを手に取り感心して言う百蓮に、大河は呆れる。そして、もう一方のエコバッグを差し出した。
「ていうか、ついでの用事の方が多かったんだけど」
がさりとなるエコバッグの中身は、大量のDVDだ。某レンタルショップで借りてきたこれらは、百蓮から頼まれたものだった。
「すまないね。どうしても続きと新作が気になって……」
照れ臭そうに笑う百蓮だが、その実、レンタル上限ぎりぎりまでがっつりとリクエストをしてきたものだ。
DVDのパッケージを取り出した彼は、美しい顔をぱあっと輝かせた。
「『鬼道の子』に『新・蘭陵伝』……あっ! 『私と僵尸~死者と恋しちゃダメですか?~』のセカンドシーズン! レンタル始まっていたのかい?」
パッケージのタイトルを興奮しつつ読み上げる百蓮。
彼はドラマフリークであり、現在、中国時代劇ドラマにドはまりしている。
ちなみに『私と僵尸』通称『わたキョン』は、架空の古代中国が舞台で、仙人になるため修行する見習い道士の少女と、僵尸(中国版ゾンビと言えばいいだろうか)のクールイケメン青年が数々の怪事件を解決する、ロマンティックミステリー時代劇である。
基本は短編連作で、主人公達のテンポの良い掛け合いに笑い、生者と死者の切ない恋に涙を流し、剣と術の華麗で迫力あるアクションに目を奪われ、青年が僵尸になった裏にある陰謀にハラハラし、悪役イケメン道士との三角関係にドキドキする――と、様々な要素が詰め込まれたもので、続編が作られるほどの人気作品だ。
大河がドラマに詳しくなってしまったのは、百蓮に誘われて一緒に観賞しているからである。二人とも好みの違いはあるが、『わたキョン』は百蓮イチオシだけあって面白く、新作コーナーでセカンドシーズンを見つけて思わず借りてしまった。
「ああ、どうしよう。『鬼道の子』の続きも気になるけれど、『私と僵尸』も早く見たい……」
DVDを胸に抱いた百蓮が、ほぅと悩まし気に息をつく。白皙の憂いある表情もまた、絵画のように美しいが、彼の悩みの元は憂いとは程遠いものだ。
それにしても、海外ドラマが邦題になると微妙なニュアンスのタイトルになるのはなぜだろうか。頭の隅で思いながら、大河はお使いの駄賃で買った駄菓子から、四角いチョコを取った。紙を剥いて口に放り込み、もごもごと咀嚼しながら言う。
「いっそDVD買ったら?」
「大河、口に物が入っている時に喋るのは行儀が悪いですよ。……そうしたいのだけど、棚が……」
ドラマフリークの百蓮は、とにかく様々なドラマにはまっていた。名探偵が出てくる古典ミステリー、ヒーローが活躍する派手で爽快なアクション、陰謀渦巻く中国の王宮を舞台にした愛憎劇……。ヨーロッパ系、アメリカ系、アジア系と彼の好みは広く深く、数年のスパンで各系統に熱中している。
最初の頃は思う存分買い漁っていたようだが、現在は保管場所に困り、厳選に厳選を重ねて悩む姿をよく見るものだ。
ちなみに、百蓮は一時期、日本の大河ドラマにはまっていたらしい。
それゆえ『大河』の名前が己に付けられたということを、常夜街の者から聞かされた。『王大河』なんて、それこそ芸名みたいな名前だが、今じゃすっかり馴染んでいる。
大河は二個目のチョコを口に入れ、残りの駄菓子をお菓子用籠に移す。その間も、百蓮は憂いの溜息を零すばかりだ。
「地上の電波が入れば、ネット配信で観られるんですけどねぇ……」
「常夜街じゃ、ネットもスマホも全然だもんな」
地下に広がるこの空間では、電波を使う機器はほとんど使用できない。スマホは圏外。パソコンでネットを繋げようとすれば、別の怪しい電波を受け取って壊れる。
だから地上のテレビは見ることはできないし、スマホでSNSも電話もできない。皆の娯楽は、常夜街オンリーの周波数で流されるラジオくらいのものだ。
「『私と僵尸』……やはりDVDボックスを買うべきか……」
真剣に考え込む百蓮の呟きの最中、ボーン、と鐘の音が響く。
窓の外を見れば、常夜街名物の十二時辰の時計台が戌の刻(二十時)を知らせていた。
多くの店が開店し、客を招き入れる。常夜街が本格的に始まる時間でもある。
「あ、そろそろ行ってくる」
万華楼に品を届けなくてはと、大河は茶を急いで飲み干し、トイレットペーパーを引っ掴んだ。通用口にぱたぱたと向かう大河の後を、見送りのために百蓮も付いてくる。
スニーカーを履いて通用口から出た大河は、目の前の階段の手すりに足を掛けた。ちんたら階段を降りていたら間に合わない。
「じゃ、行ってきます!」
そのまま手すりを蹴った大河の身体が、何もない宙に舞う。
提灯に照らされる街を落下する大河を、しかし百蓮は驚いた様子も無く、手を振って見送った。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「はーい」
声を返しながら、大河はくるりと身を回転させて、迫る屋根の上に着地した。猫さながらの身のこなしだった。さらに屋根を蹴り、尖塔の上めがけて飛ぶ。回廊の手摺の擬宝珠に片足で着地し、手摺の上を走る。
これは軽身功――気を巡らせて己の身体を軽くする技だった。
屋根や壁を足掛かりに、宙を高く飛び、垂直の壁を伝い登るのだ。建物が多く、立体迷路のように道が入り組んだ常夜街では、この移動法が一番楽だ。
自在に宙を駆ける大河の姿を、街の住人達は驚きもせずに見上げた。
「おっ、小虎じゃないか。相変わらず元気だねぇ」
「ありゃあ何だ、手に持ってるのは」
「小虎ー、帰りに寄っとくれ! 百蓮さんに頼まれてた品物、用意できてるよー!」
道行く者に口々に声を掛けられる大河、もとい『小虎』。
大河が幼い頃、『小河』と自分の愛称を言う時の発音が下手で『小虎』に聞こえたからだとか、大河の読みが『タイガー』=『虎』だから付けられただとか。とかく、いつの間にか定着した愛称である。
幼い頃に百蓮に拾われた王大河は、この常夜街で育った人間の子供だった。
***
蓮夢堂は常夜街の中層にある。
『地下四層 四番南路』と銘打った通りに面した店舗には、紫色の暖簾が掛かり、室内には蓮の意匠の絵画や小物などが飾られている。
蓮夢堂で扱うのは主に薬だ。東洋医学に基づき、壁一面の棚に納められた様々な生薬を組み合わせ、店主の王百蓮が相手の症状に合わせて調合する。
今日もまた、蓮夢堂には常連客の一人が訪れていた。
「いらっしゃいませー」
「お、今日は小虎君が店番かい」
目元の皺を深めて笑うのは、斎藤という初老の男だ。二年前に常夜街に移住してきた、人間の一人である。
定期的に訪れる彼に渡すものはすでに用意してあった。百蓮から言われていた通り、大河はカウンターの端に置いていた紙袋を二つ手に取る。
「ええと、こっちがいつもの煎じ薬。それと、これは追加の丹薬」
「ん? 追加?」
「斎藤さん、一昨日、百蓮に会ったでしょ? その時に陰の気が強くなってて、気が乱れていたからって」
「ありゃあ、百蓮さんにはお見通しだったか」
斎藤は、つるりと禿げた頭を一撫でして苦笑した。
陰の気に満ちた常夜街。観光する数日程度であればそこまで影響は無いが、長く暮らすと、たいていの人間は陰陽の気のバランスが崩れ、体調不良や精神異常を引き起こす。特に下層に行くほどに陰の気は濃く強くなるため、最下層に住む人間はまずいない。
蓮夢堂では、人間向けに陰陽の気を整える薬や茶を処方している。常夜街で暮らす人間にとって、まさに生きていくために必要な店だった。
斎藤はふうと息を吐く。
「これでも地上じゃそれなりの霊能者だったんだけどなぁ……まあ、常夜街はやっぱり違うわな」
斎藤はある寺の僧侶で、悪霊に悩むたくさんの人々を救ってきたそうだ。これはペテンでも何でもなく、本当のことだ。何しろ、本当に力のある人でないと、ここでは暮らせないのだから。
「ま、隠居生活には面白い街だけどな」
自分と同じ景色が見えて、同じ力を持つ者。それ以上の力を持つ、むしろ人でない者がわんさかいる街だ。人との違いや偏見の目を気にしなくて済む。
斎藤の話を聞きながら、大河は煮出してあった熱い茶を淹れた。香ばしい香りのそれは、焦げ目がつくまで炒った玄米の茶だ。
玄米は生命力あふれる穀物で、地上の自然の力を豊富に含んでいる。神経を整えて毒を出し、熱を取る。さらに火を入れて焦がすことで、陽の気も増す。手軽で身近な薬だ。
大河が焦がし玄米茶を斎藤と共にちびちびと飲んでいれば、急に彼に尋ねられた。
「小虎君はいつも元気そうだけど、百蓮さんに薬を処方してもらっているのかい?」
「薬じゃないけど、いつも百蓮の淹れるお茶飲んでるよ。あとは……慣れかなぁ。小っちゃい頃は下層にずっといたし。……あ、百蓮の話だと、俺、普通より陽の気が多いらしいよ」
「ああ、なるほど確かに。大河君がいると、何だかぱっと明るくなるからなぁ。眩しいって言うか」
「斎藤さんの頭よりは眩しくないよ」
「おう、言ったな」
軽口を言い合いつつ、斎藤は追加で焦がし玄米茶を購入した後、「それじゃあまたな」と帰って行った。
次の客が訪れたのは、その十五分後だった。
「こんにちはー、ごめんくださーい、陰陽局の鈴木ですー」
のんびり間延びした声と共に、暖簾を手の甲で上げて顔を出したのは、中年の男性だ。
ひょろりと細い体躯にスーツを着て、丸い眼鏡を掛けた彼は、いつもどこか草臥れた印象がいつもある。
「げ、蔵さん」
大河が思わず口にすると、蔵さんこと、鈴木蔵之介が大げさに顔を顰めてみせる。
「『げ』とは何ですか」
「だって蔵さん、いつも面倒事持ってくるしなぁ……」
鈴木は陰陽局の一員で、常夜街の担当者である。
陰陽局はかつて陰陽寮と呼ばれ、一時は衰退して消滅したものの、百年ほど前に復活した政府公認の公的機関である。
何しろ、常夜街では人間の作った法律や常識は通用しない。日本政府の唯一の対抗措置として陰陽局を復興させ、常夜街において警察的な役割を担わせているのだ。
だから陰陽局は、常夜街で人間絡みの問題が起きれば対応する。しかし時折……というかしばしば、鈴木は面倒な事案を蓮夢堂に持ち込んでいた。
それは昔から、百蓮が常夜街で仲裁役をしていたからだ。顔が広く、何かと皆から頼りにされる百蓮に鈴木は目を付け、陰陽局では対処しきれない問題を丸投げしていた。
まあ、こちらもボランティアではなく、陰陽局の委託先としてきちんと経費は出るので悪い客ではない。
大河は項を搔きつつ、気を取り直して「いらっしゃいませ」とちゃんと挨拶をした。
「じゃあ、失礼しますよー。……あ、どうぞどうぞ、入って下さい」
暖簾を潜って入ってくる鈴木の後半の台詞は、彼の後ろにいた人物に掛けられていた。
鈴木と共に店に入ってきたのは、若い女性だ。緩く巻いた茶色の髪に、綺麗なブラウスとスカートを着ている。可愛らしい女性であるが、その顔色はひどく悪かった。
俯きがちな女性の横で、鈴木が尋ねてくる。
「いやー、百蓮さん、いらっしゃいますかね? 今日は頼み事がありまして」
「今日もでしょ」
大河が間髪入れず返すと、鈴木は悪びれた様子も無く「そうですねぇ」と返す。
「実は、このお嬢さんからの頼み事でして」
鈴木に促され、おずおずと前に出てきた女性は、バッグから何かを取り出した。ハンカチに包まれたそれを、震える手で差し出してくる。
白いハンカチの隙間から見えたのは、鮮やかな赤色。
「……常夜街で、赤い封筒を拾ってしまったんです」
――紅包。
中身が分かり、あちゃあ、と顔を顰めてしまった大河は、女性の不安そうな目に慌てて表情を取り繕いつつ、百蓮を呼ぶために立ち上がった。
***
紅包。
それは、中国ではご祝儀やお年玉のことを指す。祝い事や春節の時に、お金を赤い紙で包んで渡すことから、『紅包』と呼ばれるそうだ。
本来は縁起の良い物ではあるが、落ちているものを拾うとなると、少々意味合いが変わってくる。
曰く――。
とある国の風習で、道に落ちている赤い封筒を拾うと、中にはお金と、死んだ未婚女性の髪の毛や爪が入っている。
封筒を仕掛けたのは女性の遺族であり、拾った男性に死者との結婚、いわゆる『冥婚』を迫るという。だから赤い封筒を拾ってはいけない――のだが。
「……なんで拾っちゃったの?」
「こら、大河」
思わず口にした大河を、百蓮が窘める。
店の奥、紫檀製のテーブルセットには、鈴木と依頼人の女性――浅川茗子が座っている。向かいには百蓮が座り、大河は机の横でお盆を抱えて立っていた。
湯気の立つ玄米茶に茗子は手を付けず、肩を丸めて俯いている。そんな彼女に、百蓮がそっと話しかけた。
「浅川さん」
「っ、は、はい……」
「お茶をどうぞ。温まりますよ」
柔らかな声と綺麗な所作に促され、茗子はおずおずと白い茶器を手に取った。一口飲んで、ほうと息を吐く。肩のこわばりが解けた茗子の表情は、幾分か和らいでいた。
「……おいしいです」
顔を上げた彼女が言うと、百蓮は微笑む。
「それはよかった」
「……」
目の前で微笑む青年の美貌に、今さらながら気づいたのだろう。茗子は目を瞠り、その頬を朱に染めていく。
分かっているのかいないのか、百蓮が「血の気も戻ってきましたね」なんてのんびりと言うものだから、大河と鈴木は呆れたように目線を交わした。
こほん、と軽く咳払いしたのは鈴木だ。
「浅川さん、拾った経緯をもう一度お話してもらえますか?」
「あっ……はい」
我に返った茗子は、訥々と話し出した。
十日ほど前のことだ。
茗子は、常夜街の観光ツアーに友人と参加していた。ツアーの内容は、観光名所の東妖街を巡るものである。
十二支が刻まれた時計が特徴のレトロモダンな時計台の前で写真を撮ったり、東妖街一の妓楼『万華楼』の美しい妓女達が欄干から手を振る姿に見惚れたり、大きな夜市で屋台巡りをしたり……。
ツアーは案内人と共に行動するのが原則だが、夜市ではある程度の自由行動が許されていた。東妖街を仕切る組織『龍霞』が治安を守っているからだ。
とはいえ、一人で行動をするのは厳禁で、大通り以外の場所には足を踏み入れないことが絶対条件だった。『規則を守らない場合、何が起こっても一切の責任は負いません』と、観光受付の契約書で約束させられる。
恐ろしい場所ではあるが、ルールを守れば怖くはない。それに、エレベーターに乗ればすぐに地上へ戻れる。
そんな安心感もありつつ、茗子は友人と共に夜市を楽しんでいた。
胡椒の効いた豚肉の餡がジューシーな胡椒餅や、モチモチ食感のさつまいもの揚げ芋スナックの地瓜球、綿菓子のようにふわっと溶けるかき氷の雪片……。
常夜街は、まるで香港や台湾、上海などの海外を観光している気分を味わえると若者に人気で、茗子も参加するのはこれで三度目だ。
何度も来たことで、気の緩みがあったのかもしれない。
『ねえねえ! さっき龍霞のボスが通ったらしいよ!』
『え、嘘⁉ 見たかった~。すっごいイケメンなんでしょ?』
友人とおしゃべりに熱中していれば、大通りからわずかに外れて、路地の入口に足を踏み入れかけていた。
いけない、戻らなきゃと、友人と慌てて引き返そうとしたが、道端に赤い封筒が落ちているのが目に留まった。
『ねえ、あれって……もしかしてSNSで噂の――』
「幸運の紅包?」
素っ頓狂な声を上げてしまったのは大河だ。
茗子は、小さく頷く。
「はい。……あの、知りませんか? SNSで少しバズってたんですけど……」
「えすえぬ……? その、ばず……とは何のことでしょう?」
百蓮が小首を傾げると、鈴木が説明する。
「バズる。短期間で爆発的に話題が広がり、大勢の注目を集めて世間を席巻することの意味で使われる言葉です。主にインターネット上におけるSNS等を通じた拡散について用いられますねぇ。あ、SNSというのはソーシャルネットワークサービスの略で……いや、まあ、とりあえず地上じゃすごい噂になってる、ということですよ」
インターネットの無い常夜街の住人には縁遠い言葉を羅列され、きょとん顔の百蓮に、鈴木は詳しい説明を諦めたようだ。
端的な説明に、百蓮はふむと頷く。
「なるほど……それで、『幸運の紅包』という噂はどういったものなのですか?」
「常夜街の紅包は、拾うといいことがあるって噂なんです。実際に拾った人が、スピードくじが当たったとか、好きな人と付き合うことができたとか……SNSでもそんな報告が上がっていて」
茗子はスマホを取り出すものの、常夜街では圏外だ。代わりに、年代物の革鞄から鈴木が書類を取り出した。
パソコンの画面をプリントアウトしたものだろう。紅包に添えられたピースサインの写真と共に、『♯常夜街』『♯紅包』『♯東京』『♯レアアイテム』『♯幸運』などの文字、そして、『紅包を拾った日に彼氏ができました』なんて文章が書かれていた。
「……うわぁ」
大河の一声に含まれる『うさんくさい』の響きに苦笑したのは鈴木だ。
「まあ、紅包に纏わる風習は、本来はだいぶ意味合いが違いますもんねぇ」
台湾の一部の地域に伝わる紅包の風習は、未婚女性が亡くなった際に行われていた。
昔は女性の地位が低く、未婚のまま亡くなると実家の墓に入れずに位牌も無いため、祀ることができなかったからだ。親や親族は彼女の髪や爪と共に金銭を紅包に入れて道端に置き、男性に拾わせて結婚を迫る。冥婚によって相手の男性の籍に入れることで、祀ることができるようにしたのである。未婚女性の供養のための風習であったのだ。
相手側の男性も、形だけの結婚だから死者に縛られるわけではない。冥婚をした後でも自由に生きた人間と結婚できる。また、金銭を得たり、あるいは結婚が開運にもなったりすることから、進んで冥婚を行う男性もいたそうだ。
ある意味、紅包はラッキーアイテムとも言えるが――。
「こちらもすぐに地上で調査は行いました。確かにネット上に複数の投稿がありましてねぇ。皆、同じように『紅包』がレアなラッキーアイテムだと」
鈴木が並べた書類を読んでいた百蓮は、形の良い眉をわずかに顰める。
「そんなに簡単に、常夜街の情報が地上に出回るのですか?」
「あー、今はすぐにネットで拡散される時代ですからねぇ。便利だけれど困ったもんですよ。……ま、これらの情報はすでに手配して消去済みです」
鈴木は淡々と答えて、「それでですね」と少し声の色を変えた。
「こちらに相談に来た時点でお分かりとは思いますが、まあ、少々問題が出てきまして。……ええと、実はこれらの投稿をした者が皆、連絡が取れず仕舞いでして」
鈴木の言葉に、茗子の肩が再び強張る。
「内二名はすでに亡くなっています。奇怪な死に方をしたこともあって、陰陽局で元々調査を進めていたものなので、すぐに分かりました。その他に行方不明、意識不明、精神を病み奇妙な言動を繰り返す等。性別は男性に限らず、女性も」
つらつらと並び立てられる言葉に、茗子が机に置いていた手を強く握った。小さく震え始める彼女の手に、そっと乗せられたのは象牙のように滑らかな百蓮の手だ。
「浅川さん、どうぞ落ち着いて。話の続きを、お願いできますか?」
「っ……そ、その、紅包に願いを叶えてもらうためには、けっして開けたらいけないって……でも、私……」
「開けてしまったのですね」
「……」
百蓮の確認するような問いかけに、茗子は頷いた。
「最初は、本気にしてなかったんです。せっかく拾ったんだし、試してみようって……」
茗子は地上に戻った後、入手困難なアーティストのライブチケットが欲しいと願った。その翌日に、願いは叶った。
アーティストが関東限定ツアーを発表し、そのチケットの抽選が行われたのだ。いつもは全然繋がらないサイトにすんなり繋がり、なんと希望日すべてのチケットを獲得することができた。
さすがにおかしいとは思ったが、これもラッキーアイテムの力なのかもしれない。あるいは単なる偶然で、ツイていただけなのかもしれない。
それでも何となく奇妙な不安を覚えていた茗子だったが、ある夜、自宅のマンションに帰って鞄の中を見ると、見覚えのある赤い封筒が入っていた。
『えっ……』
驚きのあまり、茗子は鞄ごと取り落とした。
開いた鞄の口から、中身が床に零れ落ちる。それらの一番上に、まるで存在を主張するかのように紅包が鎮座していた。
紅包を常夜街から持ち帰って以来、家にずっと置いていたのに。
どうして、鞄の中に。
誰かが別のものを入れたのかと思い、紅包を入れていた引き出しを急いで確認すると、中には何も入っていなかった。
自分で鞄に移した覚えが無く、茗子は困惑し、それ以上に恐怖を覚えた。
――願いが叶う紅包。どうして願いは叶ったのか。中身を見てはいけないのはなぜか。
考え出すと、無性に中身が気になって仕方なくなった。
本当は触りたくないのに、身体が勝手に動く。震える指で紅包を拾って、封に指先を掛けると、予想以上の軽さで封は開いた。
中に入っていたのは、血塗れの爪と、血の付いた髪の毛だった。
『ひっ‼』
慌てて紅包を投げ捨て、床に落ちたそれを呆然と見つめていると、インターホンが急に鳴った。
音に肩を跳ね上げながらも無意識にインターホンを押す。すると――
わあっという歓声と共に、大きな拍手の音が響く。
『茗子さん、結婚おめでとう!』
『おめでとうー‼』
インターホンの向こうから、大勢の声が響いてくる。
暗い画面に映るのは、たくさんの人影だ。皆、顔が塗りつぶされたように影になっていて見えない。
『うちの死んだ息子との結婚、おめでとう!』
『息子は死んでいるけれど、よろしく頼むわね!』
『おめでとう!』
『結婚おめでとう!』
『結婚おめでとう!!』
『おめでとうおめでとうおめでとうおめでとう――』
パチパチパチパチパチパチパチパチ……。
気づけば拍手の音は、インターホンだけでなく、玄関、そしてベランダから聞こえ、茗子の周囲を取り囲むように鳴り響いていた。
『な……何よ、これ……』
震える手でインターホンを切って、茗子は後ずさる。それでも止まない歓声と拍手の音が恐ろしくて、両手で耳を塞いだ。
――『規則を守らない場合、何が起こっても一切の責任は負いません』
脳裏に浮かんだのは、常夜街の決まり文句。
その時初めて、茗子は常夜街が恐ろしい場所であり、自分はルールを破ったのだと実感した。
茗子はその後すぐに新宿駅にある常夜街の受付に向かった。
そこで偶然にも鈴木に出くわし、彼女が巻き込まれたトラブルが陰陽局関連のものだと分かり、こちらに連れて来た――というわけである。
「常夜街で販売している物以外は、決して持ち帰らない……が基本なんですがねぇ」
さすがに苦言を呈する鈴木に、茗子は項垂れるばかりだ。
百蓮は机に置かれた紅包を示した。
「……中を拝見しても?」
茗子がこくこくと頷き、百蓮が紅包に触れた。途端、白い指の先で、小さな光がばちっと弾けた。
「きゃっ⁉」
「おや……」
突然の光に茗子は驚くが、百蓮は平然とした様子で指を放し、傍らの大河に言う。
「私がやると壊してしまいそうだ。大河、開けてくれるかい?」
「可以」
躊躇いなく大河は紅包を手に取り、封を開いてテーブルの上で逆さにした。かさかさと乾いた音ともに、中身が零れ出る。
途端、大河は顔を顰め、百蓮もまた目を細めた。中には茗子の言った通り、爪と髪の毛が入っている。
「うげ……なにこれ、生爪剥いだやつじゃん。痛そう……」
「……」
「おやおや大河君、そんな怖いこと言わないで下さいよー」
鈴木がやんわりと窘めると、大河は茗子の顔を見て「あ、ごめん」と急いで謝った。
「お金は入ってなかったんだよね?」
「……はい……」
「願いを叶えることが、金銭の代わりでしょう。そして、封を開けることで代償の支払いが始まるという仕組み。……浅川さん、あなたの願いは叶えられた。そして規則を破り、封を開けた。ならば代償を支払わなくてはなりません」
「……」
百蓮の静かな、しかしきっぱりした言葉に、茗子はとうとう堪えきれなかったようで泣き出してしまった。鈴木は慌てて彼女を宥める。
「ああっと、大丈夫ですよ、浅川さん。蓮夢堂さんが何とかしてくれますから!」
「そう安請け合いしないで下さい、鈴木さん。……とはいえ、これは悪質ですね。引っ掛かった者に全く罪が無いとは言いませんが、このような罠を仕掛ける方が罪深い」
百蓮は空になった赤い封筒の横をとんと指先で叩く。
「『常夜街の者は己や身内を守る目的以外に、人間に手を出してはならない』――これもまた、常夜街の規則です。ましてや、地上にいる人間に仕掛けるのはもってのほか。……対処すべき事案です」
百蓮は鈴木を見返して答える。
「この件、引き受けましょう」
***
それじゃあ後はよろしくお願いしますよー、と鈴木は先に帰ってしまった。
元々陰陽局の人員は少なく、常夜街の担当者ともなるとさらに少ない。鈴木も忙しい身ではあるのだろうが、妙にサボっている感の拭えない、うさんくさい男である。
鈴木を見送った後、百蓮もまた外に出るため身支度をした。
「大河。浅川さんを頼んだよ」
「うん。いってらっしゃい、気を付けて」
「ええ。お前も十分、気を付けなさい」
百蓮は大河の頭を撫でて、優雅な足取りで外に出て行く。
大河と残された茗子の表情は一気に不安そうになる。それもそうだろう。頼りになりそうな大人の百蓮でなく、高校生くらいの少年と残されたのだから。
しかし大河はからりと笑いながら、茗子を奥の部屋へと案内する。
「大丈夫だよ。百蓮が帰ってくるまで、部屋に結界を張っておくから」
大河はてきぱきと家具を動かして、手慣れた様子で壁に符を貼っていった。
接着剤を使っているわけでもないのに、大河が符を人差し指と中指で壁に押し付けると、ぴたりと貼りつく。
「あの……あなたもその……霊能者なの? 陰陽師とか?」
「陰陽師ではないよ。似たようなものだけど。『道士』って知ってる?」
「どうし?」
「道教の修行者のこと。本来は道教の教えを守り、修行を積んで、占いをしたり祭りや儀式を取り仕切ったりする人達なんだけど。俺はキョンシー映画とかに出てくるような道士に近いかな。古代の中国で、仙人になるための修行をしたり、呪術を使って妖怪や悪者退治したりするやつ。『方士』って呼ばれることもある」
「キョンシーって……ああ」
茗子は、ホラー映画のリメイク版で、キョンシーと呼ばれるゾンビを倒す主人公を思い出した。たしか、袖の大きな服を着て、剣や符、いろいろな術を使ってゾンビと戦っていた。
「まだまだ修行中の見習いだけどね」
「じゃあ……さっきの百蓮さんも道士なの?」
「うーん、一応ね。あ、めちゃくちゃ強いから、そこは安心して」
答えつつ、大河は符を扉に貼り付ける前に一度部屋を出る。戻ってきた時には、両手に駄菓子の入った籠とお茶の入ったポットを持っていた。小脇には、なんと鞘に収まった剣を抱えている。
「お茶にしようよ。よかったら月餅や馬拉糕もあるよ」
どこか呑気な大河に呆気にとられつつ、茗子は頷いた。
しばらくの間、駄菓子や月餅を摘まみつつ、温かな玄米茶を飲む。もっとも、茗子は食欲が無く、白い茶器を手持無沙汰に弄っていた。
茗子は、大河の傍らに置かれた剣をちらちらと見る。
白い鞘に紫色の蓮の意匠が施され、柄の部分には玉の付いた房飾りが付いている。コスプレ用のレプリカとは大違いの、繊細で立派な細工であることが見て取れた。
「……それって本物?」
「偽物持ち歩いてどうするの?」
尋ねる茗子にきょとんと大河は返すが、「あ、地上じゃ銃刀法違反? だったっけ」とぼやいた。
「常夜街じゃ、自分で身を守らないといけないからね。ま、日常ではそこまで使うことはないけど」
大河は白い鞘をついと指で押す。
「『暘谷』っていうんだ。百蓮から譲ってもらった」
大河の頬が緩む。嬉しそうで少し誇らしげなその表情に、茗子がぽつりと尋ねた。
「……あなたと百蓮さんって、どういう関係なの?」
「ん? 一応は師匠と弟子かなぁ。あ、育ての親でもあるよ」
「……育ての?」
「小っちゃい頃に百蓮に拾ってもらったんだ」
大河の告白はあっさりしたものだが、茗子は明るく溌溂とした少年の過去に目を瞠る。本当の親は、なんて踏み込んだ質問はできるはずもなくて、茗子は気まずげに口を閉ざす。しかし大河は気にした様子も無く、蓮の白餡入りの月餅を大きく頬張った。
ふと、月餅を最後の一口を飲み込んだ大河が動きを止め、茶器をテーブルに置いた。
淡い色の大きな目が、閉ざした扉を見やる。その直後、扉の中央に貼られた符に、ぼっと赤い炎が灯った。
「なっ……⁉」
「……まさかこんなに早く来るなんてなぁ」
大河は呆れた表情で息を吐き、立ち上がる。
「あいつらが入ってきたみたいだ。結界張ってあるから、しばらくは大丈夫。浅川さん、ここから出る準備を――」
言いかけた大河の言葉の途中で、バンッ、と大きく扉が鳴った。両開きの木の扉が大きくしなる。
「茗子さん、結婚おめでとう!」
「おめでとうー‼」
扉の向こうで、場違いなほど賑やかな歓声と拍手が沸き起こった。そこに混じるのは扉を叩く音だ。たくさんの手が扉の四方八方を殴りつけているように、音は重なり大きくなっていく。
「茗子さん、もう準備は整っているよ」
「息子が待っているぞ。早くしろ!」
「うちの息子が楽しみにしているのよ。早く出てきなさい!」
「結婚しないの?」
「結婚しなさい」
「おめでとう! 結婚しなさい!」
「あ……あ……」
繰り返される言葉に、茗子はガタガタと身を震わせる。青ざめた彼女の横で、大河は「あーもう、うるさい!」と扉を一喝した。
「あんたらしつこいぞ! 百蓮呼ぶからな!」
大河の一声に、ぴたっと声と拍手と音が止んだ。
しかし、すぐにざわざわと声が広がっていく。
「いない、彼奴はいない」
「邪魔が入る前に早く」
「連れて行こう」
「我らのモノだ」
「早く」
「早く、喰ってしまえ」
扉を叩き、引っかく音が強くなる。扉に貼られた四枚の符が、次々に青い炎を上げて燃えていった。
大河は机に置いていた剣を手に取り、鞘から抜く。白い両刃の剣を手にした大河は、扉の反対側にある窓を開いた。常夜街の湿った空気が室内に吹き込んでくる。
「よし、行こうか」
「どっ、どこに……」
戸惑う茗子に、大河は窓の外――地下にできた巨大な吹き抜けを指差した。
「外」
「え?」
きょとんとする茗子の腕を掴んだ大河は、窓に近づいて窓枠に足を掛けた。その先には足場も何もない。しかし大河は窓枠を強く蹴り、外に飛び出した。
腕を掴まれた茗子もまた、共に外に飛び出すことになった。
成人女性一人を片手で簡単に引っ張る大河の力に驚けばいいのか、それとも何もない空中に放り出されたことに驚けばいいのか。
「っ……」
茗子は声も出せずに、大河と共に常夜街を落下していく。
無数の提灯に照らされた、幾層にも重なって密集する建物。
映画の世界から出てきたような不思議の街を中空から見る景色は、見惚れてしまうほど幻想的だった。
だが、上を見た茗子は驚愕に目を見開いた。先ほど飛び出した窓から、黒い大きな塊が溢れ出していたからだ。
それが、インターホンの画面越しに見た大勢の人――顔のない人影の集合体で、こちらに向かって落ちてきていることに気づいた茗子は、恐怖のあまり身を捩った。
「わっ、落ち着いて!」
大河は焦って注意するが、逃れるように暴れる茗子の腕が手から外れる。大河から離れて一人になった茗子に、黒い塊が肉薄した。
影になった幾つもの顔の中に浮き出るのは、赤い口と白い歯。茗子を見て、それらは一斉に歯をむき出し、笑った。
「いやあああっ‼」
おぞましい集合体に悲鳴を上げた茗子が、飲み込まれかけた時だ。
茗子の目の前に、長い黒髪が流れた。
絹のように艶やかな髪の間から覗くのは、白皙の美貌。爽やかな花の香りと共に、紫の衣に包まれた腕が落下する茗子を引き寄せ、しっかりと抱きかかえる。
茗子を抱きかかえて宙を飛ぶのは、紫の衣の裾を翻らせる百蓮だった。彼の足元には一振りの黒い剣があり、その剣の上に乗って彼は宙を飛んでいた。
そういえば、映画で見た道士も剣に乗って飛んでいた――と茗子は麻痺した頭の隅で思う。
百蓮が茗子を助けたのを確認した大河は、近くにあった屋根の上に着地して声を張り上げる。
「百蓮!」
「大河、やれますか?」
「やる!」
大河は手に持っていた白い剣『暘谷』を投げる。
右手で剣印――人差し指と中指を立てて念じると、剣はまるで意思を持っているかのように自在に動き、黒い塊に向かって飛んだ。
暘谷が翻り、黒い塊を真っ二つに切り裂いていく。
ぎゃあああ、と濁った悲鳴が常夜街に響き渡る。しかし、大きい塊は切り裂かれて分裂した状態でなお、二手に分かれて大河と百蓮に向かってきた。
大河は「げっ」と眉を顰めた。
「えええ、なんかずるい!」
「大河、そちらは任せましたよ」
百蓮は冷静に、剣の上から近くの回廊に飛び降りると、茗子を地に降ろして己も剣印を構えた。
「『虞淵』」
そう呼ばれた百蓮の黒い剣は、大河のものと同じように自在に動いた。
よくよく見れば、飾りや彫りは少し異なるが、大河の剣『暘谷』と全く同じ形をしている。それもそのはずで、二つの白黒の剣は対となる双剣であった。
だが、虞淵の動きは暘谷よりも格段に速く鋭く、光を伴って黒い塊を圧倒的な力で切り裂いていく。
白黒の剣が交差するように飛び、時に高く澄んだ音や激しい光を発した。柄の房飾りがはためき、玉は星のように煌めく。優雅さと苛烈さを兼ね備えたそれは、剣舞にも見えるほど美しかった。
そしてついに、塊は散り散りの滓になるまで裂かれて、断末魔を残して散っていく。
「……」
回廊にへたり込んだ茗子が呆然と見上げていると、二本の剣はそれぞれの持ち主の元へと帰って行った。
剣を鞘に納めた百蓮が振り返り、茗子の傍らに膝をついた。心配そうに顔を覗き込んでくる。
「怪我はありませんか? 気分は?」
「……あ、いえっ! 怪我は無いです、大丈夫です」
間近に迫る百蓮の美しい顔に、我に返った茗子は急いで首を横に振った。
「すみません。少々無茶をさせてしまいましたね」
「いいえ、驚いたけれど……守ってくれたし……」
「いえ、実は……あなたを囮にしたのです」
「……え?」
目を瞬かせる茗子に、百蓮は眉尻を提げて説明する。
――茗子を狙うものを手っ取り早く片付けるためには、探すよりもおびき出す方が早い。しかし、百蓮が側にいれば相手も警戒して近寄ってこない。そこで百蓮は、所用も兼ねて外に出て、不在を狙った相手が茗子の元へ集まるようにしたのだと言う。
大河が結界に使っていた符の中には、相手を呼び寄せるための物も混じっていた。見事に引っかかった相手をまとめて始末するため、逃げ場のない空中まで引きずり出す必要があり、大河はあのような無謀な真似をしたのだ。
また、百蓮はこの辺り一帯に住む者が騒動に巻き込まれないよう、あらかじめ皆に知らせていた。さらには、東妖街をまとめる『龍霞』に、この一連の片付けを頼んできたところだったのだ――。
百蓮の説明に、茗子はそういう計画だったのかと思っただけで、怒りはしなかった。そもそも自分が引き起こしたことで、助けてもらったのに彼らを責めるのもおかしい。
しかし、ぴょんぴょんと屋根の上を跳んできた大河が、「ごめん!」と開口一番に茗子に謝ってきた。
「本当は俺が浅川さんを運んで、百蓮があいつを始末する予定だったんだけど……手ぇ放しちゃってごめん」
しゅんと大河は肩を落とす。反省する大河の肩を百蓮が軽く叩いた。
「私が立てた計画です。責任は私に。……浅川さん、本当に申し訳ありません」
真摯な表情で頭を下げる百蓮に、茗子は急いで首を横に振った。
「そんな、謝らないで下さい! 私の方こそ、いえ、私が迷惑を掛けたから……助けてくれて、本当にありがとうございます」
茗子は頭を下げた後、まだ宙を漂っている黒い滓を見上げた。
「あの……結局、あれは何だったんですか?」
「人の生気を餌にする妖異ですね。冥婚にかこつけて、紅包を拾った者に制約を付けることで己が優位に立ち、自由に生気を奪っていたのでしょう。そして最後には、魂を喰らう」
「魂……?」
「あなたも危ない所でした。……ああ、でも、そろそろ戻った方がいいですね。ここにずっと居ては、戻れなくなってしまう」
「え?」
「浅川茗子さん。身体へ戻りなさい」
「っ――」
百蓮の言葉と同時に、茗子の輪郭が揺らぎ、瞬きの後には消えていた。今まで茗子がいた場所に、ひらひらと白い人形の紙が落ちる。
地面に着く前に拾い上げた百蓮の手元を、大河が覗き込む。
「蔵さんの式神?」
「ええ。これで霊魂を固定していたようですね」
紙人形には、陰陽局の鈴木の字で『浅川茗子』と書かれていた。のらりくらりの昼行灯に見える彼だが、一応は陰陽師の端くれであり、それなりに術を使えるのだ。
「……あの人、自分が霊魂の状態だったこと気づいてなかったのかな」
「まあ、常夜街では霊魂も安定しますしね。感覚も地上と異なる」
そう、茗子は蓮夢堂に来た時点で――否、鈴木と会った時点で霊魂の状態であったのだ。
気づいた鈴木が彼女の霊魂を式神に宿らせて安定させ、安全に蓮夢堂まで運べるようにしたのだろう。
百蓮は紙の人形にふっと息を掛ける。紙が折り畳まれて鳥の形となり、百蓮の手から飛び立った。
「蔵さんのとこに?」
「彼からもそのうち連絡が来るでしょう」
見上げた先、地上の明るみ始めた空へ向けて飛ぶ白い鳥が、どんどん小さくなっていく。見送った後、百蓮は「さて」と身を翻した。
時計台の針は、そろそろ卯の刻(六時)を指そうとしている。地上では一日の始まりの時間だが、常夜街では終わりを示す時間だ。
「帰りましょうか、大河。後の始末は龍霞に任せていますから」
百蓮の言葉通り、通りには見覚えのある赤い服を着た龍霞の者達がぞろぞろと現れていた。東妖街――龍霞の縄張りで起こった事案だ。後は彼らが処理するのだろう。
「うん、わかった。飛剣で行く?」
「お前は今日、力を使い過ぎているから駄目です。飛んでいる最中に落ちたらどうするんです」
「大丈夫だよ。階段上がる方が疲れそう」
「それなら私が抱えていこう」
「えっ。それはヤダ」
大河の拒否に、百蓮はひどく哀しそうに目を伏せる。
「昔はあんなに抱っこをせがんできたのに……『蓮哥哥、抱っこして』『蓮哥哥、お空飛んで』と私の服の裾を掴み、雛鳥のように愛らしくついてきたのに……これが反抗期というやつでしょうか……」
「いや別に反抗期云々じゃなくて。さすがにこの年で抱っこは厳しいって」
小さい子供でもあるまいし、百蓮に抱きかかえられているところを見られるのは恥ずかしい。常夜街の皆に生温い目で見られるのはさらに居た堪れない。
大河の反論に、しかし百蓮は「何を言いますか」と目を丸くする。
「お前はまだ二十年も生きていないでしょう。まだまだ子供だ」
「そりゃ百蓮に比べれば十分の一も生きてないけどさぁ……あー、この話は終わり! ちゃんと歩いていくから」
先に階段を登り始めた大河に、「足元に気を付けて」と百蓮は心配そうに言う。修練や仕事の時以外は、大河に激甘になる保護者なのだ。
「大丈夫だって。ほら、帰ったら『私と僵尸』見るんだろ」
「あっ、そうでしたね!」
ぱっと顔を輝かせた百蓮が、大河の隣に並ぶ。あっという間に機嫌の良くなった百蓮に、大河は「ホント好きだね」と肩を竦めた。
「ふふ、何せ主人公の一人が僵尸ですからね。彼の行く末を見守りたいんだよ」
「……百蓮と同じだから?」
「そうだね」
微笑む百蓮。
彼の白い珠のような肌が熱を持つことは無く、その奥にある心臓が鼓動を刻むことは無い。
元・道士で、現・僵尸。それが百蓮の正体だ。
僵尸になって数百年の彼は、僵尸の強靭な肉体と怪力だけでなく、並み外れた霊力を併せ持つ。陰の気に満ちた常夜街では、向かうところ敵なしの男だった。
数時間後、さっそく鈴木から連絡があった。マンションのベランダから錯乱状態で飛び降り、意識不明の重体だった浅川茗子が、意識を取り戻したそうだ。
常夜街での出来事は覚えているようで、百蓮達に礼をしたいとのことである。生気の戻った頬はわずかに赤らみ、「あれは百蓮さんに恋しちゃったんじゃないですか?」と鈴木の余計な一言まであった。
「『わたキョン』みたいに恋が始まるとか?」
「私が僵尸であることを受け入れてくれれば、の話ですけどね」
大河と百蓮はDVDを鑑賞しつつ、そんな会話を交わしたものだ。
とあるコンテストの応募用に書いていたものです。
お蔵入りになるのも可哀想なので、切りのいいところで短編としてアップします。
中華風の作品書きたい…唐代辺りの役人と青年コンビのバディものとか、仄暗い怪しげな中華街で奇怪な事件を解決する探偵ものを書きたい…