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坂東冥里作品集

口にしないと語れない

作者: 坂東冥理

世の中には「奇病」と呼ばれるものがある。治し方のわからない病、珍しい病、原因がわからない病…。かかった人達にとっては、病のみならず、奇異の目や偏見という二次被害をもたらす厄介者だ。

失声症というものがあるが、これはストレスなどで声を出せなくなる病で、奇病というほどのものではない。ただ彼女のソレは、失声症というにはいささか奇妙で、奇病と呼ぶにふさわしいものだった。


彼女は結婚を目前に控えたある日、自宅で強盗に遭遇した。正確には、彼女の家の貴重品をトラックに詰め込んで走り去った男の横顔と、血で床を真っ赤に染めている両親の姿に、だが。119番に電話した彼女は、自分が声を発せなくなっていることに気がついた。消防局員は「声も出せないほど重症の患者がいる」と思ったのか救急車を手配してくれたが、2人を救うには手遅れだった。犯人の顔を見ているのにそれすら伝えられず、さぞかし歯がゆい思いをしたことだろう。


そんな彼女の症状の特殊性を発見したのは、彼女の恋人だった。電話や来客への応対ができない彼女のために同棲を始めた彼は、朝食時に彼女が声を発するのを聞いた。

「このパン、美味しい。」

「は、話せるようになったのか!」

嬉しそうに駆け寄る男に対し、彼女は必死で口をパクパクさせるだけだった。

その後は食べ物への感想だけを聞かされる日々が続いた。食べ物についてなら話せるのかと、食べたいもののリクエストを熱心に聞いたが、彼女は直前に食べたものについてしか話せないようだった。はじめのうちは疑っていた医者たちも、ついにその事実を受け入れ、彼女の症状に「補完型失声症」と名を付けた。


ある日、いつものように目覚めるた彼女は、朝食を食べた後にいつものように感想を述べた。

「お味噌汁が美味しかったわ。」

「ふふ、君は和食が好きだからね。」

台所で手をさすりながら答えた彼の声には、少しの緊張が滲んでいた。最近はずっとこんな調子だ。きっと私が話せないせいだわ、そう思っている彼女は、毎日食べ物の感想の後にも言葉を続けようと努力していた。今まで実ったことは一度もなかったが。

「でも、あなたの料理はいつも美味しいわ。あなたが料理上手なのよ。」

無駄なことだと思いながらいつものように口を動かした彼女は、声が出たことにしばらく気づかなかった。台所で飛び上がった男が駆け寄ってきて初めて、今の声がテレビやラジオのものではないと知った。

込み上がる喜びに綻んだ彼女の口元は、しかし次の瞬間にはへの字に歪んだ。血に塗れた彼の左手をみて、何が起きたのかを悟ったからだ。結婚指輪のはまった薬指に巻かれた包帯は、どう見ても小指と同じくらいの長さしかなかった。腫れたあがった指から指輪は外れそうになく、あえてその指を選んだ彼の意志が感じ取れる。

「そんな…なんてことしてくれたのよ貴方は! 貴方には…私なんかに縛られないで自由に生きて欲しかったのに…!」

泣き崩れた彼女の背をさすりながら、やはり半泣きの彼は「聞きたかった言葉は違うんだけどな。」とつぶやいた。

「ごめんなさ、あなたのことが、だい…」

大好き、という言葉が最後まで音になることはなかった。音もなく嗚咽する彼女のことを、男は黙って抱きしめた。


 それから何年もの間、男は必死で働き続けた。様々な治療を試すためには大金が必要だったからだ。彼女も働きたがったが、その症状を理解して雇ってくれるものはいなかった。働きすぎが祟って男が体調を崩したときも、彼女の症状は改善しないままだった。

 男の葬儀には、男の親族友人ばかりが多く集まった。両親をなくした彼女には親しい親族も他になく、彼女の症状に理解があるものは会場の中にいなかった。

「彼抜きで食べる食事は、とても味気ないです。」

彼女が語れたのはその一言だけ。心ない言葉をぶつけられても、必死に涙を堪えることしかできなかった。


骨壺を抱いて家に帰った彼女を迎えてくれる者はなかった。お帰りという声も、鼻をくすぐるスープの香りも、二度と戻ってはこないのだ。心に渦巻く感情で身体が張り裂けそうなのに、それを吐き出す術が彼女にはない。愛しい人の欠片に覆いかぶさるようにすすり泣いていた彼女は、何かに気づいたように突如顔を上げた。キッチンに視線を走らせてから、腕の中の壺を、そしてそれを抱える自らの腕を見た。














「あなたがいなくてつらいの。あなたのいない生活なんて私は耐えられそうにないの。何をしても空虚な気持ちになる、何もする気にならないの。もう二度と何も食べたくない。わたし、もっとずっとあなたと一緒にいたかった。ううん違う、無理なんかせずに長生きして欲しかった。もっと早くに言ってあげればよかったのに。ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、あなたのことが…」


「大好き」。その言葉を最後に、彼女が何かを口にすることはもう二度となかった。

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