休海の地
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、見ろよつぶらや。あの学校のプール、水が張って鴨たちが泳いでいるぜ。
昨日から雨がざんざんぶりだったもんなあ。こんな氷でも張っちまいそうな気温じゃ、そうそう水も引かねえだろ。
……水かあ。考えてみると、世の中は水であふれているよな。ちっこいものなら、俺たち個々人のボディ。広く見れば海に至るまでよ。そして奇しくも、こいつらはほぼ同じ割合で成り立っているというな。
俺たちの体重の6割、子供だと7割ほどが水なのだという。海と陸地の割合もほぼ7対3で成り立っており、水はいろいろな場所で圧倒的なシェアを誇る、ポピュラーでフェイマス。かつインポータントな代物というわけだ。人類すべてに引っ張りだこで、これほどの大スターには茶の間のテレビでもお目にかかれまい。
だが、どんなアイドル、有名人だろうと、大多数には見せない裏の顔を持っているもんだ。そいつは何も、水に関してだって例外じゃない。
俺も最近になって、また昔話を聞いたんでな。ひとつ、水に関わる不思議な話を耳に入れておかないか?
今をさかのぼること、だいぶ昔のことだ。
ある男が「海の向こうには、何があるのだろう?」と疑問に思い、船の準備をして漕ぎ出したのだという。
男の乗り込む舟は、人ひとりが生活できる空間を要した楼船に近い形状をしていた。当時の推力は人力ゆえ、彼は休みを入れながら漕ぎに漕いで、三日ほどが経った時のこと。
潮の流れの影響なのか、自分が出発したと思しき島の影がかなり後方に見える。帰る方向が分かることはありがたいけれど、同時にそれは、自分がさほど島から離れていないことも意味した。
こんなことじゃ、海の向こうを見ることなど程遠い。積んでいた食料も、潮風にさらされたためか、じわじわと傷みが目立つようになってきて、帰還を視野に入れねばならなくなり始めた。余計な消耗を避けるべく、彼は夕方になると石でできたいかりを放り込み、早めに身体を休めるよう心掛けていたとか。
いつもは一度寝入ると、それが波で落ち着かない船の中であっても、日が昇るまでぐっすりと眠ってしまう彼。だが、その日は夜中にふと目を覚ました。
船が一方へ引っ張られている。流されているのではなく、船首に綱を巻き付けられて、えい航されている感覚だ。彼は念のため、長い縄で自分の身体を帆柱に括り付けると、松明に火を灯して船の甲板へと出てみた。
星空の下、船が足元を占める海の貌をかいて、勝手に先へ先へと進んでいる。船体そのものが、おのずから上下動を始めてしまうほどの勢いだ。進んでいく方向に目を凝らしてみるも、別の船や巨大な生き物の影などは見えない。
不思議だ、と様子を伺っていると、やがて海の真ん中に突き立つ一本の竿が見えてくる。格別背が高いというわけではないが、それでも彼の乗る楼船に匹敵するものがある。幅は彼の両手でも握り込めるほどだ。
船は竿にぎりぎり触れないところで、いったん動きを止める。すると今度は、渦に巻かれるかのごとく、右回りに船体が動き出したんだ。竿を中心にぐるぐると勢いをつけていき、当然船内もその力に引っ張られ、彼は横倒しになる。縄で身体が縛りつけられていなければ、今ごろ船の外へ飛び出していたかもしれなかった。
空も共に幾度も回り続け、船には慣れていた彼もさすがに酔いを覚え始める。絶えず船首の先にある竿を見つめ続ければ少しは楽になるかもしれない。そう思った矢先、彼は竿そのものの異変にも気がついた。
回転を重ねるたび、竿が長くなっていく。何かが竿を引っ張っている様子はなく、いまだ船も回転を止めない。
彼は、ひょっとすると自分の乗る船こそが、どんどん沈んでいるのではないか、と感じたらしかった。でも海面は未だ船のへりを越えてはこない。船そのものが沈んでいるのではない。
そうして竿がみるみる高くなっていき、ついにてっぺんすらも夜空に溶け込んで見えなくなってしばらくの後。船は唐突に回転を止めた。だが彼の表情には安堵ではなく、困惑が色濃く浮き出ている。
彼は今、切り立つ岩が成す森の中に、船ごと横たわっていたんだ。すでに船の下に海はなく、代わりに白い石を散りばめた地面が、前後左右に広がっていくだけだ。そして彼を囲む岩の壁面には、わかめなどの海藻類が衣服のごとくまとわりついている。
ここが話に聞く海の底。わたつみの宮かと、彼は身震いする。自分は死んでしまったのだろうかと、頬をつねってみたところ、痛みは感じた。
息はできるし、水の中特有の視界のぼやけや濁りはない。辺りには漁村ならではの強い魚の香りが漂うも、泳ぐ魚たちの姿は見えず。頭上にも海面を思わせるゆらめきを確かめることはできなかった。
降りて確かめてみるかと、船の中へ引っ込む彼だったが、くくりつけた縄は非常に頑強になっていた。渦のごとき動きに揉まれ、いっそう締め付けを強くしてしまったのかもしれない。彼は釣った魚をさばくために、しまっておいた小刀を取り出し、縄の端へ切れ目を入れていく。荒っぽい綱の表面が、握る手のひらの中で擦れて、かすかにじくじくと痛み出す。
ずしん、と船体が軽く跳ねたのは、その時だった。
彼はぴたりと動きを止めて、そばの壁に松明をかかげた手近な窓から外をうかがう。変わらずにそびえ立つ岩の影だが、見えるのはごく近い範囲だけ。
ずしん、ともう一回。今度は勘違いではなく、しかも音が大きく感じられた。明らかにこちらへ近づいている。
半分ほどまでちぎった縄を掴みながら、彼はそろそろと壁に近づいて、松明を手に取る。窓から顔を出し、更にもう一度、同じように船体が揺らされる中で、もう少し奥を見やろうと、腕をいっぱいに伸ばしていく。
松明の明かりが届く、ぎりぎりの範囲。船からいくらも離れないところに、それはいた。
人を思わせる形の足――とはいっても、その太さ、大きさは実際のそれを大きく上回り、船の高さほどある――と、その上に膨らんだ袋のような胴体が乗っかっている。それもまた彼の楼船の大きさに匹敵する、前後に長いものだ。非常に大きくなった燭台の様子に近い。
こちらを向く両目は、意外なほどにつぶらで、口はひょっとこのように前へ突き出している。そいつが一本足で跳び上がると、着地と同時に、船が大きく空へと跳ねたんだ。はっきりと地面を離れ、また着地する衝撃は彼自身も襲う。
姿勢を崩し、松明が床の上を滑った。奇跡的に床に火をつけることはなかったものの、先端の炎が消える。更にちぎれかけの縄が衝撃に耐えかね、ちぎれてしまった。はずみで彼はあの生き物に近い窓へ叩きつけられる。
ふー、ふー、と船の外から響いてくるのは、件の生き物の吐き出す息なのか。いずれにせよあの大きい足で船体に乗っかられでもしたら、まず間違いなく壊されてしまう。
どうにか追い払う手立てはないものかと、船内を見回す彼だったが、その視界がまた勝手に回り出した。
先ほどのように、竿を中心に回転をしていくが、今度は逆の左回りだ。支えてくれる綱を失っている彼は、せめて壁に身を張りつかせて転がらないよう努める。
あの生物に、船体がぶつかる気配はない。その代わり、彼にほど近い窓から盛んに塩辛いしぶきが、船内へ飛び込んでくる。海水だった。
疲れに息を荒くする彼には、ぐるぐる回る船内で立ち上がる力はない。ひたすら回るに任せていると、幾度目かで、ようやく回転する勢いに陰りが見え出した。
緩やかになったところで、彼は窓のふちに手をかけて身を起こす。そっと覗いた船首の先には、最初に出会った時と同じくらいの高さの竿が刺さっていた。それを取り巻き、また船体を支えてくれる海の水もまた健在。あの岩の森や奇妙な姿を持つ生き物の姿は、どこにも見当たらなかったという。
それから彼は、自分の島へ取って返し、村の人々に自分の体験を話す。だがとうてい信じてもらえず、たいそう腹を立てたそうだ。
「奴の身体の一部を証として持ち帰る!」と、彼は初回に倍する食料と銛などの武器を積み、再び海へ出る。そうして、二度と戻ってはこなかったそうだ。
彼の話を受けて、多くの者が件の竿を探したものの、とうとう見つけられることはなかったとか。






