大魔法使いシエル
にゃ~と、ちょっと低めの鳴き声がして黒猫が扉の隙間から入ってきた。
艶々な毛並みにちょっと太めの体は、いつも美味しいものを食べてブラッシングされているから。
飼い主の贔屓を差し引いても、綺麗な猫だといつも思ってしまう。
「あら、マティ。一緒にお風呂に入る?」
絶対嫌がるのは分かっていたが、せっかくバスルームに入ってきたので一応声を掛けてみる。
でも、案の定マティはふっー!!と背中を丸めて威嚇姿勢を取るとあっという間にまた扉の隙間から出て行ってしまった。
「もう、何で私がお風呂に入れるのは嫌がるのかしら?」
猫のマティは私が赤ん坊の頃から私と一緒に育ってきた。
当然、私ととても仲が良いし、私がブラッシングをしてあげるのが小さい頃からの習慣で、いつも気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らして喜んでいる。
ただ、お風呂だけはダメなのだ。
せっかくだから一緒に入って綺麗にしてしまいたいのだけど、本気で嫌がる。
普段は、専用の桶にお湯を張ってメイドたちが体を洗ってあげるのだけど、別に水が嫌いなわけではないようでその時は大人しく入っている。
仕方ない、諦めてさっと自分だけ簡単にお湯を浴びると、装飾の少ないシンプルなラインのドレスに着替えて、階下のダイニングルームに降りて行った。
ダイニングルームの扉に近づくと自動で両開きの扉がゆっくりと開いていく。
この家のほとんどの扉は自動ドアだ。
どういった仕組みなのか分からないが、この屋敷の主人である大魔法使いシエルが許している時と場合は全て自動で開け閉めされる。
便利ではあるけど、うっかり他所でも自動だと思ってしまわないよう注意が必要だ。
誰かが開けてくれれば問題ないけど、自宅と同じように行動してしまうと扉の前でぼーっと待ってしまって恥をかく。
まあそんな時は「ご自分で扉を開けたことがないのね!」と深窓の令嬢のふりをするとお勧めだ。
「リリアナ。おはよう!」
「にゃ~ん。」
先にダイニングに来て、マティと一緒に窓辺に腰かけていたシエルが私が入ってきたのを見て鮮やかな笑顔で朝の挨拶をしてきた。
艶やかな長めの黒髪を後ろで緩く束ねて、同じような黒い光沢のあるジャケットを着ていた。色合いは地味だが銀糸で凝った刺繍が施してあり、中に着ている真っ白いシルクのシャツとボリュームのあるお揃いのタイが眩しいばかりの整った顔立ちに合っていた。
近くで朝食の用意をしていた若いメイドがその笑顔をまともに見てしまい、ぼっ!音がしそうなほど真っ赤な顔になる。
それを見ない振りをして、こほんと、咳払いをすると、私も負けじとにっこり笑顔で挨拶をした。
「お父様。おはようございます。」
すると、周りを赤面させるほどの大魔法使いの笑顔が、さっといつもの渋い表情に変わる。
う~ん、凄い変わり身だわ!
それを見た先ほどのメイドの顔が今度は真っ青になり、慌てて厨房に駆け込んでいくのを私は見た。
別に私のせいではないかもしれないけど、ちょっと申し訳なく思う。
「リリアナ?お父様ではなく名前で呼ぶようにいつも言っているだろう。」
「まあ、すいません。うっかり。でも、私はお父様で良いと思いますが?」
本当にうっかりしてしまったという表情を作り謝る。
もちろん、わざとだ。
「私はそうは思わないね。だいたい、君の父親というには若すぎるだろう?」
「まぁ、もちろんそれはそうですわね。」
(見た目はね。)と私の心の声が聞こえたのか、マティがまるで同意をするようにタイミング良く、にゃ~と鳴いた。
今、シエルどう見ても20代前半の青年の姿をしている。
さすがに16歳の娘がいるようには見えないだろう。
でも、私は彼が人の何倍も生きているのを知っている。
私だけではなく国中の人間が知っている。
歴代の国王を陰ながら支えてきた、このアムズベルフ王国で一番有名な魔法使いのこと。
ただ、どこからが真実でどこからが伝説なのか、本当のところは本人しか知らない事実は限りないだろうけど。




