第五話 「新しい朝」
「・・・見慣れた天井だ」
目が覚めたら、ここ一年使用してきたベッドに横たわっていた。
眠る前は閉められていたはずのカーテンは開かれており、春を思わせる穏やかな日差しが差し込んでいる。時刻を確認しようとスマホを確認すると、バッテリー切れを起こしていた。精神的な疲労の影響か、眠る前に充電器に繋ぐのを怠ってしまったらしい。やってしまったと思いつつ、ベッド脇のコンセントから伸びる充電器をスマホに繋ぐ。
さて、ここまでは至って平凡な朝だ。
ただここで、寝る前の記憶が曖昧ということを加味すると、途端に非凡に早変わりしてしまう。いや、本来なら寝落ちという可能性も捨て切れないのだが、夜中に扉が開いた音を聞いたところまでは明確に覚えていて、カーテンも開かれていることから、この部屋に何者かが侵入したことは明白だ。そんな状況で、その先の記憶が抜け落ちてしまっているのだ。到底寝落ちなんて平和な考えを持つ気にはなれない。
ふむ。確か、あの後は・・・。
「なんだろう、思い出そうとすると鼻がむずむずする」
あと頬が異様にひりひりするのは気のせいだろうか。具体的には思い切り張り手をかまされたような感覚が・・・。ついでに鼻を抜ける鉄の香り。
「・・・まあ、とりあえず起きるか」
動かなければ何も始まらないので、とりあえず顔を洗うために洗面所へ向かうことにした。
部屋から出ると、なにやら食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐる。要が先に起きて朝食を作っているようで、まな板を叩く音がリズムよく聞こえてくる。
こういう朝は、随分と久しぶりだ。
一人で暮らすようになって初めて、朝起きて朝食が用意されているというありがたみを理解した。実家でも料理を提供してくれていた要には感謝をしていたつもりではいたが、今なら心の底から感謝できるだろう。
一年ぶりの要の手料理に踊り出しそうな気持ちになり、直後に自分の分がなかったらどうしようという不安に襲われつつ洗面所にたどり着いた。鏡で自分の姿を確認。
「・・・ななななんじゃこりゃ」
変わり果てた自らの顔面に、そんな台詞しか出てこなかった。
俺の容姿は父に似て特筆すべき所がない。可もなく不可もなく、イケメンかと言われれば首を傾げざるを得ないし、不細工かと言われるとそんなことはないと断言できる。唯一何か挙げるとすれば、髪の生え際が上を向いているかなんかで、毛がつんつんしていることくらいだろうか。
そんな俺のしょうもない顔が実におかしな事になっていた。
何かに例えるならそうだな、女性に襲いかかり、吸血には成功したが最後に手痛いしっぺ返しをくらったヴァンパイアかな。いやヴァンパイアとかそんないいもんじゃねえなこれ。山で今にも倒れそうなほどの空腹に襲われ、偶然ウサギを見つけ狩り血抜きもしないで齧り付いて、満足して帰宅したら、腹壊したらどうすんだって奥さんに全力ビンタを食らったド田舎の猟師かな。なにそれ怖いどんな状況。え、くどい?すまない俺も混乱しているんだ。
俺の口元は真っ赤に染まり、左の頬に見事な紅葉の模様が浮かび上がっていた。
失われた記憶には何が記録されていたんだ・・・?
この赤いのは匂いからして、血、だよな?
家の中での流血沙汰。真っ先に思い当たるのはやはり、殺人。でも俺は生きてるから、んー、DVか?
・・・え、DV!?ドメスティックヴァイオレンス!?家庭内暴力ぅっ!?
そんなウソだろ・・・。彼女を疑うことはしたくはないが、この家で俺にそんなことが出来るのはたった一人しか居ないじゃないか・・・。
しかし動機はなんだ?俺は知らぬ間に彼女の逆鱗に触れてしまったというのか?それなら土下座でも何でもして許しを請うしかないが、もしそうじゃないとすれば。
まさか・・・サンドバッグかっ!?俺はストレス解消の道具として利用されてしまったというのかっ!?なんてこった。それだと逃げる以外の平和な解決策が見当たらないぞ・・・。
・・・考えても埒が明かない。真実は彼女に直接聞けばわかることだ。
乾いた血の跡を念入りにこすって洗い流し、水浸しになった顔をタオルで拭いて、いざ彼女の待つ台所へ。
・・・要今包丁持ってんじゃね?
・・・・・・。
「ん?・・・わっ」
台所まであと一歩という台所からはちょうど視覚になっている廊下の終わりで立ち止まって、今までの人生を振り返っていたところを足音で気づかれたのか要に見つかってしまった。
「もう、なにしてんのアニキ」
じとーっと非難の目を向けてきたと思いきや、紅葉の辺りを見てさっと視線を逸らす要。明らかに何か知っている。
因みに彼女の今日の服装は、桜色のマキシスカートに白のブラウスと春の装い。丈の長いスカートに隠されて、要の美しい御御足を拝めない、あ、でも夜になってパジャマ姿になればまた見られるか、とそこまで考えるのに一瞬もかからなかったことに死にたくなった。
当面の目標はこの欲望をどうにかすることだな。でないとおちおち会話も出来ぬ。いっそ出家でもするか・・・?
「またなにかくだらないこと考えてる。いいから早くご飯食べちゃって」
「くだらないとは失敬な。俺は輝かしい未来の為にだな」
「はいはい」
要は興味なさげに受け流すと、俺の背後に回って背を押し、食卓へ促す。
・・・懐かしいなあこのやりとり。俺が受験で忙しくなる前はこんなのはしょっちゅうあったんだがなあ。
ちらりと思ったよりも強く押してくる要の表情を覗ってみると、そこはかとなく喜色が浮かんでいる(端から見ると無表情なので長年の修行で培った対要感情読み取り術、訳して要術により判断)のが確認出来てこちらもだいぶ嬉しくなった。
そしてふと、背中とはいえ要に触れられているのに、そんな事を考える余裕のある自分に少なからず驚いた。予想ではもっと取り乱すはずだったのだけど。いや、決して悪いことでは無いから問題はないのだが、どうにも拍子抜けである。
だがこれで上手く会話が出来ないかもという心配がなくなった。欲の問題さえなくなれば晴れて一般的な兄妹の出来上がりだ。やはり出家か・・・。
「はい、召し上がれ」
数秒前と同じ結論に至る間に俺は食卓の椅子に座らされ、たまごのサンドイッチを差し出されていた。たまごのみではなく、レタスが挟んであるところはポイントが高い。
「アニキ、レタス入りの好きだったよね?」
「お、おう。よく覚えてたな」
「うん、覚えてた」
「・・・いただきます」
・・・うめえ。うめえよお。
たまごの甘塩っぱさとレタスの風味とシャキシャキとした歯ごたえが絶妙な味を生み出している。コンビニとかに売ってるたまごのサンドイッチには、レタスが入っているものって案外少ないからこれは本当に嬉しい。
どうしよう、好みを覚えててくれたこととか久しぶりのちゃんとした朝食とかいろいろな理由で泣きそう・・・。
ああ、俺はこんなにも可愛くて気の利く妹をDV犯に仕立て上げようとするとはなんと愚かなのだろう。お詫びに後日要の欲しいものを何か買ってあげよう。よしそうしよう。
ただしそれはそれ。俺の顔が奇妙なことになっていたのは事実。DVでないのは安心だが、それ以外の理由とはなんなのか、気になってしまうのは人間の性。
ということで、俺の表情を見て安心と喜びを半々に浮かべ(要術)俺の正面に腰を下ろそうとしている要に問うてみた。
「そういや要。さっき鏡を見たんだけ」
「ッ!?きゃっ!?」
「え、ちょ、だいじょぶかおい!?」
言い終わる前に要が椅子に座り損ねてフローリングの床に尻餅をついた。急いで要の側に回り手を貸す。
「何やってんだ。ほれ掴まれ、怪我ないか?」
「う、うん」
怪我が無いことに胸をなで下ろし、腕を引いて立たせてやる。手に触れたときドキッとしたのは内緒な。
今度はしっかり席に着いたのを確認してから自分も元いた位置に戻り、食事を再開した。
にしても鏡を見たと言っただけでこの慌てよう。意識がない間に余程のことがあったと見える。身を小さくしてハムスターの如くサンドイッチを食する要からは、なにも聞いてくれるなという意思がひしひしと伝わってくる。
ふむ、どうしよう。ここで心を鬼にして問いただすべきなのか?昨日も聞こうと思ったこと何にも聞けなかったし、なんとなく今を逃すとこの先ずっと聞けないままになってしまう気もするんだよなあ。でもなあ、ハム要強そうなんだよなあ。仮にハム要に対して強く当たった場合、多分主に罪悪感とかで死にたくなりそうなのよなあ。けどなあ、もっと縮こまった要も見てみたい気持ちもあるのよなあ。絶対可愛いんだよなあ。んー、あー、えー、おー?おー。
「そ、そういえば業者さんお昼前に来てくれるんだって。だからお昼までに軽くリビングとか玄関の掃除やっちゃおうね」
「・・・ん?おー昼前な、了解」
んあえおと迷っている間に露骨に話題を逸らしにかかる要。
うーむ、まあ早口で必死に今日の予定を教えてくれた要は可愛かったので乗ってあげるとしようじゃないか。うん、明日の朝も戦場帰りの顔になっていたら聞こう。明日は明日の風がふくさ!ごめんちょっと自分でもなにいってるかわからない。
「あ、そういや家事の分担とかどうする?」
たまごを完食し、次の獲物をハムとチーズとレタスのサンドイッチに定め、食べ始めたところで思い付いたことを発言する。要もそれは気になっていたようで、わざとらしくお掃除お掃除言うのをやめる。
「私も決めなきゃと思ってた」
「細かいところは別として、だいたいの役割くらい決めといた方が後々楽だよな」
「ん、そうだね。じゃあ料理と洗濯は私がやる。これは決定事項」
「えっ決定事項?」
「うん決定事項。私料理好きだし、アニキよりも上手に作れるし。洗濯も・・・うん、洗濯は絶対譲らない」
なんだろう、料理よりも洗濯の方に並々ならぬ決意を感じるが・・・。
しかし、要は平然と言うが家事において料理と洗濯が閉める割合は相当なものである。料理はまずもって何を作るか考えなければならないところからもう苦労を感じる。そこから材料の調達に行き料理開始となると、これから華々しい高校生活がスタートする要の自由な時間を大幅に削れてしまう。洗濯にしても洗濯かごから衣服を取り出し、洗い方を意識しながら洗濯機に洗剤柔軟剤諸共ぶち込んで数十分待って、洗い終わったら干して乾いたら畳む。一日二日ならたいしたことはないが、毎日となると地味に厳しい作業だ。いくら要の要領がいいからといってこれら一切を任せるのはさすがに忍び難い。
要の意思は堅そうだがなんとか説得しなければ。
「いやそう言われてもよ。春休み中はいいかもしれんが高校始まったら部活とか勉強とか色々あるだろ?全部出来るはずないぞ」
「そこは大丈夫。私部活やるつもりないし」
「ほわっつ・・・?」
なんということだ。部活に入る気がない、だと!?
部活動。
高校生において勉学の次に重要なものであると俺は考えている。仲間ができ、苦楽を共にし、互いに競い高め合って、一生物の友情を育む。青春の半分くらいは部活動が閉めていると言っても過言ではないのではないのだろうか(個人的見解)。
その部活に入らない?そんな馬鹿げたことがあっていいものだろうか。いいや否。断じて否である!
「要、悪いことは言わない。考え直せ」
「なんで?」
おそらく要は必殺技を発動しただろうが、卓上のサンドイッチを穴を開ける勢いでガン見している俺には効かない!
「なんでって。部活はいいぞお?仲間も出来るし、社会の一端も学べるし」
そう、部活とは社会人になったときに必要な能力を高めるという役割も担っている。先輩後輩という縦の繋がりから、集団行動、部長、副部長などは様々な責任まで負う。それらを部活に入るだけで学べる(一部を除く)というのだからやらない理由が見当たらない。
とまあこんな感じで数分程度、如何に部活が素晴らしいかのプレゼンを行っていたのだが。たまご、トマトと食べ終わり、ツナマヨにを手をつけつつ静かに聞いていた要が、それを遮るように急に手を挙げた。
「アニキ、一つ質問いい?」
「おうなんだ?なんでも聞いてくれて構わないぞ」
「そう?じゃあ遠慮なく」
要は手に持っている小さくなったサンドイッチを全て口に含み、時間を掛けて咀嚼してから飲み込み、牛乳で喉を潤してから少し楽しげに(要術)言葉を発した。
「アニキは何部だったっけ?」
「帰宅部でええええええええすっ!!」
要のダイレクトアタック。俺のライフはゼロになった。俺は頭を抱えた。
「ほら、アニキだって部活入ってなかったじゃん。反対される謂れはないよ」
くっ・・・。
ああそうさ。確かに俺は高校時代帰宅部だった。授業が終わったら速やかに自転車に跨がり、寄り道など一切せず自宅へ直行する毎日を送っていたよ。
理由があったのだ。
一秒でも早く要に会うという崇高なる理由がっ!
要に合う時間が減るというのなら、部活などただの悪だ!
仲間?青春?はっ、くそ食らえ!へそで茶が沸くぜ!要がいればそんなものなくたって俺は幸せなのだあああ!!
・・・こんなこと考えて毎日過ごしていたことも、あの夏の一件で大いに打ちのめされてしまった要因の一つなのだが。
さておき、俺と要は違う。部活以外に趣味や生き甲斐があるのであれば口を挟むつもりはないが、そうでないなら是非とも部活には入っていただきたいというのが兄の気持ちだ。
まあ、結局決めるのは要なんだけれども。
「わかったよ、お兄ちゃんはもう何も言いません。要の好きなようにしてみなさい」
「いい話風に閉めようとしても帰宅部発言で色々台無しになってるからね?」
「・・・ふぉふぃふぉうふぁふぁふぇふぃふぁ」
ばつが悪くなったので残りのサンドイッチを口に詰め込んで席を立つ。偉そうに抗弁たれてたのにこのざまとは、我ながら格好悪いことこの上ないなおい。
「ん、お粗末様でした。アニキが着替えたら掃除始めよ」
「ふぉうふぁい」
詰め込みすぎたサンドイッチを一生懸命咀嚼しながら要に承諾の意を伝え、着替えるために部屋に戻ることにした。
・・・あれ?結局なにも決めてなくね?