第四話 「長い一日の終わり」
「お母さん、なんだって?」
長い電話を終えて部屋の中へ戻ると、暖房で暖められた空気に包まれるとともに要の声がかかった。
既に、ええと、なんだっけ・・・ぷ、ぷれ・・・ぷれでたードッグ?あれ、そんな宇宙人みたいな名前してたっけ?まあいい、そのぷれなんちゃらが出ていた番組は終了したらしく、要はつまらなそうにニュースをみている所だった。殺人事件やら、国会議員の不祥事やら、芸能人のスキャンダルやらと最近は代わり映えしない内容ばかりでちっとも面白くない。一昔前と比べてテレビっ子が少ないように思われるのはこれも原因の一つに思える。一番はもちろんスマホ。
んれ?てかお母さん?
「なんだ要、相手が母さんだってわかってたのか?」
「えっ!?」
えっなにその驚きよう。
要の瞳が、水槽に囚われ見世物にされている回遊魚のようにあちらこちらへ動き回っている。ちょっと心配になるくらい動き回っている。大丈夫それ?目回しそうだけど。
「あ、アニキの反応からしてお母さん以外考えられなかっただけ、だよ?」
「ほう?」
ウソである。
目を背け、顔を逸らし、言葉が尻すぼみになっていく。決定的なのは、右手の親指で左手の親指の爪を撫でる。要が隠し事をしている証拠だ。
相変わらずな要に少しばかり安心感を覚えた。
因みにここで疑いのまなざしを向けると、可愛いらしいさまを観察することが出来るぞっ。
ということで、見つめてみる。
じっ。
「うっ・・・。ほ、ほんとだよ?」
視線に耐えかねて俯いてしまった。その状態でちらちらとこちらの様子を確認してくる。角度、表情、全て完璧に見えるように計算された上目遣い。要の十八番だ。
ああ、非常に可愛い。そしてとっても心が痛い。
これをされると昔から何もかもを許してしまう。小学校から帰宅して、大事にとっておいたチョコチップアイス(某高いことで有名なやつ)をスプーンで掬っている場面に出くわしたときもそう、中学から帰宅して、密かに集めていた大人向けの雑誌の存在を要に密告され、母に要の教育に良くないということで片っ端から処分された事実を知ったときもそう。高校から帰宅して、ハマっていたアニメのキャラクターがプリントされたお気に入りのシャツに着替えようとしたら、俺の部屋に置いてあったはずなのに何故か要がコーヒーを零したとかで洗濯されていて。洗濯機から帰還したそのキャラが、見るも無惨な姿に変わり果てていたときもそうだ。
右目の部分が欠落していて、ラブコメ作品の人なのにパニックホラーの人かと思った。
しかーし。それは高校生までの話だ。
大学生の俺はひと味違う。
まだ見る。
じーっ。
「あれっ!?えと、ええっと・・・」
慌てている。俺がガン見を継続していることに慌てている可愛い。
恋心を自覚する前ならば、ここで頭の一つでも撫でて、しょうがないなあで終わっていたはずだ可愛すぎる。
しかし、どうやら俺のこの一年は無駄では無かったらしいどうしてこんなに可愛いんだ。想いが強くなりすぎたのか、それともこじらせてしまったのか、要の顔を見ても胸に痛みが走ることはない可愛すぎて泣きそう。代わりに可愛い、撫でたい、抱きしめたい、あわよくば、なんて下衆な欲望が強力になってしまっているのは問題だが生まれてきてくれてありがとう可愛い。そこはほら、きっと我がプラスチックの精神殿が頑張ってくれるはずだあー抱きしめたい。確証はないくんかくんかしたい。
ともあれかくもあれ、この場では要の隠し事を暴くのが先決だ結婚したい。
「要、けっこんしぶばあぁ!?」
「えっなにっ!?なにしてるのっ!?」
それはこっちが聞きたい!
なんだ今のは!?なにを口走ろうとしたんだ俺は!?咄嗟にセルフアッパーで最悪は回避したが・・・。
なんということだ。一人の女性として意識するようになって、妹に対する甘さが軽減されたと安堵したのも束の間、ここまで欲望が表出するとは完全に想定外だ。
いかん、一刻も早く対策を打たないと感情が露呈するのに三日も持たないぞこれは・・・。
隠し事なぞ後回しだ。再度戦略的撤退を遂行する。
「大丈夫だ問題ない」
「問題しかないと思うけど・・・」
「大丈夫だ問題ない」
「いやだから・・・」
「ダイジョウブダモンダイナイ」
「ダメだこりゃ・・・」
俺は風呂に入ると言い残し、見事なロボットウォークでその場を離脱することに成功した。ふっ、華麗だ。多用しよう。
・・・しかしまさか、要と二人暮らしする羽目になるとはなあ。
この部屋の下見に来た時点で違和感はあった。なにせ広めの洋室二部屋に和室一部屋を兼ね備え、リビングもキッチンもそれなり以上に広いのだから。そこで両親の好意だと信じて疑わなかった俺がバカだったのだ。大盤振る舞いだひーはーとかふざけてた自分を絞め殺したい。なにかしら聞いてみれば、母はともかく親父ならボロを出したかも知れないのに。
後悔先に立たず、よく言ったものだ。
とにかく風呂だ。ゆっくり湯船に浸かって、頭をすっきりさせよう。それから情報の整理と精査。要に聞きたいことも山ほどある。
・・・亀の歩みの如きロボットウォークでようやく脱衣所に到着したはいい。ただ、この数時間で脳の処理能力を超える出来事が起こりすぎて、致命的な失念をしていたようだ。
要は既に入浴を済ませている。
それは脱衣かごに置き去りにされている要の下着類がありありと物語っている。
この事実が示すのは、俺は要が浸かった湯に浸からなければならないと言うこと。
発狂ものである。
「こんなことが、これから毎日・・・?」
要と二人暮らし。
その現実は考えていたよりもずっと重いのかも知れない。
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乗り切った。乗り切ったぞ俺は。あの時間だけは悟りを開いていた。そんじょそこらの坊さんなんかにゃ負けないくらいかっぴらいていた。間違いない。
浴室に入るにあたって、視覚からの情報を遮るためにタオルを巻き視界を遮断。更に嗅覚からの情報も鼻を洗濯ばさみで抓んでカット。後は簡単。手探りで洗うもの洗って湯船には浸からず撤収。いつもより三倍は時間がかかるのは玉に瑕だが、醜い欲望をねじ伏せるにはこれくらいがちょうどいい。
さ、歯も磨いたし、後は寝るだけだ。
状況把握?知らん、明日だ明日。
「長かったね」
いい気分でリビングへ向かうと、要は未だソファーに座っていた。目をこすって「うーっ」とのびをしているあたり、うとうとしていたのだろう。そこで眠らないで居てくれて助かった。運ばなくてはならなくなるところだった。要のお身体に触れるなんて想像するだけで・・・。
「もう寝るの?」
「お、おう」
こてん、という擬音語を考えた人は天才だと思う。
要さんいちいち首を傾げないでください。不用意に必殺技連発されたらその都度瀕死の重傷を負わされる俺はたまったもんじゃないんだからね。チートかな?チートキャラかな?
「そ、じゃあ私も」
「お、おう。洋室使うのか?」
「そのつもり。運べそうな荷物はもうお父さんに運んで貰った」
「え、親父来てたの?」
「うん、運び終わったらすぐ帰っちゃったけど」
なんだよ水くさい。来てるって言ってくれりゃ飯くらい作りに帰ってきたのに。あの平凡な顔を見て落ち着きたかったなあ。
「二人っきりの時間を邪魔したくないんだって」
「ぶっ!?」
なに寝ぼけたこと抜かしてくれてんだあのじじい!?平凡じゃ無い顔にしてやろうかおい!?
・・・いや、親父を責めるのはお門違いだ。彼のはあくまで良心からの発言のはずだ。そうだ、あの平々凡々な人間が変に気を回すなどあり得ない。詳しい事情だって知らないのだろうし。
「それでね・・・」
そう言って、ここまでぽやぽやしていた様子とは一転、要は急にもじもじとし始めた。頬を赤く染めるというおまけ付きで。
え、どったの。
あなたのそんな姿は初めて見るのですが・・・?
相当言いづらい事なのか、要の口からはあーとかそのとか、言葉にならない言葉ばかりが漏れている。
しばし待ってみるも状況は動かず。
破滅的に可愛い要を眺めつつ、明日の朝食はパンにしようか白米にしようか赤飯にしようか考え始めたあたりで、要はなにか諦めたように一つ溜息をつき、やっと話を始めた。
「・・・明日、タンスとか机とか大きい荷物を業者さんが届けてくれるから、運び入れるの手伝ってくれる?」
「え?おう、そのくらいお安いご用だが」
「ん、ありがとう。じゃ、おやすみ」
「お、おう。おやすみ」
要は小さく手を振ると空き部屋だった洋室に入っていった。
荷物運び?それしきの事で要があんな風になるだろうか?
答えは否だ。
要の無表情はそんな柔なものではない。彼女が生まれてから中学二年まで一緒に居た俺ですら、あれが崩れるのを見た回数は両手足の指で事足りる。
なのに今日だけで既に二回も拝む機会があった。
やはりこの一年で色々と変化があったのだろうなあ。
そこは彼氏君に感謝か・・・。
「・・・さーて、俺も寝るか」
長い、とても長い一日だった。
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ナゼマダオワラナイ?
どうかしている。こればっかりはどうかしている。
俺は自分の部屋に入って、自分のベッドに寝転がって眠る体勢に入った。だというのにどういうことだ。
どうして要が部屋に侵入してくる。どうしてベッドに上がってくる。どうして、俺にすり寄って眠る。
これは夢だ。
そうだと思いたい。切実に。だが、俺の右腕をがっちりホールドしているが故に感じる要の柔らかい感触が。匂いが。これは現実なのだと嫌と言うほど伝えてくる。
右肩に質量を感じる。
薄く目を開けて、重みの正体を確認した俺は、自分の目を疑うしかなかった。
にわかには信じがたいが、要の頭が乗せられている。
幸い狸寝入りは上手くいっているようで、彼女は俺が熟睡していると思い込んでいるようだが。
狂いそうなほどの劣情が襲い来る今現在、キスがしたいとか、襲ってしまいたいとか、言いたいことはたくさんあるが、最優先で言っておきたいことはこれだ。
鼻血出そう。
「ふふっ、お兄ちゃん・・・」
「ごぽっ」
「ふふふー・・・ん?・・・わあっ!?」
あっれなんだこれ口の中が鉄の味でいっぱい。
「ちょ・・・おに・・・!し・・・!」
遠くで天使の声が聞こえる。そうか、俺はもう死ぬのかも知れない。意識も朦朧としてきたし。
けど。もう。なんか。うん。
死んでもいいかなあ。
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肌を撫でる生ぬるい風が、まだまだ夏が終わらないことを感じさせる。そうだな、確かあの日はこんな日だった。
地元で一番大きな神社。そこでは毎年、自治体主催の夏祭りが行われる。境内から小道を挟んで反対側にある駐車場まで所狭しと出店が並ぶほどだから、規模はそれなりだろう。
賑わう人垣の中で、ふと見覚えのある人陰が目についた。男女二人組だ。
男はジーンズにシャツという簡素な出で立ちなのに対し、女性の方は黒字に撫子の花がちりばめられた美しい浴衣を纏っている。
高校三年の俺と、中学二年の要だった。
ちょうどいつもリンゴ飴を売っている顔見知りのおじさんにおまけしてもらったようで、要が嬉しそうにしている。ほとんど表情は変わっていないが。彼女が物心つく前から欠かさず通っているというのに、飽きが来ない自分に対してこの時は疑問に思っていたが。今ならわかる。それは彼女が一緒であったからこそなのだと。
暫く屋台を見て回った二人は、休憩所へ移動した。買い込んだ焼きそばやチョコバナナを処理していると、要が俺に時刻を尋ねた。聞いてくるのはこれで四回目だったのだが、特に勘ぐりもせず素直に教えてやると、把握した彼女は、少し肩と視線を落とす。
その様子に体調でも悪いのかと心配になりどうしたのかと質問する俺。しかし要は何かを言うことはなく、俺の右手を両手で祈るように握りしめるだけだった。
数秒、そうした後に、意を決した様に顔をばっと上げる。行かなければならない場所がある、ここで待っていてくれと言い残し、彼女はその場から離れていった。
知らぬが仏。
この言葉をその日どこかで耳にしてさえいれば、おとなしく待つことが出来たのかもしれない。
案の定、重度のシスコンを自負していた俺は、後をつけた。彼女がどんどん人気のない方へ進んでいくものだから、不安が肥大していったのをよく覚えている。
行き着いたのは神社の裏手にある高台。町を見渡すことができ、夜景が綺麗だと我が高校で話題になっていた場所だった。
そこには要と、もう一人。
俺は離れた位置に身を隠す。その人物は暗がりに立っていたため顔は把握出来なかった。が、身長、体格、僅かに聞こえる声の低さから察するに、間違いなく男だ。
素晴らしい景観、緊張した雰囲気、男女二人きり。
これから何が起こるのか。想像するのは容易かった。
『・・・くれ・・・とう』
正確に聞き取ることは出来なかったが少し強張った声音だった。要は返事の代わりに小さく首を振ることで答える。
要が告白を受けることは珍しいことではないのは知っていた。母からの又聞きではあるが、月に五、六通は、ラブレターを持って帰ってくる程だとか。
あの容姿だ、当然のことだろうと、この時までは誇らしくすら思っていた。
それがどうだ。
実際の現場を見たらそんな余裕など吹き飛んだ。警報のように高鳴る心臓、噴き出る冷や汗。感じたことの無い感覚が体中を支配した。
その間にも二人は言葉を交わしていき。
そして。
『・・・好きです、・・・さい』
『・・・好き・・・。・・・ない』
神のいたずらか、悪魔の暇つぶしか。
決定的な言葉だけは聞き取れた。聞き取れてしまった。
男女が好きだと言い合う。想いが報われる瞬間。時に美しく、時に残酷なそれは。俺に恋を自覚させるには十分すぎるものだった。
見ていられなかった。聞いていられなかった。
俺はそそくさとその場から距離を取るために動き出した。
肩を落として要に待っていろと言われた場所に戻る俺。幾ばくかして戻ってくる要。要がなにか話しかけても俺は上の空。その反応に不思議そうにしていたが、軽く魂が抜けかけている俺を彼女が引っ張るかたちで、二人は人垣に消えていった。