第一話 「最後の平穏」
近年まれに見る寒波が襲来したとかなんとかで、今年の如月はとてつもなく寒かった。都内にもかかわらず、まだ冷凍庫に突っ込まれた方が断然ましだと思えるほどだった。
北の方に行くと、こんなのはまだまだ序の口だと、北国出身のサークル仲間から聞いたときは、例え明日、北国以外の都市が滅ぶと言われても、俺は迷い無く破滅を選ぶ気がした。
しかし、季節とは移り行くもの。いつの時代でも、あらゆる物事でも、寒く厳しい冬を越えれば、暖かく穏やかな春が訪れるものだと相場が決まっている。
それはもちろん現代日本においても当てはまることだ。
全ての種がそうという訳ではないが、大半のものがやることなすことはほぼ全て人体に有益。言うなれば人類にとっての生命線である植物たちも、新芽を出し、蕾を膨らませ、生命を謳歌する準備を始めた。
命綱を自ら断ち切ろうとする人類マジおたんこなす。その点においてはまだお猿さんのが賢いのではないだろうか。木を切ったなら、切った分植えなさい、と至極まじめに思う今日この頃である。
そんな植物にも負けず劣らず、人も大概忙しい時期だ。
新年度という、歳を重ねるに連れて嫌悪感を抱くようになる代物に備えて、様々な対応に追われている事だろう。
俺が所属するサークルも例に漏れず、今日、新入生獲得のための下ごしらえを開始する予定であった。
もちろん俺も参加するつもりでいたよ。サボタージュなんてとんでもない。馬車馬のごとく作業する気概だけは持ち合わせていたさ。
・・・でもまあほら、人って失敗する生き物じゃん?
集合時間は確か、正午ちょうど。
俺が家を出たのはそこから時計の針を三回と半分回した頃。
要するに宮本武蔵もびっくりの大遅刻ってえ訳だ。
さて、ここで一つ、言い訳をしましょう。
十一時にスマホのアラームをセットし、確実に鳴ったことは覚えています。止めたことも覚えています。起きなければと考えたことも覚えています。
そこから先は記憶がありません。
ええ、皆無です。皆無でございます。
次に意識が覚醒した時はあら不思議、時間旅行でもしたのでしょうか、四時間もの時が過ぎ去っていました。
ところで、原因はなんだと思います?
二度寝の原因というと、存外限られてますよね。寝不足であったり、まだ用事まで余裕がある時間に目が覚めてしまったり、深刻な病などの例外を除くと大概、ありきたりなものばかりであります。
ただ、今回のそれは、その中でもことさら回避しにくい類いのものでありました。
ある人は、誰しもが一度は体験したことがあるであろう耐え難き誘惑だと語った。またある人は、これでもかと欲望を掻き立てる、傾城の美女による甘美な囁きにも勝るとも劣らないと称した。
少し卑猥なあれこれを連想させる、この寝具の正体とは。
皆さんご存じ、そう!
毛布です。
・・・毛布なんです。
だって彼女が俺を包み込んだまま放したくないって言うから・・・。行かないでって言うから・・・。
はい。
以上、しょうもない言い訳でした。
以後、出来る範囲で気をつけたいと思いますのでよろしくお願いします。
各部の部室が多く存在する十二号館三階の第二会議室が我らがサークルの拠点だ。
ドアをそっと数センチ程度開けて内部を観察してみると、チラシやポスターの製作、日程調整や会場の選別と、大忙しのご様子だった。会議室にするには勿体ないのではないかと思えるほどに広い室内の至る所に、それぞれの役割を持っているであろうサークルメンバーが点在していた。
指示を出す者、イラストを描く者、新入生歓迎会の企画をする者、はたまたおまえは何しに来たのだと言われかねない程に、ただひたすらに談笑をする者などなど。
まあメンバー全員が全員参加している訳ではなく、主に作業をしていたのはサークル内でも割かし派手めな連中だ。
最近の言葉で表すならそう、ぱーでりーするぴー。
略してパリピ。
・・・あれ?ぱーをしてりーがぴーするんだっけ?
いや、ぱぱがりんちでぴーす?
・・・最初はぱー?ぐーちょきぱー?
・・・んっ!?今のはなんだ、なにが起きた!?俺は一体何を!?
駄目だ、この思考は危険だ。即刻中止措置を!可及的速やかに中止をっ!
ええと・・・そう、パリピ、パリピな。
突然だがパリピと呼ばれる人物を見て、えっ、なにあれ、頭悪そう・・・と思ったのは俺だけじゃないはずだ。でもそれは間違った認識であることをご存じだろうか。
今を全力で楽しむ勢な彼等彼女等の中には、往々にして優秀な頭脳を持った人物が紛れ込んでいるという事を俺は知った。
いや、知ったと言うと少し語弊があるか。
思い知らされたと言うべきかな。
主に会議室の面々の中心で的確に指示を出し、かつ手が足りない場所に迅速に駆けつけ解決、予算管理まで行う、ハイスペックスーパーヒューマンの呼び声が高い『ヤツ』という存在によってな・・・。
おかしいなあ、あいつ俺と同じ一年のはずなんだけどなあ・・・。いや昔から万能なのは知ってたけど、あそこまでだったとは知らなんだ・・・。さては『ヤツ』め、まだ実力を隠してやがったな・・・?
何はともあれ、覗き込んだ先に俺の居場所はなかったもんだから、触らぬ神に祟りなしという古人の教えに則り、即時撤退を敢行した俺である。一瞬『ヤツ』の視線が俺を捉えたように見えたのは気のせいだ。そうだ、そうに違いない。
あ、間違えた間違えた。
居場所はあったよ?ハブられてるとかそんなんじゃないからね?ただほら、後から行って邪魔になるといけないって思ってさ?せっかくみんなが団結して頑張っているところに水を差すようなものじゃない?いや、めんどくさかったなんて思ってないからね?かったるいからばっくれようとか断じて思ってないからね?ほんとだよ?信じてくれよおぉ!!
とまあ、それが午後四時二十分ごろのこと。今日のバイトは七時から。少し時間が空いてしまったので、大学の図書館で英単語帳をぺらぺらしていたところである。
入館して、正面にあるメインのエレベーターではなく、常連である俺は、右奥の通路を少し歩いて入り口から見え難い位置にあるエレベーターを使う。こっちの方が明らかに空いているからな。距離もそんなに変わらないし、使わない手は無い。
地下二階から地上四階まで選べるボタンのうち、いつも通り三階を選択。そして、到着してからまた右に曲がり、多くの歴史書が置いてある本棚の間を抜けた先あるカウンター席がお気に入りの場所だ。
教材を多数開くとなると少し手狭だが、基本文庫本か単語帳しか開かない俺にとっては最適。正面のガラス窓からは大学自慢の庭園を見下ろすことができ、景観も申し分ない。実に素晴らしい。
にしても、グローバルな世の中はいやあねえ。
大学受験に備えてあれだけ英単語を頭にたたき込んだというのに、全然量が足りてないんだとさ。あと千語は詰め込まないとお話にならないんだとよ。
それを仰った英語講師曰く、
『考えが甘過ぎますよっ、この小童共がっ(はーと)』
らしい。
いや小童って・・・。そりゃあ貴女からしたら尻の青いガキんちょでしょうけどもさ・・・。
詮無きことをだが、名前以外は全て謎に包まれている彼女の個人情報。せめて年齢だけでも把握するべく、大多数の男子大学生が日々奮闘しているというのは、今やうちの大学内では有名な語り草である。
発端はまあ、男ならではの単純明快な思考回路とでも言おうか。
早い話が、彼等は本能に抗うことが出来なかったのである。
英語講師、森藤響は美人だ。十人に聞けば十三人が美人だと答えるであろう美貌を兼ね備えた女性だ。
腰まで届く黒曜石を思わせる黒髪、少しキツめな印象を受けるまつげの長い目に、吸い込まそうになる桔梗色の瞳。角度、大きさ、位置まで完璧に整えられた鼻、厚くも無く薄くも無く、万人の理想を体現するかのような唇。無駄の無い首筋、豊かな胸部に引き締まった腰回り、芸術作品にも劣らない脚線美。彼女に見つめられて恋に落ちない男など、この世界には存在するはずもないだろう。
とは、同じ学科の足立君の談だ。
うわあいつ気持ち悪いな・・・。ブロックしとこう・・・。
んで、かような美を極めたような人間がする講義だ、人気が出るのは火を見るより明らかだろう。
お陰様で、毎週水曜日に行われる英語の講義は大盛況。どこで聞きつけたのやら、一年から四年、果ては院生まで出ばり、六学年分のむさ苦しい野郎共が一挙に集うことに。
大学内で一番大きい講義室でも毎回満席は当たり前、立ち身ででも受けようと必死な輩も続出。室外に列が出来るまでに至る。
大学始まって以来の異例の事態により、特例措置として大講堂の使用が許可された。
何ゆえ彼女は、俺の入学と時を同じくして着任してしまったのだろうか・・・。
先輩方からすれば、既に単位をもらっているから問題はないのかもしれないが、我々一年からすればたまったものではない。
何を隠そうこの英語は、必修科目なのだ。
落とし続ければ卒業はおろか進級すら危うくなるような代物だぞ。
こんなことになるとわかっていれば、別の講師が担当する講義を選んだというのに・・・。周りの人間が全会一致で森藤講師を選んっでしまったのが運の尽きだった。
俺は当初、全力を持ってして取り組むつもりだったのだ。彼女の発する一言一句を聞き逃さず、重要だと思われるところは必死にメモを取り、一夜漬けなどせず、事前にテスト範囲をしっかりと勉強する予定だったのだ。
それなのに・・・それなのにっ!
彼女が一言喋れば歓声が起き、二言発すれば踊り出し、三言紡げば発狂する。
よく言えば熱狂的な、悪く言えば狂気的な。
俺からすればバカでアホでラリラリでイカれた連中がそこかしこにはびこっている状況だ。
確かに言葉は聞き逃さなかったさ。
彼奴ら彼女が何か喋ろうとすれば、敏感に察知して瞬時に黙り込むからな。
だがメモを取ろうなど、夢のまた夢だ。
シャーペンを持てば椅子の上でブレイクダンスをしている輩の足が当たってはじかれる。
ノートを開けば足跡だらけにされる。仕方なく手で持ったまま記述しようとしても、気が狂ったように頭を前後左右に振りまくっている畜生の頭突きがかまされ鼻から出血。白地を真っ赤に染め上げた。
なんだよ毎週シャーペンとノートを犠牲にする講義って・・・。そんなの日本中どこ探したって見つかるもんかよバカか?バカか。
何度大学に物申そうと思ったことか・・・。
学長室に向かおうとする度に狂信者どもに先回りされ意図もたやすく拘束、数時間に渡って森藤講師が如何に素晴らしい人なのかを説かれるもんだから、俺の精神保護の為に断念せざるを得なかった・・・。
もとより俺が何を言ったところで、何が変わるとも思えないがな。
テスト範囲を勉強しようにも、ノートを一ページすら取れてない。その上授業資料は、女神が触れた神聖な書物だとか言って、イカれ野郎共に全て回収されたとあっちゃ、俺に出来ることは単語帳を読む以外にはなかったよ・・・。
結果として、あえなく俺は落単の二文字を突きつけられることと相成った次第である。
ほんと男なんて滅べばいいのに・・・。男なんて馬鹿ばっかって『ヤツ』が零してたけど、全俺一致で同意するわマジで・・・。もうほんとやんなっちゃう!
講義中はもとより、食堂や体育館など至る所で、森藤きょう信者共の話し声は嫌でも耳に入ってくる。
「まだ二十代なのでは」とか、「実はもう四十路手前なのでは」とか、「いやいや間を取って十代なのでは、欲を言うなら前半が・・・」とかって間取れてねえからなボケがそれはお前の願望だわ帰れこのロリコンクソ野郎が。
ったく、どこのどいつだよ気色悪いこと宣ってるカスは。あーやだやだ犯罪者予備軍と同じ大学なんて。奴らが何かしたらこっちまで予備軍だと勘違いされちまうじゃねえか。反吐が出るぜまったく。勘弁して欲しいもんだなほんとに。親の顔が見てみたいもんだなあ。
・・・?
あん?あいつどっかで見た顔だな・・・?
ああ、足立君か。
・・・足立君っ!?
・・・そうか、足立君なんて人物はもとからいなかったのか。
俺はなにも見ていない。何も聞いていない。イェェェェェスロリータぁ!ノータァァァァァッチ!なんて知らない。知らないったら知らない。
だいたいな、女性の年齢を推測するなんぞ、男の風上にも置けないクソったれだ。
淑女に年齢を尋ねる、ましてや詮索するなんてのは愚の骨頂。御法度だとパパや、主にママに教わらなかったのかね?
俺?俺は小学三年の秋にはもう学んでいたさ。我が母上は英才教育を重視していたお方だからな。
あのありがたい言葉は、何年経とうが忘ることはないぞ。
『いいか大切。今後女性に年齢を聞くことがあればそれは、結婚したいなあ、と思った相手にだけにしろ。彼氏彼女の関係になっただけじゃダメだぞ。ん?なんでかって?なんでもだ。口答えは許さん。あとついでに私の年齢を一生涯、聞くことも言いふらすことも禁止する。万が一それが守れないようであれば、この『思い出』なるアルバムの中身を成長した要にじーっくり見せつけるからな。加えてお前のこの素敵な趣味を書き綴った紙を町内中の掲示板に貼り付ける。いいな、肝に銘じておけ』
・・・え、脅迫じゃねえか!?
脅迫だよね!?教育では絶対ないよね!?
まごうこと無く悪魔の所業だよね!?
三年生だよ!?そのときの俺小学三年生だよ!?
いやその幼さで既にほんのちょーっとおかしな趣味に目覚めてる俺も俺だとは思うけどさあ!?
それにしたって町内中の掲示板てなによ!?下手すりゃ地元に住めなくなってたんですけど!?現代版村八分とか笑い事じゃ済まされねえぞ!?とりあえず無事に教えを守りきった過去の自分よありがとう!!
って。
「あら」
気づけば腕時計は六時二十分を示していた。
ここからバイト先の本屋までは歩いて四半刻くらいかかるので、そろそろ動き出さないとまずい。
幸い束縛癖のある毛布ちゃんは、今頃お家でしくしくと涙を流している最中だろうから、同じ過ちを犯すことにはならないだろう。
万一遅れたとしても、おやっさんは優しさが服着て歩いてるような人だから、おとがめなしってことになりそうだけどな。
だからといって遅れていいと言うことには鳴らないがな。
あれ、今のは盛大なブーメランだった気がする・・・。
ま、まあそれはそれとして、とにかく行くとしますかあ。
次は満を持して妹様が登場すると思いますですはい。