万霊祭の夜
あの夜のことを、ぼくは未だに思い出す。全てが変わってしまった、あの祭りの夜のことを。
笛の音に導かれ、仮面の踊り手が篝火の前に現れた。
旋律は風となり、踊りは炎のよう。宴の声は風にあおられた火のように、広場をめぐっていく。この時ばかりはどんな気難しい男も、笑顔を浮かべないわけにはいかないだろう。
火の明かりは村を照らし、笛の音が旋律をなぞっていく。
ぼくは、ちらりと舞台の上に目を向けた。
仮面の踊り手たちに混ざって、一人の娘が出番を待っている。
月明かりがそこだけ濃いかのようだ。雲間から光が差し込み、黒い髪に不思議な光沢をまとわせていた。
いよいよだ、とぼくは体を緊張させた。
彼女が、ぼくを見やる。
濡れた瞳をくれたのも一瞬、すぐに音が引いた。
娘が口を開ける。歌い出しは軽やかに。
歌っているのは、この村が拓かれたころの物語。
二人で逃げてきた男女が、森の精霊に導かれて、井戸と斧を見つけた。男は斧で森を拓き、女は井戸水で料理を作った。
歌は精霊のパート。
濡れた声を、ぼくの笛の旋律が飾っていく。仮面の踊り手たちが、激しい足踏みをやめて、おざなりに体を揺らすだけになった。
やがて歌が終わる。
娘が喉に当てていた手を離した。それが演奏の終わりだった。
ほんの少しだけ、名残惜しい。それでも二人の時間は、これで終わり。
拍手がやってきた。
◆
「結婚はしねぇの?」
出し抜けに言われて、ぼくは手を止めた。
祭りは終わり、朝を迎えている。万霊祭の一日目をつつがなく終えた今、村は少しばかりの興奮を残しつつも、気だるい朝を迎えていた。
井戸で水を浴びる。ぴりりと冷えた秋の空気が気持ちいい。
「ぼくには荷が重いよ」
その時も、ぼくはこの話題から逃げた。
当時、ぼくは村の笛吹きだった。オゲネというこの地方独特の笛の奏者であり、祖父から様々な曲を引き継いでいた。
もう一度水を汲む。
井戸の中には、ぼくの面が映っていた。茶色の髪の、農作業の日焼けが地色になった、どうということはない男だ。僕の手を見せれば、笛吹きの手だとは誰も信じないだろう。
「いいか、アラン。万霊祭は、あと六日もある」
ポルトという友人の言葉を聞き流し、ぼくは自分の畑へ向かった。
「薬師の不養生って言葉があるだろう? お前はまさにそれだね」
こいつの笑顔は腹立たしい。この手の祭りは、男女が仲良くなるのにうってつけなのだ。
魅力的な音楽が夜中ずっと鳴っているし、おまけに暗がりがそこら中にある。
だが、こちらは笛吹き。その曲を、演出してやるのが仕事なのだ。
「ま、ご好評いただいて感謝してますよ」
そう言ってやった時、騒ぎが近づいてきた。
「おお、あれ!」
友人が示す先には、昨日の歌姫がいた。黒い髪に、とてもとても白い肌。でもその鼻には少しばかりそばかすが浮いているのを、ぼくは知っている。遠目からでも目を引くほど、愛らしい顔をしていた。
「クロエか」
薄い唇を結んだまま、彼女はこちらに歩いてきた。
この地方独特の赤と黄色の染め物を着て、手には薬草の籠を抱えていた。
「話があるのかい」
彼女は、こっくりと頷いた。
歌う時以外の彼女は、いつも恐ろしく無口なのだ。まるで大事な時に備えて、言葉を節約しているみたいに。
薄い唇が、来て、と動いた。ぼくはポルトに冷やかされながら、彼女の後についていった。
「……話せないわけじゃないんだろう?」
道を行きながら、彼女は一度だけ頷いた。
小さな村だから、そんな話をしている間にも、村はずれの森まで着いてしまう。
「迷信だと思うけどね、それ」
ぼくらの村は信心深い。何日も祭りに費やすのが、その証拠だ。
中でも彼女は特別だった。
村には色々な物語がある。ぼくら奏者はそれを曲として語り継ぐわけだけれど、クロエのような歌い手は、歌う時だけ喉を精霊に借りてくるのだそうだ。いつも話さないのは、喉を精霊に預けているというわけだ。
彼女の迷信深さには訳がある。
少し前まで、村には薬師の老婆がいた。怪しげな老人で、冗談半分で魔女とも呼ばれていた。でも、知識は本物だった。薬草の知識を引き継いだクロエは、老婆の忘れ形見になる。彼女は、老婆の教えを今も守っているということだろう。
だから、誰も直せと言い出せない。
「で、何の用?」
クロエはあいまいな微笑を浮かべながら、笛を吹く仕草をした。
「今夜か?」
こくり。
「うーん。別に、決めていない」
彼女は一つ指を立てた。時間を空けて欲しいということだ。
実際のところ、ぼくとクロエの間に、言葉による不自由はほとんどなかった。目線と唇の動きだけで、十分に用は足りた。
話があるという彼女のために、ぼくは夜の時間を少しばかり割くことにした。大したことにはならないだろうと思って。
実際、夜に色々な作業に付き合わされるのは、よくあった。
結婚はしないのか?
彼女の意思を尊重しながら、ぼくはポルトの言っていたことを思い出していた。
おそらく、しない。笛吹と歌い手という間柄だ。子供の時に遊んだ以上のことはない。なにより、嫁をもらうなら普通がいい。
変わり者の彼女が、緩やかに村のやっかいものになりつつあるのを、ぼくとしてもそれとなく察していた。
「来て」
そう誘われたのは、今度は夜のことだ。
彼女はまだ歌姫の恰好だった。ぼくは、農夫と道化を足して割ったような恰好で、彼女についていく。
森の奥だった。仮面の踊り手たちが思い思いにくつろいでいて、祭りの雰囲気がまだ残っていた。
彼らに丁重に断って、クロエはかなり奥の方まで森へ分け入っていった。いい加減歩き疲れた頃、彼女がこちらを向いた。黒い瞳は濡れて、夜空を写し取っていた。
彼女は人差し指でぼくを招いた。月のせいか、全身が光をまとっているように見える。
「どう?」
彼女が節約していたのは、言葉だけじゃなかった。
あの表情は、反則だった。少なくともぼくの頭を瞬時で茹で返し、呆然とさせ、笛を取り落すくらいには。
夜の森を風が渡っていく。祭りの喧噪が遠い。見慣れたそばかす顔が、今ばかりはそうじゃない。
薄い唇に、目線が吸い寄せられる。
何か言いかけて、ぼくは舌をもつらせた。
そうこうしている内に、クロエがぼくの手を引いた。森から帰ってくるときに、友達がぼくらを発見した。ぼくの顔を見て、翌日、彼はこちらの背中をばんばんと叩くことになる。
◆
翌日は一日中、もんもんとして過ごした。
演奏を押さえてやるのが難しかったほどだ。ただ、名誉にかけて言い添えておくと、評判自体は申し分ないものだった。
男の決意などあっけないものだ。あれほど普通がいいと思っていたのに、今後を想うにつれ、浮かれている自分自身を見つけざるを得なかった。
彼女を嫁にもらえば、きっと苦労する。頭でそれを分っていても、結局は自分でもおかしいほど彼女を気にかけていた。
万霊祭の時は進む。
昼間は農作業をして、晩は曲を奏でた。毎日、初日のように豪勢なわけじゃない。
問題が起こったのは、万霊祭の四日目だった。
「馬が?」
「それだけじゃない。上に武器を持った人が乗っているよ」
不穏な報告が、村にやってきていた。ぼくたちが細やかに暮らしているこの辺りも、確実にきな臭くなっていた。
どうも万霊祭のように、精霊をまつるのが気に食わない人々がいるらしい。彼らは南からやってくるのだった。
やがて報告が来た。
貴族だった。貴族は長々と口舌を述べたうえで、こう宣言した。
「この村に魔女がいるという、報告を受けた」
村にどよめきが走る。布告係は同じ内容を、声を張って伝えていく。貴族は村長の前で止まった。
「証拠も、証言もある。カササギ村は、魔女を、少なくとも一名出すように」
村長は、何も言い返さなかった。騎士はぼくの隣にいるクロエを目ざとく見つける。
「少なくとも、一名、よこしまな歌を口にし、媚薬を振る舞う魔女がいるのだ」
ぼくはすっかり動転した。不思議な言動をする歌姫。そんなのは、一人しかいないではないか。
村長も、貴族に何も反論しない。分からないことだらけだった。
呆然として何もできない内に、引き渡しは万霊祭が終わる翌日と決まった。村の掲示板に貴族が持って来た書状が貼られていた。読めなかったが、とにかくインクの黒さは目に痛いほどだった。
しかし、悩みがどうであれ、夜はくる。万霊祭は粛々と行われる。祭りは神聖なものだ。途中でやめることは許されない。だからクロエの引き渡しは、万霊祭が終わった後になったのだろう。
彼女の歌声は変わらない。ぼくは笛に唇を添わせて、できる限り、舞台を美しく飾り立てた。
それでもぼくには分かった。細かいリズムの違いや、音程の震え、何よりも時折感じる視線に、彼女の恐怖を感じた。
その時の歌は、例によって村の始まりの、逃げてきた男女の話だった。この二人は何を思っていたのだろうか、と笛を吹きながら考えた。
歌や物語というのは不思議なものだ。気持ちが少し違うだけで、まるで違った響き方をする。
ぼくは笛吹としてリズムを追いながら、物語に自分自身を重ねていた。クロエの声に合わせて、息を吹き込む。
風がやってきて、森がざわめいた。灯りから火の粉が舞い上がっていく。
夜空に消えていく光を見て、ぼくは思ったものだ。
なんとかして、二人で逃げられないだろうか。
思い付きは心の中で吟味している内に、狂おしいほど強い願いになっていた。
翌日、森へ出入りする女中に頼み込んで、クロエに手紙を届けてもらう。応じてくれたのは、古株の女中だった。今はそうでもないが、狩人でもない男が森へ入っていたら、とてもとても目立つ時代だった。
「あなたから何かを頼まれたら、請けるようにと、村長様から仰せつかっております」
女中は小声で言った。ぼくは驚いた。
村長が?
「なぜ、村長が」
「とにかく協力するそうです。馬も、地図も、路銀も」
でも、その時は構っていられなかった。
いつ連れ出すのか。どうやるのか。決めるべきことは沢山あった。
昼間は、騎士達が村を見回った。怪しい動きはしようがない。特にぼくとクロエは、厳重に目を付けられていた。
万霊祭が終わるまで、残された時間はたった三日。クロエと顔を合わせる時間は、夜の祭りの時だけだった。
村の始まりの、逃げてきた男女の物語が、最後までぼくらを勇気づけてくれた。
決行するのは、万霊祭の最後の日だった。
「聞いているぞ」
ポルトは、ぼくに言った。彼には何も話していない。にも拘わらず、彼は仮面の精霊の衣装を二人分余計に持ってきていた。
ぼくとクロエが紛れるためのものだ。
「……すまない」
彼は言った。
ポルトまで知っていたことで、ぼくは、村全体がぼくに協力しているのだと悟った。
長い時が経った今、彼らはぼくたちをどう語り継いでいるのだろうかと思う時がある。
『あの二人は駆け落ちした』、『どこかで幸せに暮らしている』、そういう物語にしてしまったのだろうか。
ぼくはポルトに、なかなか応じられなかった。村人の真意が、なんとなく察せられたからだ。
この村は信心深い。世話になった老婆の忘れ形見を、魔女として引き渡すのも、森に放り出すのも気が引ける。でも、男と駆け落ちしたということなら――。
気づけば、ぼくも村のやっかいものになっていた。
「いいんだ」
ぼくがそう言って首を振ると、彼は仮面と衣裳を貸してくれた。これ以上ないほど固い握手を交わして、ぼくたちは別れた。二人以外の村全体が、共犯だった。
「ようこそ、お越しくださいました」
村長は例の貴族を村に招いていた。
貴族は村長にずっしりと重そうな袋を渡し、カササギ村の村長はそれを大事そうに受け取った。
「娘はどこだ」
「まだ、奥に」
「早く持ち帰りたい。美しい娘でもあるそうだな?」
まるで奴隷でも買うかのような口ぶりだった。ぼくの決意は、さらに強いものになった。
最後の村での演奏が始まった。
篝火の前に、仮面の踊り手が現れる。
ぼくは笛に唇を添えた。息吹を送る。
企みを胸に抱えての演奏だった。そのくせ、音は伸びやかになる。最後の一曲。色々なことが混ざり合って、音は不思議な響き方をした。
クロエが歌い出す。
いつもの癖で、きれいな喉に指を当てている。上を向いた顎が形のよい岬のように、月明かりに白々と輝いていた。
曲が終わり、村長が壇上に現れる。いつもの癖で髭をなでなで、さも善良そうに、周囲をきょろきょろする。
仮面の踊り手たちは、最後の日に精霊として森へ下がっていく。その中で、もっと深く、さらに深く、と森へ分け入っていく仮面があるというわけだった。
森につないだ馬を見つけた時、ぼくは村が騒がしくなるのを感じた。
夜の森、闇は深い。村の灯りは、もう見えなかった。ぼくらは仮面と装束を脱ぎ捨てた。
「行こう」
ぼくはクロエの手を握った。短剣とランプを鞍袋に詰め込み、馬に跨った。
暗い森を駆けていく。慣れ親しんだ道だ。恐ろしいのは狼。そして傭兵上がりの野党だが、どちらもこの辺りで見かけられたことはない。
馬で走れば、大丈夫だ。
「北を目指そう」
深い森を抜ければ、領地の境界線が網目のようになっている。当時はそうなっていたんだ。そこまで抜けることが先決だ。追って来ようと思えば、面倒なことになるからだ。
ご丁寧なことに、村の人々はぼく達に地図まで書いてくれていた。
月明かりが行く先を照らしている。ふくろうの声と羽音が、時折聞こえた。後ろから誰かの声がする。ぽつぽつと松明の灯りが見えた。
ひづめの音もだ。彼らは追ってくるだろう。魔女を捕えるために。背中に膨らみを感じて、まるで狼にでもなった気分だ。
ぼくは馬にしがみついて、さらに走らせた。
「走って、もっとはやく」
クロエが慣習を破り、馬に声をかけていた。だが徐々に距離を詰められていく。
追いつかれる。
そう思った時、風が吹いていた。木々が割れて、新しい道が露わになる。それは草木に覆われてはいたが、まっすぐに伸びていた。
「あっちだ」
直感が命じるままに、街道を外れた。ぼくたちが身を隠したすぐ後ろを、追手の馬が駆け去った。
◆
その晩は、森の中で過ごさざるをえなかった。追っ手を警戒して、煙が出ないよう小さく火を焚いた。獣が近寄ってくることを避けるため、火から遠ざかった木の上に、クロエを持ち上げておいた。
逃げた後は、さてどうなるだろう。
二人の腕なら、曲をやれば多少の稼ぎになるという思いがある一方で、不安もある。ぼくたちは流れ者になろうとしているのだ。
「これは?」
寝ずの番をすると言った時、クロエはぼくに薬をくれた。目を指さして、唇を動かす。
「眠気が醒める」
ぼくは当てた。クロエは胸の前で握りこぶしを作った。
「元気も出る?」
頷く彼女の頭を撫でて、額にキスをした。
薬を二口飲み、夜が更けた頃、ぼくは笛の音を聞いた。
万霊祭で演奏される曲と同じだった。伸びやかなリズムが夜空に抜けていく。誘われるようにその方へ近づいた。クロエは、まだぐっすりと眠っている。
泉があった。
深い霧のようなものが立ち込めている。半透明の人影がたむろしていた。子供もいたし、老人もいた。農夫もいたし、鍛冶屋もいた。薬師の老婆もいた。
ぼくは、幻を見たのだろうか。
今でも、それは分からない。ぼくは呆然と泉のそばに立っていた。
聞こえてくるのは、木が風に揺れる音。何百の木が、何万という葉を揺らしている。半透明の人影が、ぼくたちに語り掛けてくるかのようだった。
「アラン?」
クロエの声で、ぼくは我に返った。周りにあるのは、ふくろうの声だけだった。夢を見ていたらしい。
焚火は消えかけている。空を見ると、夜明けも近い。どうやら恐ろしく長い間、こうやって立ち竦んでいたようだ。
どうしたの、と彼女が口の動きだけで尋ねる。
ぼくはクロエの手を握った。森を抜けると、街道に出た。朝日が道を照らしていた。夏の終わりにしては冷えた朝で、吐く息は白くなっていた。
「行こう」
ぼく達の旅は、こうして始まった。
◆
今でも、笛を吹くと思い出す。
あの夜、クロエについていかなければ、ぼくはまだ村にいたのだろうか。
クロエの薬草の知識は本物で、迷い込んだ森も、きっとそんな彼女にささやかなおまけをくれたのだ。それを信じるならば、彼女は生き残るべき、本物の魔女の末裔ということになる。
長い年月が経った今も、クロエは相変わらず無口だ。でも子供といると、よく笑う。
眠っている母子に笛で子守歌を奏でる時、決まってあの夜を思い出すのだ。
美しくも妖しい、あの祭りの夜のことを。