第二話 最悪の日
エレベーターは地下一階へとたどり着き、私は身体を引きずるゾンビのごとく女子更衣室へと入っていく。
そして、何の気なしに姿見へと視線を送った。
「うわ……最悪」
しんと静まり返った更衣室に私の声が響く。
この鏡はきっと、仕事前に自分の姿をチェックしろ、という意味で置かれているのだろう。
それなのに本来の意味から外れて、仕事終わりの自分なんか見るもんじゃない。
束ねた黒髪はぼさぼさになっていて、メイクも完全に落ちてしまっている。
白地にピンクが入った看護助手のユニフォームも最初は可愛く思えたが、いまじゃなんの魅力もない。
疲れ切った顔には覇気も潤いもなく、女らしさからは対極の位置にいるように見えた。
おかしいな。
ずっと、優しくてふわふわしている姫ちゃんに憧れて、同じように可愛くなりたい、と思っていたのに。
大人になれば、女らしくなれると思っていたのに。
一体どこでどう間違えてしまったのだろう。
着替えを終えたあとで病院を出て、頭を働かせることなく惰性のように電車とバスを乗り継ぎ、最寄りのバス停へと降り立つ。
「う、寒ッ」
ぶるりと震えて、縮こまる。
吐く息は白く、身体には突き刺すほどの冷気が襲ってくる。
一方の、近くにある小料理屋から出てきた酔っ払いたちは、何がそんなに面白いのか、大声ではしゃぎ、笑顔を浮かべていた。
悩みのなさそうな顔を羨ましく思いながら歩き、ようやく家へとたどり着いた。
靴を脱ぎ捨てて、パンパンになった足を解放させる。
流れ作業のように電気とエアコンをつけ、テレビをつけた。
チャンネルを回してもクイズ番組に、見ていない医療ドラマ、バラエティ……大して面白そうなのはやっていない。
深いため息をついて、ラグの上で横になった。
こうやってしまうと、食事も風呂もすべてが面倒になるのはわかっているけれど、仕方ない。
一日働いて、心も身体もくたくたなんだから。
「ホントひどい日……」
エビみたいに丸くなって、こぼす。
田村さんのこともそうだけど、仕事のことも、だ。
今日は一体いくつ嫌なことがあっただろう。
便をこねて汚物まみれになってしまった患者さんのベッド拭きに、昼休みが取れないほど長時間の食事介助。
レントゲンの搬送が遅すぎると技師さんからはチクリと言われ……
認知症の方には怒鳴られ、つねられ、唾を吐かれ。
ナースコールもっと出てよ、なんて丸山ナースから叱られたりもした。
それなのに安月給で、夜勤もある。
肩はこるし、肌も荒れていく一方だ。
うんざりとした気持ちで目を閉じる。
ただでさえ狭い部屋がますます狭く、出口のない監獄のように感じた。
☆★――☆★――☆★――☆★
遠くから、子どもたちの笑う声がする。
ゆっくりとまぶたを開けると、いつの間にか部屋の外は明るくなっていた。
子どもの声がするということは登校時間の朝八時くらいなのだろう。
ああ。また、やってしまった。
ファンデーションを塗ったまま、風呂にも入らず、夕食もとらず、ラグの上で寝ていた。
エアコンを付けていた過去の自分だけが、褒められたもんだ。
シフト制のこの仕事、自己管理不足でひいた風邪で休むわけにはいかない――なんて、考えて深くため息をついた。
この仕事を嫌いに思っていたはずなのに、一体どれだけ仕事脳なんだろう。
ざっとシャワーを浴びて、洗い終わった洗濯物をかごに入れベランダへと向かい、慌ててまぶたを閉じた。
夏でもないのに、目が痛むほどに太陽がまぶしい。
下をのぞくと、見知らぬおばあちゃんが散歩をしたり、子連れのお母さんが野良猫を指差して子どもに語りかけたりしている。
途端、こんな天気なのに、家にこもっているのはなんだかもったいない気がしてきた。
せっかくの休みだし、どこかへ行こう、と化粧下地を塗りたくるけれど、ふとその動きを止めた。
そういや、今月頭に春香と旅行したんだっけ。
しかも、来月には優子の結婚式もある。
貯金を考えると、ちょっと、いやかなりピンチ……。
そうして、朝食のパンをむさぼりながら、お金のかからない外出方法を三十分近くも考え、私が出した結論は”図書館で本を借りること”だった。
家を出てバスに乗り込んで揺られ、十分ほどたつと、レンガで造られた古臭い図書館が見えてきた。
ボロいわりに大きいあれが、静川町の図書館だ。
本を借りるなんてしばらくぶりで、懐かしい図書館の姿に子どもの頃のことを思い出す。
ここ静川町は少し変わっているらしく、同じ区域内に図書館と町役場となぜか町立のプラネタリウムがある。
小さい頃は、幼馴染の春香と洋介と共に、図書館で開催されるお話会に行った後、プラネタリウムにも通っていた。
けれど、プラネタリウムの方には、かれこれ十年以上行っていなかった。
バスから降りて、時折吹く風の冷たさに凍えながら、まっすぐに図書館へと向かう。
ちらと、プラネタリウム館へ視線を送ると、小さい頃はとてつもなく大きく見えたドームも、私が成長したからか、やけに小さく感じた。
「ん、なんだ。あれ」
目を凝らし、思わず声に出して呟く。
プラネタリウム館の入り口にあるガラス扉に、紙が貼ってあるのが目に入ったのだ。
急遽行き先を変えて、プラネタリウム館へと足を進めた。
ここのプラネタリウムはずいぶん昔に作られたものらしく、映し出される星空は、お世辞にもロマンチックとは言えないレベル。
おそらく星の数も何万単位なんじゃないかと思う。
それに比べていまの投影機は何百万もの星を再現できるらしく、高校生の頃に科学館のプラネタリウムを見た時の衝撃と言ったらなかった。
科学館のはドームの継ぎ目も見えないし、静川町のと比べると、星の数もドームの大きさも桁違い。
それでも私は、静川町のプラネタリウムが大好きだった。
それはきっと、ここに来れば、面白いおじいちゃん先生と優しい姫ちゃんに会えたから。
懐かしい思い出を振り返りながら歩くと、すぐに目的地へとたどり着き、まじまじと張り紙を見つめた。
「ええと……閉館のお知らせ!?」
思わず目を見開き、紙に書かれた文字を声に出す。
いつまでもあり続けると思っていたプラネタリウム館の閉館という知らせが衝撃的すぎて、立ち尽くすことしかできない。
嘘でしょ。ここが閉館……?
昨日に引き続き、今日までもが最悪な日になるなんて”神様に見離されてしまったのかもしれない”と、本気で思った。
大切な思い出がたくさん詰まっているここが、知らぬ間に閉館していたなんて、とても信じられない。
無機質な文字で伝えられたあまりにも衝撃的すぎるお知らせに、一気に力が抜けてしまい、鞄が手をすり抜けて地面へと落ちていく。
そして、寒空を駆けるように高らかな鈴の音が鳴った。
突然聞こえてきたその音に、顔を強張らせた。
最悪の更に上を行く最悪さだ。
私の持ち物で鈴がついているのは、キーケースしかない。
あのキーケースには姫ちゃんのくれた水晶のキーホルダーが付いているのに。
音が鳴ったほうを見ると、鞄から転がり出たであろう空色のキーケースがコンクリートの上にあり、ハート形をした水晶のキーホルダーがむき出しになっていた。
割れてたらどうしよう……
半泣きになり慌ててしゃがみこむと、なぜか向こうから骨ばった手が伸びてきて、キーケースを取り上げていく。
リンと鈴の音が鳴り、キーケースを掴んだその手は右に左にくるくると捻られた。
「大丈夫。傷ついてませんし、水晶も割れていませんよ。どうぞ」
差し出された謎の手と声に顔を上げていくと、そこには見知らぬ若い男の人がしゃがみこんでいて。
人懐っこく微笑んでいたのだった。