第二十三話 あの人より
タクシーの扉が開いた途端、競走馬のごとく飛び出す。
待ち合わせ場所である花倉台の南口改札前に向かって、ただひた走った。
二十二時という遅めの時間だが、明日が日曜日だからか、人は大勢いる。
息を切らしながら、酔っ払いやサラリーマン、若い男女、学生たちの間をすり抜け、大塚さんを探した。
ああ、人が多い場所はもうすぐ抜けてしまう。
さすがに、もう帰ってしまったのだろうか。
そう思いかけた時、案内板の横に立っている人が見えた。
黒のチェスターコートに色素の薄い髪、柴犬みたいなほんわかしたあの空気感は――
「大塚さん!」
気付いたら、大声で彼のことを呼んでいた。
あまりの声の大きさに驚いたのか、大塚さんはピクリと震え、私の方を見てきて安心したように笑った。
「よかった、来てくれた……」
「大塚さん、ごめんなさい」
「え?」
「連絡来てたの知ってたんです。今日が約束の日だっていうのも覚えていたんです。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
泣き出してしまいそうな声で謝り、何度も何度も頭を下げていく。
「志乃さん、大丈夫です。大丈夫ですから!」
慌てたような大塚さんの声がして、顔を上げると、私たちの方へ何人かの視線が注がれていて。
「とにかくここを出ましょう。向こうに車止めてあるんで」
大塚さんは慌てたように私の手を取ってきて、人々の視線から逃げるように駐車場の方へと足を進めた。
私の手をつかんでくる骨ばった力強い手の感触に、鼓動が強く跳ねる。
だけど、すぐに申し訳ない気持ちでいっぱいになっていった。
長い間、待たせてしまったせいで、大塚さんの手は氷のように冷たくなっていたのだ。
少し照れくさかったけれど、少しでも温かくなるように、と大塚さんの手をきゅっと包むように握る。
どうしてなんだろう。手を触っているだけなのに、すごく嬉しくて、苦しいくらいに切なくて。
ナナメ前を歩く大塚さんを見ると、さっきの視線が恥ずかしかったのか、耳がわずかに赤らんでいるように見えた。
☆★――☆★――☆★――☆★
私たちは駐車場に向かい、濃いブルーの車に乗り込む。
車内のフロントガラス前には革製の手袋が無造作に置かれていた。
恐らく、大塚さんは手袋をここに置き忘れたまま、待ち合わせ場所に向かっていたのだ。
そして、それを取りに戻ることもなく、ずっとあそこで私を待ち続けていた……
助手席に座ってうつむき、膝の上に置いた鞄をきゅっと握っていく。
改札前で謝って“大丈夫です”と言われたものの、彼の受けた寒さを考えると、心が苦しかった。
“ごめんなさい”なんて使い古された言葉じゃ、とても足りない。
やはり怒っているだろうか、と横目で視線を送る。
大塚さんはエンジンをかけて、エアコンの調整をするけれど、発車させようとする気配が一向にない。
そして、彼は大きく息を吸い、不安げな表情で視線を送って来た。
「あの……僕、志乃さんに、何をしてしまったんでしょうか? いくら考えてみても、わからなくて」
恐らく大塚さんは、私に連絡を拒否されていたことを心配していたのだろう。
「大塚さんから何かをされたわけではないんです。ちょっと衝撃的な出来事があって……」
「衝撃的な出来事、って何です?」
大塚さんは首をかしげてくるけれど“貴方の彼女に牽制されました”なんて、とてもじゃないが言いづらい。
「あとで、話します」
こうやって大塚さんに会ってしまったことを、南さんに申し訳ないと思う。
けれど、あと数時間だけ、私に大塚さんを独り占めさせてもらいたいんだ。
連絡先も全て消してしまったし、今回のが本当に最後で、大塚さんにはもう会えないから。
ちゃんと友だちのままで終わらせるから……と心の中で、言い訳と謝罪を繰り返していく。
衝撃的な出来事について説明せずに、誤魔化し笑いを浮かべる。
大塚さんは納得していなさそうだったけれど、「わかりました」とうなずいていった。
そして、私は「それに……」と言葉を続けていく。
「この間、駅で私と一緒にいた男性は同僚で、帰り道が同じだったってだけですから。恋愛感情はないです」
「あんなに格好いい人なのに?」
大塚さんは怪訝な表情をして聞いてくる。
「確かに顔はいいですけど、あの人より……」
大塚さんの方が格好いいです――なんて、言いかけて慌てて口をつぐんだ。
「あの人より?」
「……柴犬の方が私は好きです」
ぽつりとつぶやくように言う。
「柴犬!? なんで急に犬が出てくるんですか」
意味不明すぎる私の返答に、大塚さんは楽しそうに笑った。
久しぶりに見た大塚さんの笑顔に、安心すると同時に、惹きつけられてしまう。
やっぱり、私はこの人のことが好きなんだなぁ、と改めて実感して悔しくなった。
「とにかく! 田村さんは同僚以外の何者でもないですし、私はむしろあの人苦手なんです。お願いですから勘違いしないでください」
むすっとした顔で大塚さんに抗議すると、大塚さんは「そっか」と、ほっとしたように言う。
そして、力尽きたかのように長く息を吐きながら、へなへなとハンドルにもたれかかっていった。
「よかった……」
緊張から解放されたかのような声に私が首をかしげていると、大塚さんはその体勢のまま首を横に向けて私を見てきて。
柔らかいけれど、どこか力強さを感じさせる瞳に、どくんと鼓動が跳ねていったのだった。




