第一話 看護助手の憂鬱
最悪の二日間の始まりは、そう。
泣きたいくらいに忙しかった遅番業務からだった。
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「森山さん、消灯時間までごめんね。ありがと、あがって」
早足で廊下を歩きながら、辻主任が笑顔を見せてくれる。
夜勤の入りから四時間程度。
ぴしりと整えられていた主任の髪はすでに、ボロボロに崩れかかってきている。
それほど今日の夜勤は大荒れで、忙しいのだ。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。定時を一時間も過ぎてるし、さすがに悪いわ。ここまで残ってくれてありがとう」
追いかけて声をかけると、主任は振り返ってふんわりと柔らかく微笑んでくれる。
その優しげな表情に、何人の患者さんが癒され、虜になったことだろう。
主任の優しさに元気をもらい、もう少し頑張っていこうかな、とも思うけれど、結局はどこかで見切りをつけて帰らなければならない。
それに、看護助手の私が残ったところで看護師さんたちの仕事は、手伝えやしないのだ。
「すみません、お先失礼します」
結局帰る決心をしてぺこりと頭を下げ、鳴りやまないナースコールに後ろ髪引かれる思いをしながら、休憩室へと向かった。
看護師さんはたいへんだなぁ、なんて思う。
責任は重いし、知識は山ほど必要だし。
どんなに忙しくたって、一人一人の患者さんに向き合わなきゃいけない。
看護助手の私には、あんな仕事絶対にできないだろう。
くたくたになった身体を必死に動かして、電気の消えた廊下を歩く。
入職する前は、夜の病院は怖くて恐ろしい、なんて思っていたけれど、実際働き出すと何てことはない。
今だって、お化けが出る恐怖心より、さっさと帰りたい気持ちのほうがよっぽど強いくらい。
案外、薄暗い廊下も、誰もいない処置室も、気づけば慣れているものだ。
薄暗く長い廊下を歩き、ようやく休憩室の前へとたどり着く。
誰もいないはずなのに、扉から明かりが漏れているのが目に入った。
消灯時間過ぎたのに、人?
ドアノブに手をかけながら首をかしげる。
こんな時間までスタッフが残っていることは、滅多にない。
”感染委員会の仕事が終わらない”と三井さんが嘆いていたから、彼女がいるんだろうか。
かちゃりと音を立てながら、ドアノブを回す。
ぽっちゃりとした身体の三井さんが書類作成をしていると思いきや、扉の向こうにいたのは、ナースマンの田村さんだった。
「森山ちゃんってば、遅すぎー!」
ゆったりと椅子に腰かけている田村さんは、私を見た途端、嬉しそうに顔をほころばせてくる。
その笑顔が変に眩しくて、不思議と苛立ちが募る。
黒髪をワックスでおしゃれに固めている彼は、スターシエルというバンドのボーカルに似ているらしく、女性スタッフからの人気はすこぶる高い。
イケメンがいるという噂を聞きつけて、他の病棟からわざわざ覗きにくるくらいだ。
確かに顔は整っているし、センスも良くスマートで優しく、会話も上手。
人気が出るのもわかるし、いい人だとは思う。
だけど、私は彼のことが苦手だった。
気の置けないスタッフならともかく、苦手な人と話す気力なんて、これっぽっちも残っていない。
早く帰りたくて、椅子に座ることもなく一直線に棚へと向かった。
「……遅いって言われても。仕方ないじゃないですか。四十度の熱出してる緊急入院が、ご飯時に来ちゃったんですから」
森山のプレートが貼られた棚から、鞄を取り出して肩へとかける。
「メシ時とは、辻主任も可哀想に」
苦笑いをする田村さんを見て、小さくため息をついた。
「まぁ、主任だから今日の夜勤はどうにか回ってるんだと思います。それじゃ」
「ちょっと待ってよ! 俺は君を待ってたんだけど」
扉を開けようとすると、田村さんはがたりと椅子を鳴らしながら、勢いよく立ち上がった。
そんなに焦る理由が、さっぱりわからない。
「私を、待ってた?」
看護助手会議は先々週に終わっているし、食事ノートも新しいものを主任からもらった。
物品の請求だって、ちゃんと済ませたと思うんだけど。
「そう、ずっと待ってた。あのさ、森山さんって……でしょ?」
腕を組みながら考えていると、田村さんから予想外の言葉が飛んできて、思わず自分の耳を疑った。
怪訝な顔をすると、田村さんはなぜか憎たらしくほくそ笑んでくる。
”なんでもいいから、早く帰せ”と、彼から見えないように地団太を踏んだ。
そんなこととは知らない田村さんは、再び口を開いていく。
「森山さん、彼氏いないんでしょ。どうして?」
「どうして、って。別に必要性感じてないですし、いらないからです。何なんですか、突然」
「まーた、そんな風に強がっちゃって」
強がる、という言葉にむっとする。
世の中の女全てが、彼氏を望んでいるわけじゃないんだ。バカ野郎め。
このままだと、田村さんが”苦手”というくくりから”嫌い”に昇格してしまいそうだ。
「別に強がっているわけじゃ……」
苦笑いをして視線をそらす。
この人が看護師じゃなく、年上でもなく、同僚でもなかったら、完全無視して帰ったのに。
どうして今日に限って捕まってしまったんだろう。本当に面倒くさいし、最悪だ。
ふと、視線を戻すと、すぐ隣にまで田村さんがやってきていて、驚いた私はびくりと身体を震わせた。
この場をどう切り抜けるか、と思考を巡らせていたせいで気付けなかったのだろう。
田村さんは、私を見てにこりと微笑み、変に甘ったるい声を発した。
「あのさ。俺なんか、どうかな」
「は!?」
やば。イラついたせいで刺々しい声がでちゃった。
ちょっと焦ったけれど、田村さんは全く気にしていないようで、微笑みを崩さない。
それどころか、こんなことを言ってのけた。
「森山さんの彼氏だよ。俺と付き合ったら、きっと楽しいと思うんだけど」
二週間前に彼女と別れたばかりのくせして、どんな顔して言っているんだ、なんて思いながら視線を送る。
すると、そこにあったのはイエスの一言を確信しているような自信満々の顔で。
傲慢ともいえる田村さんの態度に、頭のてっぺんからつま先まで、一気に血が落ちていくのを感じる。
ああ。わかっちゃった。
私、この人のこういうところが嫌いなんだ。
ちやほやされて、自惚れて”女なんてちょろい”って思っているこの感じ。
”世界の中心は俺だ”なんて思っていそうな、あの感じ。
だから、男は――
腹の奥底から淀んだ感情が沸き上がってくるのが、自分でもわかる。
喉からそれが飛び出す前に、私は右手のこぶしをぐっと握って、笑った。
「田村さん。明日は検査入院の方が来るみたいですよ。ハリソンさんっていう外国の方」
「えぇと、森山ちゃん?」
おめでたい顔をしていた田村さんは、表情を一変させていく。
告白めいた言葉を聞き流された戸惑いからか、おろおろとうろたえだした。
それを見て、面白いと思う私はきっと、相当性格がよろしくない。
「田村さんは英語得意ですし、明日の入院は田村さんがとるみたいですよ。最近は外人さん専門ナースみたいになってますよね」
口を挟ませないように別の話題で畳みかけていくと、彼はとうとう言葉を失った。
「明日頑張ってください。それじゃ、お疲れさまでした」
ずれてきた鞄をかけ直し、にこりと笑いかけ、私は休憩室を出ていく。
田村さんを一人残して、足早にエレベーターへと乗り込んだ。
扉が閉まるアナウンスが流れ、一人ぼっちのエレベーターは動きだす。
こぼれたため息は、私と一緒に落ちていく。
二十六歳独身。
彼氏いない歴イコール年齢。
二十三歳を過ぎてから、結婚する友だちもちらほら現れはじめて、周りの子たちも焦りだしているのに。
きっと私、森山志乃は、女としておかしいんだと思う。
あれだけ人気のある人からの告白じみた言葉が、ちっとも嬉しいとは思えない。
恋人がいないことも、結婚の日が遥か遠いことも、全然気にならない。
むしろ年頃の男なんて、苦手……というか、もはや嫌いの域に達していた。
嫌でも、あの日のお父さんのことを思い出すから。
私は誰よりも男のだらしなさを知っている。
いつだって苦労するのは、女側。
泣かされるのも、女側。
恋と愛が美しいなんて幻想だし、恋愛気分を楽しみたいなら映画や本の中だけで十分。
あんな辛い思いをするくらいなら、恋なんか絶対にするもんか。