第十四話 するどい看護師たち
「森山さん。ねぇ、ちょっと、森山さんてば、聞こえてる?」
「……え、あ、すすすみません!」
私を呼んでくる声に、慌てて顔を上げて振り返る。
勢いよく振り返ったものだから、横に置いていた台車がガタンと音をたてて揺れた。
私はいま、病院の日勤中で、消毒に浸けていた吸い飲みの水洗いをしていた。
今日の病棟はベッドの埋まり具合が悪いからか、月曜とは思えないほどに穏やかだ。
勤務終了の十七時を目前にして、搬送や物品請求もすべて終えることができるなど、滅多にない。
『これを配り終えれば、仕事も上がり!』と、洗うのに集中し続けていたせいだろう。
声をかけてくる辻主任の声に、ちっとも気づけなかった。
「あらまぁ。森山さんが、ぼんやりするなんて、めずらしい」
辻主任はにこやかに微笑んでくれるけれど、慌てた姿を見られて恥ずかしくて、わずかに視線をそらしていく。
すると、主任の手が視界に入り、そこには点滴の滴下速度を調整するための、箱形をした機械、輸液ポンプがあった。
「もしかして、ポンプの返却ですか?」
「仕事終わりかけなのに、ごめんね。いまからこれ、ME室に帰してきてもらえる? 私、三階西病棟に行かなきゃいけなくなっちゃって」
「大丈夫です。すぐ行ってきますね!」
吸い飲み洗いを中断し、医療機器を扱うME室へ輸液ポンプの返却をしに向かった。
☆★――☆★――☆★――☆★
ME室へのお使いを終え、洗い終えた吸い飲みを配り終えると、時間はすでに定時の十七時を過ぎていた。
ナースステーションに人はおらず、廊下にいるスタッフは夜勤看護師だけだ。
恐らく、今日は看護師さんたちも、早く上がれたのだろう。
仕事を終えた私は、手を洗って病棟を出ていく。
休憩室に行くまでの廊下で、何人かの看護師さんとすれ違い「お疲れさま」の挨拶を交わした。
休憩室の扉を開けると、そこには辻主任と、看護師の松井さんがいた。
机の上に広がる書類の山からすると、おそらく委員会の仕事で残っているのだろう。
「お疲れさまです」
そう声をかけると、明るい松井さんは、にかっと前歯を見せて笑う。
「お疲れ! 今日みたいにのんびりな日は最高だね。それなのに私たちは……」
広がる書類を憎らしげに見た松井さんは、途端に口をとがらせ、ぐったりと机に突っ伏していった。
「松井さん。ほら、さっさとやろう。十八時には帰る、って決めたんだから」
辻主任がトントンと机を叩くと、松井さんは渋々起き上がる。
そんな二人を横目で見ながら鞄を取って帰ろうとすると、辻主任の声が後ろから聞こえた。
「森山さん、今日、寝不足? すごくぼけっとしてるけど」
「え……そんなにぼんやりしていましたか?」
振り返って首をかしげ、質問に質問で返した。
昨日は、博物館に行って歩き疲れたからか、ここ最近では一番よく眠れたと思う。
むしろ寝不足のピークは、一週間前くらい前だ。
「そうねぇ。仕事はてきぱきしてたよ。けど、洗い物の時とか、掃除の時とか流れ作業の時はすごくぼんやりしてた。うーん、なんていうのかな」
言葉を探り続けていた主任は、上手い言葉が見つかったようで、ふと顔を上げて微笑み、口を開いた。
「そう、恋でもしてるみたいな」
どくん、と強く心臓が跳ねて、目を見開いた。
恋という言葉を聞いて反射的に、大塚さんの笑う顔が浮かんでしまったのだ。
違う違う、と慌てて下を向き、ぎゅっと目を閉じて、幻を消しさった。
「いや、そんなわけないじゃないですか。集中しすぎてただけです」
そうだ、きっとそうだ。
自分の言った言葉に、自分で納得する。
大塚さんは友だちだし、私が恋をするなんて、どう考えたってあり得ない。
そんなの冗談にしたって、笑えない。
「えー森山っち、それ、本当?」
松井さんが、書類を触る手を止めて振り返り、にやにやとした顔で私を見つめてくる。
「松井さん、なんか訳知り顔じゃない。なになにどうしたの?」
主任は何だか楽しそうに机から身を乗り出し、向かいにいる松井さんに尋ねていく。
「森山っち、今朝いつもよりおしゃれしてたんです。ピアスもいつものじゃなくて、すっごく可愛いのしてたし」
「あー私わかっちゃった! 今日、デートなんでしょ? それでオシャレしてるんだ」
にやにやとした顔で聞いてくる主任に、私は「違います!」と声を荒げて首を横に振った。
途端、主任はつまらなさそうに口を尖らせていく。
そして、少し悩むしぐさを見せて、今度はこんなことを言ってきた。
「そういうことなら、じゃあ、そのピアスを昨日誰かにもらった、とか。わかるよ、すぐにつけたくなるその気持ち」
楽しげに語る二人に、ぽかんと開いた口が塞がらなくなる。
……どうしてこの二人は、こんなにも鋭いんだろうか。




