第十話 幼い日の悪夢
四十分近く電車に揺られ、ようやく私たちはたどり着いた。
観光客がやって来るほど有名な『島風区の博物館』に!
「もしかして、ここが……」
「これは、想像以上に大きいですね」
私たちは博物館の前に立ち、あまりの大きさにひるんだ。
思っていたよりも遥かに大きく、ちょっとした百貨店くらいの大きさがあるように思う。
チケットを購入し、がさがさと音を立ててパンフレットを開くと、案内図には、上は五階まで、下は三階まで書かれていた。
しかも、隣の建物で恐竜展までもやっているものだから、もしかすると閉館までに全てを回りきれないかもしれない。
そこで、全てを効率よく回るため、私たちは最上階から順に地下まで下りていくことに決めた。
早速、最上階を目指すため、足早にエレベーターへと乗り込んでいく。
到着のベルが鳴り響いて扉が開き、わくわくと高鳴る心を抑えながら五階のフロアへ降り立つ。
「すごい……」
「本物みたいだ」
室内であるにも関わらず、深い森が広がっていた。
作り物の木が鬱蒼と茂り、数えきれないほど大量に動物の剥製が展示されていて。
あまりのスケールの大きさに、言葉を無くすほどに圧倒されてしまったのだった。
☆★――☆★――☆★――☆★
島風区博物館の展示ジャンルには、生命の進化や、機械の発達、それに宇宙工学など、面白いと思えるものがたくさんあった。
展示物も、見上げるほど大きなものもあれば、顕微鏡で見るほど小さなものもあり、分かりやすいものから、分かりにくいものまであった。
そんな数々の展示に目も心も奪われ、時間も忘れて博物館にのめりこんでいく。
大塚さんにとっては退屈かな、とも思ったけれど、幸いなことに彼も楽しんでいるように見えた。
特に宇宙に関するフロア。
そこでは、大塚さんの目がキラキラと光輝いていて。
本当にプラネタリウムの仕事が好きなんだなと、尊敬してしまう。
その一方で、子どもみたいな彼の表情がなんだか可愛らしく思えて、人知れず微笑んでしまったのだった。
休憩を挟みながら広い博物館を回り続け、時間は十五時前。
早くも恐竜展を残すのみとなった。
隣の建物に続く屋外の渡り廊下を二人で歩いていると、大塚さんはネジが止まってしまったかのようにピタリと歩みを止めた。
「あの、志乃さん。一つうかがいたいことがあるんですけど……」
「はい、なんですか?」
くるりと振り返り、大塚さんのことを不思議に思いながら尋ねる。
彼の顔を見ると、なぜだか困ったような表情をしていて。
よほど聞きづらい話なのかと勘繰り、身体がわずかに固まった。
大塚さんはそんな私の緊張を察したのだろう。
こわごわとした様子で口を開いた。
「……姫ちゃん、ってどんな方なんですか?」
首をかしげながら、大塚さんを見つめた。
そんなふうに恐る恐る聞いてくる話じゃないじゃないか――
なんて思ったところで、ハッとして、目を見開く。
「どうして姫ちゃんのことを知って……」
独り言のように尋ねると、大塚さんは気まずそうに顔を強ばらせた。
「すみません。この前、なんでもノートを見ていたら発見してしまって。新野先生と並んで名前が書かれていたので、どんな方なのだろう、と、つい」
「あ、いえ、大丈夫です。別に隠すようなことじゃないですし」
申し訳ない、と視線を落とす大塚さんに言葉を返していく。
すると、大塚さんは顔を上げて、ほっとしたような表情を浮かべてきた。
姫ちゃん、か。
一体いまどこで何をしているんだろう。
懐かしい姫ちゃんのことを思い出して、空を見上げる。
柔らかく微笑むあの顔がふと浮かんで、私も同じように笑った。
「姫ちゃんは、可愛くて女らしくて、私のあこがれの人で、大事な友だちなんです」
☆★――☆★――☆★――☆★。
「女らしくて可愛い友だち、ですか?」
大塚さんは、不思議そうに尋ねてくる。
恐らく、姫ちゃんのことを“おじいちゃん先生と関わりのある大人”だと思っていたのだろう。
まぁ、そりゃそうか。
なんでもノートに、おじいちゃん先生と並列して名前を書いたわけだから。
「はい。向こうはどう思っているか知らないですけど、私はいまでも親友だって思っています。知っていたのはあだ名くらいなのに、変ですよね」
そう言って、自嘲気味に笑う。
名前と小学校名ぐらいは聞いておけばよかったと、今更悔やんでしまうけれど、もう遅い。
話しだすと長くなりそうに感じ「そこ、座りません?」と、私は恐竜展の外にあるベンチに大塚さんを誘導した。
ベンチには暖かな日差しが降り注ぎ、ごくたまに冷たい風が通り抜ける。
暖かい今日だからこそ、こうやって座っていられるが、北風が吹き荒れた三日前だったら、こうはいかなかっただろう。
私と大塚さんはベンチに腰を下ろし、私は裸になった木々をぼんやりと見つめていく。
しばし無言のままでいたけれど、大きく息を吸い、声を発した。
「大塚さん。私の父ね、不倫してたんです」
他人事のように、淡々と言い放つ。
姫ちゃんとは一見関係なさそうなカミングアウトをされても困るだろうな……なんて思いながら右隣を見ると、大塚さんは言葉を無くしたまま、目を丸くしていた。
「小学校上がったくらいでしたか。父は私のことをあまり構ってくれなくなって。でも、仕事が忙しいみたいだから仕方ないなって思っていたんです」
私が幼稚園の年長時、どうやら父は役職についたようで、帰宅も遅くなり、休みの日の出勤も数えきれないほどに増えた。
母は遅くまで起きて父の帰りを待ち、多忙な父のことを応援していたけれど、それが、あんな形で裏切られるなんて……
視線を落として、ぎゅっとこぶしを握り、再び口を開いた。
「夏休みだったその日、私は母と共に九州に住む祖母の家に泊まってたんですけど、台風が近づいているからって、一日早く帰宅することにしまして」
「はい……」
大塚さんは相槌を打ってくれるけれど、どこか気まずそうな声をしている。
無理もない。
他人の不幸話を聞いたって、面白くもなんともないだろうから。
それをわかっていてもなお、言葉を続けていった。
「キャリーケースを引いて、家に帰ると見知らぬ若い女がいました。ソファで父と抱き合い、何度もキスをしていて……」
「志乃さん……すみません。もう、いいですよ」
苦しげな声で大塚さんはそう言ってくれるけれど、私は首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。もう過去のことですから」
姫ちゃんのことを正しく話すためには、この話は避けて通れない。
それに、大塚さんから柴犬のような空気が流れているからだろうか。
友だちにさえ言いづらかった過去も、こうやってほとんど躊躇することなく話すことができる。
それが、自分でも不思議で仕方なかった。
「現場を目の当たりにした母は、わめくみたいに大声で泣いて、父を罵りました。若い女は鬼のような顔で怒り狂いました。私は、子どもながらに、いけないことが起こっているのだと分かり、立っていることしかできなかった」
ギリと歯噛みして、手のひらに爪が食い込むほど強く、こぶしを握りしめる。
全ての元凶は父で、顔を思い出すだけで今も、尋常じゃないほどの怒りがこみ上げて来てしまうのだ。
「志乃さん……」
大塚さんの声に、ふと我に返り、小さく息をついた。
「父は“妻とは、近々別れる”と不倫相手を騙していたみたいです。さらには、若い女のお腹には子どもができていたようで、事態は一瞬にして泥沼化しました。本当にクズな男ですよね」
ぼんやりと地面を見つめた私は冷えきった声をだし、あの日の父を嗤ったのだった。




