嘆きが丘
数日はだるさが抜けず、ベッドの上で過ごしていた。
食事はいつもヒースクリフが運んでくれて、信じられない程の美味しさに何度も驚かされた。
その反応を見て、彼は「少しはマシな表情をするようになったな」と満足気に頷いていた。
彼いわく、ここで最初にスープを飲んだ時の私は、生気の抜け落ちた幽霊のようだったそうだ。
口はあんまり良くないけど、ヒースクリフはやっぱり優しい。
こんなアンナを必要だと言ってくれているし、元気になっていくにつれて嬉しそうにしてくれるのが、たまらなく幸せだった。
前世から、どん底だった人生。
キャサリン女王だけが心の支えだったアンナに、新たな希望が生まれた。
いつか、彼にこの恩を返さなくてはいけない。
前世は全くもって仕事はできず、疎まれてばっかりだった自分にも、何ができるのだろうか。
ヒースクリフはアンナの目を「必要」と言ってくれたけど、どのように役立つのだか、さっぱり見当が付かない。
それに、霧の都であんなに疎まれていたあの目が、必要だなんて何の吹き回しだ。
これまで人に優しくしてくれた彼が、そんな人には見えないけど、ヒースクリフが欲しがっているのはアンナの眼球そのもので――
考えるだけで、身震いと自己嫌悪が同時に襲ってきた。
(いけない、そんな変な事考えちゃダメだわ)
光を取り戻しかけていたアンナの心には、再び不安の陰りが落ちていた。
「屋敷の部屋は余っているから、好きに使えばいい」
アンナがまともに歩けるようになった頃に、ヒースクリフにそう言い渡された。
ヒースクリフは忙しいらしく、本で一杯の部屋に篭って何かをしている事が多い。
アンナは、拒否される事が怖くって、彼が何をしているのか踏み込めずに居た。
たった一言、「普段は何をしているの?」と聞くだけでいいのに。
歩けるようになって最初にした事は、屋敷の散策だった。
そこで気づいたのは、邸内はとても広いという事。
そして、屋敷の主人は料理以外の家事はほったらかしにしていて、だだっ広い屋敷の中は埃も多く、ホールさえも積み重なった本だらけになっていた事。
汚い部屋と言ってしまえば簡単だが、本の数に圧巻されてしまった。
この世界の本は貴重品だというのに、これだけの数があるなんて――。
「アンナ。今日は村を見て回ったらどうだ」
その翌日。ヒースクリフは朝食の席でアンナに言った。
なんだか酷く疲れているようで、青い目が濁って見えるし、その下には分厚い隈で囲われている。
「え?」
村を見る、という事は知らない誰かとも会う、という事だ。
アンナの心に不安の靄が立ち込める。
「悪いが、俺はもう少し寝たい」
ヒースクリフは眉間を揉んで口元を抑え、あくびを噛み殺していた。
一体、遅くまで何をしていたんだろう。
一人で行く……不安が無いと言われたら嘘だが、いつまでもヒースクリフには頼っていられない。
もしもここで暮らすなら、人が怖いだなんて言ってられない。
だけど、もし初対面の人に拒絶されてしまったら――。
不安が頭のなかをぐるぐると巡るが、それに気づいたヒースクリフがアンナの目をじっと見つめていた。
ドキン、と胸が高鳴る。
相変わらず顔が近い。
今日は隈が酷く血の気が無いせいか、黒髪に囲われた顔に怪しい魅力が上乗せされている。
「大丈夫だ。何か嫌な事があったらあったら俺に言え。だけどまあ――一人以外はそれなりにいいヤツだ」
「一人……以外?」
気になる言葉にアンナは首を傾げる。
「まあ、アイツも人を傷つけるようなヤツじゃないから安心しろ」
そう言って、ヒースクリフは顔をほころばせた。
革手袋をした手がアンナの顔へと伸びる。
その瞬間、ドクドクと胸が高鳴り、息を飲んだ。
彼は、目に垂れた前髪を直してくれた。
「やっぱり綺麗な色だぞ」
彼は青い瞳でまっすぐ目を見て言う。
真に受けたら照れてしまうので、曖昧に微笑んでお世辞と受け取める事にした。
「……あ、ありがとうございます」
「敬語はいい」
少し恥ずかしそうに言って、彼は部屋へと帰って行った。
初めて外に出た嘆きが丘はどんよりとした曇り空だった。
びゅーびゅーと風が鳴り、ムーアと呼ばれる独特な荒れ地に絨毯のように敷かれた赤紫のヒースと呼ばれる植物が不気味に揺れている。
アンナは少しの恐怖を覚えながらも、高台へと進んでいく。
思ったより冷える。
ヒースクリフにすすめられた肩掛けを持って来てよかった。
ふと、来た道を振り返った。遠くに聳える屋敷は、レンガ造りで意匠の凝ったニ階建。
実家の邸宅や、公爵家の所有していたマナーハウス程大きくはないにしろ、それでも充分立派だ。
屋敷から少し離れた村は、下り坂の間にぽつぽつと小さな家が置かれている。
村から少し外れた所にあるのは教会だ。この世界では精霊の光を示す十字架のシンボルが屋根の上に掛かっている。
村――。誰か、人が住んでいる。そう思うと足がすくんで、たまらずに走って引き返した。
屋敷の裏手は雑木林になっていた。
結局、アンナは人が居ない場所の方が落ち着くみたいだ。
「あれは……温室?」
遠くにガラスでできた小屋が見える。
何かを育てているらしい。
なんだかどっと疲れた。
ぼこぼことした地形のせいで、坂道を下ったり降りたりを繰り返していたので無理もない。
アンナは切り株に腰掛けて息を整える。
「客人ですか」
声がした。男性の声。
どこからともなく聞こえたその声に、アンナは驚き、慌てて立ち上がって後ずさる。
――誰かが居たなんて!
すると、すぐ側の木から白い影が降って来た。
ワイシャツを着た長身のすらっとした男性だ。
息を呑むような金髪はゆるくウェーブを描いており、目は深みのあるブラウン。
まるで絵本の中の王子様のような美しさに、アンナは思わず呼吸が止まりかけた。
ヒースリフのそれとはまた違った美しさだ。
大きく胸を開き、白い肌を見せたシャツには十字架が掛っており、手には聖書。
この国では、精霊神を信仰していて、精霊神の教えが書かれている分厚い聖書が存在する。
信仰に厚いのだろうか。その割には格好がだらしない。
だけど、その着崩した白いシャツ姿に漂う色気に当てられてしまいそうで、アンナは思わず目を逸らした。
まだ時間は昼。
こんな時間にこんな美青年が一体何をしているんだ。
アンナの座っていた切り株に優雅な動作で聖書を置く、しなやかな体に筋肉も付いているようで、そのシルエットも余りに美しい。
アンナが言葉を失っていると、謎の美青年がアンナをまじまじと見つめ、すっと微笑んだ。
なんて美しい。
常識を越えたその美貌に、頭のなかに混乱が生まれる。
彼は、形の良い薄ピンクの唇をすっと開く。
「――なんて美しい」
一瞬、アンナの思考が停止した。
もしかして、心を読まれていた?
だって、じろじろ見てしまったから。
アンナは恥ずかしくなって急激に顔に血が登っていくのを感じる。
青年は、美しくほほ笑みながら、アンナへと手を伸ばし、しなやかな指の先を頬にそっと触れる。
ドクンと心臓が大きく跳ねて、アンナは思わず後ずさった。