「お前が必要だ」
「あ、あの……ここはどちらの領地なんですか?」
アンナは慌てて話題を変える。
本当は最初の質問で聞きたかったのだが、ヒースクリフには「俺の家」と言われてしまった。
「ヒースクリフ伯領――まあ、他所から来た奴らには“嘆きが丘”って言った方が有名だろ」
嘆きが丘――!
アンナも知っている。
王国の、幽霊領主が治めていると噂される荒れ地だ。
まさか、人が住んで居たなんて夢にも思わなかった。
「その顔じゃ、知ってるみたいだな――」
ヒースクリフは大真面目な顔で言う。
「俺はその領主だ」
「え、あなたが?!」
アンナは思わず高い声が出た。
それじゃあ、ヒースクリフは伯爵――。
いえ、それ以上に、嘆きが丘の領主は幽霊だったはず。
じゃあ、ヒースクリフは幽霊で、私ももしかして――幽霊?
ヒースクリフは言いたい事を察したのか、青い瞳を僅かに細め、右の口端だけを釣り上げる。
笑っている――?
「……そうだ。噂の通り、俺たちは死んでいる。もちろんお前も」
「え……あっ……」
やっぱりそうなのか。
あの一角獣が見せた夢は、そういう事だったのか。
アンナは体の力が抜け、頭の中が真っ白に塗られていく。
何も言えずに居ると、ヒースクリフは眉間に皺を寄せて神妙な顔つきをする。
「嘘に決まってるだろ」
「へ?」
アンナは口をポカンと開けていた。
「驚いたか?」
ヒースクリフは、また片方だけ口の端を釣り上げる。
この表情って――もしかして、笑ってる?
この人、うまく笑えないんだ。
なぜだか、アンナの胸が高鳴る。
あれ、なんか変な感じ――これって一体なんだろう。
「もう!」
心に残った疑問をごまかすために、怒ったように頬を膨らませた。
ヒースクリフは眉を下げて少年のように歯を見せた。
あ――笑った。
彼の笑顔は少年の名残がある。
すごく――優しげな顔。
またアンナの胸がまたひとつ高鳴る。
「まあ、荒れ地なのは本当だけど、良い土地だ。住んでみればわかる」
「住む――?」
住む――
確かに、アンナは冤罪を着せられたため、霧の都には戻れない。
ならば、確かに新しい土地でやり直すしかない。
ここに住めるの?
だから、ヒースクリフの放った単語に思考が巡ってうまく言葉で表せない。
考えこむと黙ってしまうのだ。
昔から、アンアにはそんな癖があった。
「なんだ、アンナはここに住まないのか」
「住んでも――いいの? 私が住むの、嫌じゃないんですか……」
「何言ってるんだ。もちろん歓迎するに決まってるだろ」
歓迎――。
そんな事、初めて言われた。
アンナは前世から、いつだって邪魔者だった。
誰にも存在を認められないまま生きてきた。
それなのに、目の前の青年はそんな素振りをひとつ見せない。
だけど――
アンナは目の前の彼を騙している気がしてひどく心が落ち着かなかった。
アンナの目には異常がある。
自分は出来損ないなのだ。
それを黙っていれば損は無いだろう。
だが、目の前の、不器用そうだけども優しい青年を騙すなんて事、できっこない。
「あ、あの……」
「今度はなんだ」
「……わ、私の目、変なんです……」
喉を引き絞るようにしてなんとか声を出す。
ドキドキと、嫌な鼓動が鼓膜を突いた。
「変?」
ヒースクリフはきょとんとして、アンナの目を覗き込む。
澄んだブルーの瞳がぐっと近づき、視界に映る。
どうしよう、顔が近い!
アンナの胸が今度は別の意味でドキドキしてしまう。
彼のしばしばと瞬きするまつ毛の長さに、アンナは思わず息を呑む。
「変? どこがだ。綺麗なグリーンでいい色じゃないか」
「あ、あ、あのっ」
歴代の王妃の瞳の色はグレーだった。
アンナのグリーンの瞳は、周りから褒められた事など一度もなかった。
――綺麗なグリーン
――いい色じゃないか
今まで言われた事のない言葉に、アンナは茹でたみたいに真っ赤になってしまい、言葉がうまく紡げない。
「げ、だから何で照れるんだ、お前……」
ヒースクリフは女性の涙には慣れている癖に、照れる女性は不慣れらしい。
「だ、だって――顔……近いから――」
煙が出そうな程、顔が熱い。
――綺麗なグリーン
――いい色じゃないか
ヒースクリフの言葉が頭のなかでぐるぐると巡る。
見られたくなくって俯くと余計に顔が熱を上げていくような気がした。
「で、その目のどこが変なんだ」
「えっと……変な光が見えるんです。例えば――あの戸棚にはブルーの細かい光がチラついて……」
その時、ヒースクリフの動きが一瞬止まった。
そして、噛みつかんばかりの勢いでアンナへと迫り、その手を取って食い気味に迫る。
やっぱり顔が近い。
思わずアンナは顔を背けた。
「それで、他にはどんな光が見える」
「空気にチラチラしてるのは色がなくって――暖炉の側には、赤い光が。床板の近くはグリーンの光で――」
なんだかおかしい。
今までは視界をちらつく光ばかりで、色なんて判別できる物が殆ど無かったのに。
アンナをよそに、ヒースクリフの澄んだブルーの目がキラキラと輝きを増していく。
「凄い、凄いぞアンナ。まさか――持ち主が、探す前に来てくれるなんて!」
ヒースクリフは今までとは全く違った様子で一気にまくし立てる。
その様子に、アンナは付いて行く事ができなかった。
「邪魔どころか大歓迎だ。お前の目は素晴らしい目だ。俺達を救ってくれる、特別な目――」
「へ……」
嬉しそうに微笑むヒースクリフに、アンナの心臓がトクントクンと音を立てる。
そう思えば、形容しがたい気持ちになって、彼の目を見る事ができなくなってしまった。
「――アンナ。俺はお前が必要だ」
「なっ!!」
そんな言葉はアンナには刺激が強すぎる。
ボッと顔が燃え上がるような心地がした。
「だ、だから何で照れるんだ、お前は」
「べべべ、別にちがっ、ごご、ごめんなさい!」
こんなにこそばゆいのは耐えられないので、咄嗟に話題を変える事にした。
「と、と、ところで! スープ、すっごく美味しかったです。ここのコックさんはとても腕がいいんですね!」
「ああ、それを作ったのは俺だ」
ヒースクリフがにべもなく言った言葉に、アンナは面食らって言葉が出なかった。
彼はヒースクリフ伯領主。伯爵のはず。
この世界では、貴族が厨房に立つなんて話、聞いたことがない。
女性ですらないのに、男性が。そんなばかな。
「この屋敷には客人以外、俺しか住んでいないからな」
僅かに口端を上げたヒースクリフは、どこか淋しげだった。
それにしても――ヒースクリフが出してくれたスープには、コショウの味がした。
コショウはこの国では命がけで海を渡らないと手に入らないような貴重品で、貴族どころか王族ですら滅多に口にできない。
それが、身元も分からないような客人にパッと振る舞えるなんて。
この嘆きが丘には、未だ謎が多い。