ヒースクリフ
アンナは飛び起きた。
生まれ変わる前の記憶だ。それも、最期の瞬間の。ひどく嫌な夢だった。
どくどくと背中から嫌な汗が背中を伝う。
だが、アンナは塔の中のような粗末な寝台とは違った感触に気づく。
大きなベッドだ。
実家のお屋敷にあるベッドにも引けをとらない程心地よい。
アンナは気づいた。
――ここは「哀れみの塔」ではない。
では、あの一角獣に乗った夢は――現実?
アンナはわけがわからなくなった。
あの塔から脱出できたなんて。信じられない。では、ここはどこなのだ。
霧の都なのか、それとも別の国なのか、違った世界なのか。
それとも――死後の世界なのか。
辺りを見回す。
高価な調度品の数々が幾つも目についた。
だけど、その多くが埃をかぶっている。
「ようやく目を醒ましたか」
カツカツと靴音が鳴った後に低い声がした。
「あなたがここの主で――」
アンナが言い終える前に、靴音の主の姿が目に入った瞬間、息を呑んだ。
首元で結わえた黒髪。黒い外套を纏った姿は鴉を思わせた。
王国では、黒は喪服の色とされていてあまり好まれていない。
びっしりと長いまつ毛に囲われた大きく澄んだ瞳はサファイアのようなブルー。
上背こそあるが、どこか少年の名残を残している。
きっと、アンナと大きく年の変わらない青年だ。
青年は、眉を寄せむっつりと口を結び、ずかずかとアンナへと近寄ってくる。
だけど、アンナを驚かせたのはその異様な風貌ではない――
(似てる……)
幼い頃、彼女が森の中で助けた少年に、よく似てたのだ。
エドワードにいじめられた時、家族に無視をされた時、メイド達に陰口を囁いた時。
アンナが逃げ出した先で助けを求めた、想像上の成長した少年に、恐ろしい程似ていたのだ。
だけど、その事をいきなり指摘するのは失礼だと思う。
(あくまで想像だったし――)
アンナは一度それを胸にしまい、黒髪の青年に別の質問を投げかけた。
「あの、ここはどこでしょう……」
「俺の家だ」
青年は短く答えてベッドの側にある椅子に腰掛ける。
手に持った銀色の盆には一皿のスープと匙が載せられている。
「これ」
そして盆を、ぶっきらぼうな仕草でアンナの方へと差し出した。
「えっと……」
「わからないのか。食え。ほら」
黒髪の青年は口が良くないらしい。
アンナは少し怖くなって、恐る恐る盆に手を伸ばして盆を膝の上に載せ、ちらちらと青年を横目に見ながらゆっくりと匙を口に運んだ。
腕が、ゼンマイが切れたかのように動かない。体もひどく怠かった。
どれくらいの間、こうして眠っていたのだろうか。
あの一角獣は現実だったのか、それとも夢だったのか――
現実ならば、一体ここはどこなのか――
彼は、何者なのか――
スープは澄んだ色で、野菜を煮込んだ物だった。
薄味という程ではないが、塩味が抑えられていて上品な味が口の中にじんわりと広がる。
「おいしい」
思わず感想が漏れた。
懐かしい味。前世、クラスメイトの誕生会で食べたポトフの味だ。
――結局、クラスメイトの女子全員が呼ばれただけで、誰にも口を聞いてもらえずに寂しい思い出だけが残ってしまったが。
そして何より独特の刺激が鼻を抜ける。
もしかしてこれって――
頭を巡る様々な思いに胸が苦しくなって、食べるのは時間が掛った。
だが、必死に匙を口に運び続けどうにか食べ切る事ができた。
おいしい。おいしい。だからこそ、悲しくなる。
この味は、ずっと暮らしていた屋敷のコックが作る物とは全然違う。
「旨いだろ?」
青年は僅かに口端を上げて鼻を鳴らす。
転生して以来、こういった美味しい食事にありつける事は珍しかった。
この屋敷のコックはこの世界では相当の腕前だ。
「はい……とっても美味しいです」
「旨いならもっと笑え」
そんな怖い表情で恐喝っぽく言われてもいまいちピンと来ないが、アンナは口元に力を入れる。
「なんだその顔、ふざけてるのか」
「っ……すいません」
アンナは思わず肩をすくめる。
彼もエドワードのようにアンナを罵るのだろうか。
だけど、それも仕方ないのかもしれない。
なぜなら、ずっと嫌われていたから。
女王は「あなたは愛されるべき」と言ったものの、彼女なりの気休めだったのだろう。
「っ……すまない」
眉間の皺をほどいて目を丸くした青年の指が、アンナの頬に触れる。
黒皮の使い古された手袋だ。
「泣かせるつもりはなかった――その――悪かった……」
頬に触れて涙を拭う。
どうやらアンナは泣いてしまっていたらしい。
エドワードは一度だってアンナの涙を拭った事なんてなかったのに、青年は初対面の人の涙を拭ってくれるなんて――。
意外といい人なのかもしれない。
「いえ、そんな……私、泣くつもりなんて――ごめんなさい」
「いや、いい。好きなだけ泣けばいい」
「……すいません」
「気にするな。ここに来たばかりのヤツらは皆そうだ」
そうは言ってくれてるけど、知りあったばかりの人の前で泣くなんて――。
「女が泣くのを見ているのは無粋だな……目を閉じているから好きに泣け」
青年は、眉間を揉みながら目を閉じて椅子の背もたれに体を預けていた。
やっぱり、森で会った少年に似ている――気がする。
「あの――」
アンナは気まずい沈黙に耐えられなくなって、青年に声を掛けた。
青年には申し訳ないが、一人になりたいとは思えない。
今ここでなんだか分からない土地に一人になるのは心細い。
「何だ」
青年は、ぱっちりと青い目を開く。
黒と青ばかりが目立っていたが、肌も陶器のように白く美しい。
まるで作り物のようで、アンナはハッと息を呑んだ。
「あ、あの。泣くのはもう終わりにしますから、その――少し、お話をさせてください」
「話か。構わん」
懐かしい少年とよく似た青年の容姿が、アンナを行動的にさせていた。
見ず知らずとの男性の会話なんて一番苦手のはずなのに。
「まずは――お名前を教えてください。あ、あのっ、私はアンナと言います。アンナ・レリ――」
ファミリーネームを名乗ろうとして、アンナの声は尻窄みになっていく。
実家からは勘当されたも同然だった。もう、アンナはただのアンナなのだ。
「っ、今は……ただのアンナです」
青年はそうか、と短く答えて胸に革手袋をした手を当てる。
「俺はヒースクリフ。お前と同じ、ただのヒースクリフ」
ヒースクリフはアンナに向けて手を伸ばす。
アンナも手を差し出すと、その手を力強く握られる。
アンナも握り返し、二人は固く握手を交わした。
彼はアンナを拒もうとしていない。
確かに口は良くないし、仕草は荒削りではあるが――きっと彼は優しい。
手袋越しに、ヒースクリフの温かみ伝わってきた気がする。
「ヒースクリフさん」
「ヒースクリフで良い」
「え」
アンナはそう言われて赤面してしまう。
前世も含め、男性を呼び捨てで呼ぶなんて一度も無かったからだ。
「えっと……あの……」
「ヒースクリフ」、と口の中で練習する。
それだけでみるみる顔が熱くなっていくのがわかる。
心臓がトクントクンと音を立てて、頭の中が混乱を始めた。
「っ?! な、なぜ照れるんだ」
ヒースクリフは慌てて飛び退いた。
白い頬がインクをにじませたように赤く染まっている。
「い、いえ。そ、そ、そういうの、あまり慣れないので……スイマセン」
「へへへ、変に照れるなら慣れるまでは好きにしろ」
ヒースクリフはぶっきらぼうに言って、ぷいっとそっぽを向けた。
怒っているのかと思って不安になったけど、耳を真っ赤にしているのが見えた。
同じように照れているみたいだった。
きっと、彼も人馴れしていないタイプなんだと思う。少し安心した。