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キャサリン女王

幽閉されて数日が経った。


外からは雨が地面を打つ音が聞こえる。

アンナは空虚な瞳で壁を眺めていた。


涙は枯れた。今は何も残っていない。

そう、何も。


陽の差さない部屋では今が昼なのか、夜なのかがわからない。

夢なのか、現実なのかも分からない。



目を閉じると森の中に居た。

これは――幼い頃の記憶だ。

エドワードとの婚約の決まっていなかった頃のこと。


今になってあの日を思い出すのはきっと、それがアンナにとって支えとなっている記憶だから。


前世でも愛されず、今世でも出来損ないと噂され、幼いころから肩身の狭い思いばかりしてきたアンナは、時々森に逃げ出してはひっそりと泣いていた。


「……どうしたの」


今にも消え入りそうな声に、幼いアンナは顔を上げる。

声の主は、澄んだサファイアのような瞳を持つ、黒髪の少年だった。

年の頃はアンナと同じ位。


だが、体中が傷だらけで擦り切れた服には血が滲んでいる。


「……あなたこそ、どうしたの……」


幼いアンナは泣くのをやめて、少年へと近寄る。

ひどい怪我だ。


多分、ここに逃げてきたんだろう。

息も荒く、ヒューヒューと空気が漏れるような音がしている。


「待ってて。すぐに手当するから」


アンナは屋敷へとかけ出した。

桶の中に傷口を拭く布と、果実を持ち、また早足で駆けていく。

その時ばかりは、彼女が屋敷の者達に無関心だった事が幸いして、奇妙な行動を見咎められる事はなかった。


アンナは少年の傷を拭いてやる。

それにしても不思議な傷だ。随分と深い。まるで鞭で叩かれたような――


これってもしかして――拷問の跡?


アンナは息を飲み込んだ。

どうしてこんな小さな子どもにこんな酷い事を。


少年の左手の甲には薔薇の紋章の焼き印が押されている。

前世では当たり前だった、この鴉のような黒髪も、この世界ではひどく珍しい。

心当たりがあるのは、先代女王くらいで――。


一体、彼は何者なのかしら――。


傷を拭き終わった後、男の子は夢中で食べ物にかぶりつき、全てを平らげ。


「ありがとう」


綺麗な青い目を細めて、確かにそう言った。


――ありがとう


その言葉に、空虚な心が満たされていった。

アンナがこうして誰かに必要とされ、感謝されたのは、きっとこの一度きりだったから。



翌日もアンナは森に向かったが、男の子の姿は既に無かった。


きっと、彼はまたどこかに逃げてしまったのだろう――。



――ンナ。


――アンナ。


名前を呼ばれ、体を揺さぶられている事に気づき、アンナの意識が覚醒する。

どうやら夢を見ていたようだ。


「――」


ぼやけた視界には、鍵束を持ち、フードを目深に被った誰かの姿が映る。

焦点が合っていくにつれて、白く細い顎が見え、それが女性なのだとぼんやりと認識する。


「アンナ――ああ! 私のかわいいアンナ」


次の瞬間、アンナは強い力で抱き寄せられた。

ぬくもりを忘れかけて冷えきった体にじんわりと熱が伝わり、血塗られた塔には似合わない薔薇の香りが鼻をくすぐる。


女性は、アンナから離れると、ゆっくりとフードを外し、優雅に微笑んだ。


「――女王」


見間違えるはずなんてない。

フードの女性は、キャサリン女王だったのだ。


「ごめんなさい……アンナ。あなたを助けられなくって――」

「っ」

「私、知っているの。貴女が無実の罪を着せられた事を」


女王は、青い瞳に涙を浮かべ、アンナの手を取り無念そうに眉間に皺を寄せる。

見窄らしい服を着ているが、それが彼女をまとっている雰囲気をより高尚な物に見せ、その気品は一つも失われてない。


アンナの頭は理解が追いつかない。

なぜ、女王がお忍びでこんな所に。こんな事は、普通ならば絶対にありえない。

それに、女王様が私に謝っているなんて、私なんかに――!


「アンナ。あなたは、私にとって本当に大切な子――人の痛みをよく知るあなたならば、エドワードのような愚弟の手綱を握れると、あなたに無理を押し付けてしまった――」


光を失っていたアンナの瞳に、どんどん希望が募っていく。

誰にも愛されなかったと思っていた。

だけど、この人だけは、国民の誰もが「愛されたい」と願う彼女が、私を「大切」と言ってくれた。

私は、愛されていた――


アンナはゴクリと唾を飲み込む。


「あ……」


喉が張り付いて、うまく言葉が出せない。


「大丈夫。大丈夫よ」


女王は再びアンナの背に腕を回す。

まるで母の腕の中に居るような安心感に、悲しくなんてないはずなのに、熱い涙がとめどなく流れた。

涙を流す度に、失っていた色が、ひとつひとつ蘇っていく。

これから孤独に死へと向かう運命。

この人の愛されあれば、きっと生きていける――


「……私っ……女王様に愛されていたならば、もう他の愛なんて要りません――」

「いいえアンナ。あなたは慎み深く優しい子。本当はもっとたくさんの人に愛され、幸せとなるべきなのです」


女王の声は穏やかで、柔らかで。

こんなにも高貴な方になんてひどい顔を見せてしまっているんだろうと思うものの、アンナは泣き止む事ができない。

それどころか、子供のようにしゃくりあげながら、アンナは彼女の胸に顔を埋めた。


「そんな事ない! 私は……っ……これからなんてないのです。……このまま死んでっしまうっ、あああ」


声にならない嗚咽が漏れる。みっともないわめき声にを上げるも、女王は不快な素振りを見せるどころか、自分の事のように悲しみの表情を見せてアンナをより強く抱きしめた。


どれだけ泣きじゃくっただろう。

それでも女王は安らかな笑みを湛えてアンナの頭を優しくなでてくれた。


「アンナ――大丈夫。あなたは生きるの。あなたは私が必ず助けるわ」


女王が何かを囁いた気がした。だけど、アンナはとめどなく溢れる涙と安堵でそれどころではなかった。


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