壁際の
翌日から、アンナは本格的に掃除を始めた。
ヒースクリフから、屋敷にモップのような器具がある事を教えてもらい、それを使って床を綺麗にしている。
昨日は部屋の中だけに限っていたが、今日からは丁度品の埃を落としたり、廊下に出て掃き掃除をするとも決めている。
もちろん、ヒースクリフにもきちんと相談した。
エドワードに意見をするのとは違って、ヒースクリフには自然と言葉が出てくる。
(それなのに、どうしてあの言葉を伝えられなかったのかしら)
「好きだよ」、と心のなかで繰り返す度に、胸の中で鈍い痛みがじんわりと広がっていく。
辛くなんてないのに、なぜか胸がドキドキして息をするのが苦しくなる。
(こんな風になった事なんてなかったのに……)
前世だって、こんな気持ちを経験した事がなかった。
アンナは、誰かと一緒に時間を共有する事自体がほとんど未経験なのだ。
一体、自分はどうしてしまったのだろう。
あえて似ていると言えば――
無念の度に「愛されたい」と願った瞬間に、胸がきゅっと締め付けられる、あの瞬間だ。
あの瞬間に、少しだけ似ている。
だけど、それとは何かが違う。
その違いすらもよく分からない。
(一体どうしちゃったのかしら……)
そう思いつつも、アンナは慎重に壺をどけて台座に雑巾をかける。
時間はあるのだ。壊してしまってヒースクリフが悲しんでしまったらいけない。
ゆっくりと、確実に仕事をこなそう。
考えてみると、前世のアンナはそんな考えが無かった。
じっくりと考える余裕が無かったのだ。
自分は仕事の効率が悪いから、無理してでも頑張ろうと考えて、ひどく焦って失敗してしまう事が多かった。
そして、余裕をなくして、更に失敗を重ねてしまい、会社からつまみ出される。
その繰り返しをしていたのだ。
アンナは、今までの苦い失敗を思い出して唇を噛んだ。
だが、生きているうちに気づく事ができたのだ。それで良いではないか。
彼女には、今の生活がある。
エドワードや家族など、霧の都に未練は無い。
だが、一人だけ、ただ一人だけはもう一度会いたいと願わずにいられない。
(きっと女王様、私が居なくなってしまって心配しているわ)
そう、キャサリン女王だ。
唯一、嫌われ者のアンナを心から心配してくれた、心優しい女性。
できるならアンナは彼女にもう一度会って、自分が無事で穏やかな日々を送っている事を伝えたかった。
ヒースクリフがとても良くしてくれている事を伝えたかった――。
「ああ、姫君。ご機嫌はいかがですか」
と、聞き覚えのある声にアンナは顔を上げる。
アラミスだった。
彼は、この間と同じように、白いシャツをばっくりと開いた胸に十字架を揺らし、美しすぎる笑顔をアンナに向ける。
綺麗になった床と相まって、余りのまばゆさにアンナは居心地の悪さを感じて目を逸らす。
アラミスのこの容姿は、綺麗すぎて心臓に悪い。
それに、彼にドキドキする事は、ヒースクリフに悪い事をしている気がしてならないのだ。
(だけど、どうしてそんな事を思うのかしら……)
アンナがどう思おうと、ヒースクリフには関係無いはずなのに。
「こんな可憐な女の子を働かせているんですか? 僕の弟子は何て甲斐性なしなのでしょう」
彼は大げさな仕草で両手を広げた。
またそんな事を……。アンナは顔を赤くしてうつむく。
アラミスは顔だけではなく、言動も心臓に悪い。
「あ、あの。ヒースクリフに会いに来られたんでしょうか――彼なら」
「いえ」
アラミスは急に真面目な顔をして黙りこみ、アンナの瞳をじっと見つめる。
アンナはその美しさに恐怖を感じてじりじりと後ずさる。
ぺたりと背中に冷たい物が当たり、それが壁だと気づく。
横に逃げようと思った時、アラミスがドンと壁に手を突いてその道が閉ざされる。
「僕は美しい姫君と仲良くしたくなったんです」
甘い囁き声。
まただ。
息を吹きかけるようなその声を聴く度にクラクラして、へなへなと腰の力が抜けていく。
「は、はい…………?」
ばくばくと心臓が音を立てて、どんどん顔に熱が集まっていく。
アラミスのしなやかな指がアンナの髪を絡め、金色のまつ毛を伏せてゆっくりと唇を近づける。
「何やってんだ、このナマグサ坊主!」
と、ここで背後に忍び寄った黒い影。
その体にはふつふつと怒りのオーラが湧き上がっているように見えた。
「……ヒースクリフ!」
そう、ヒースクリフ。
頭に青筋を浮かべて顔を真赤に染めた彼が、アラミスに襲いかからんとしていた!
アンナは涙目になりながらヒースクリフの姿をじっととらえた。
ヒースクリフがつま先を蹴ってアラミスに飛びかかる。
「おっと、危ないですね」
「なっ」
アラミスはアンナの髪を手放して、ひょいと躱すと、勢い余ったヒースクリフはアンナへと一直線に向かう。
彼は慌てて壁に手をついて事無きを得た。
危ないところだった、と言わんばかりにぜーぜーと息をするヒースクリフだが、正面を見て体が固まった。
それに合わせて、アンナも動きを止めた。
(ど、どうしよう……!)
アンナの鼻先には、余りに近すぎてぼやけてしまったヒースクリフの澄んだブルー。
鼻と鼻がぶつかってしまいそうな程近い。
吹きかかる息が、産毛を揺らす。
距離が近すぎる!
アンナの息は止まってしまった。
心臓のバクバクが止む気配がない。
アラミスが同じように近づいた時の比ではない。
ばくばくと心臓がうるさく鳴り、カアッと目に熱が篭もり、耳がじんじんとする。
ヒースクリフも顔を真赤にして、煙が出てしまいそうな程顔を真っ赤にしていた。
「全く、見せつけるのはいいですけど僕がいるのを忘れていませんか?」
アラミスがやれやれと言わんばかりに放った台詞を合図に、二人はさっと離れる。
アンナは、潜水から顔を出したように、止めていた息を吐き、何度もぜーぜーと呼吸をした。
心臓のバクバクは止む気配が無い。
「見せつける?! お前のせいだろ」
ヒースクリフはカンカンに怒っている。
自分よりも背の高いアラミスにぐっと近より、悔しそうに顔を上げていた。
背筋をピンと伸ばして少しでも目線の高さを揃えようとしている所が、彼のコンプレックスを物語っている。
決してヒースクリフが小柄という訳ではないのだが、アラミスの身長がとても高いのだ。
「僕に感謝をするどころかこの生意気な態度。ああ、君にはまだまだ修行が必要みたいですね」
そう言ってアラミスは大げさにため息をつき、ヒースクリフの額に指をあてがう。
その瞬間、ヒースクリフは後ろによろめき、尻もちをついた。
(あれ)
気のせいだろうか。アラミスの指先に緑色の光が集まって、弾けて散った気がする。
その時、アラミスと目が合った。
彼は、すっと微笑んでウィンクをする。
アンナはまた、ヒースクリフに罪悪感に似たような感情を覚え、心がざわめきを覚えた。
「くっそー」
よっぽど悔しかったのか、ヒースクリフは顔を歪めて拳で床を叩いていた。
「こちらは姫君が顔が映るほど綺麗に磨いてくれた床ですよ。そこに座れる事に感謝しなさい」
「お前っ…………くそ、いつか絶対倒す!」
転んでもただじゃ起きないヒースクリフの事だから、打倒アラミスに向けて更に努力するに違いない。




