あなたの笑顔は
「私、これからもヒースクリフのおいしい料理が食べたいな」
不思議と、つっかえることも恥ずかしがることもなく自然に言えた。
それが嬉しくって、心に安堵がじわじわと広がる。
だけど、ヒースクリフは澄んだブルー瞳を見開いて、狐につままれたような顔をしていた。
理由がわからなくって、アンナは首を傾げた。
「お前、笑えるんだな……」
「へ」
アンナは自分の頬を触ってみる。確かにつり上がっている。
笑った――。
ヒースクリフが言ってくれなければ、自分で気づく事なんて絶対できなかった。
笑うなんて、久しぶりだ。
前世から泣いているか、泣くことを我慢するばかりだったから。
「……マリーおばさんは、旨い料理は人を笑わせるって言っていた」
ヒースクリフは革手袋をはめた手を顎にあてがい思案顔で言う。
「よくわからなかったが、こういう事なのか」
そして――
「悪くない」
彼も、ふっとこちらを振り向き、少年の名残を残した顔で微笑みかけたのだ。
その屈託の無い笑顔に、アンナの心臓が大きく脈打つ。
「あ……」
言葉がうまく紡げない。
エドワードに詰られて返答に窮してしまうのとは、感覚が全然違った。
困ってしまうには変わらないのだが、全然悲しくなんてない。
それどころか、ヒースクリフのあの笑顔が頭から離れなくなって、ぼうっと、どこか夢見心地に近い感覚を抱いてしまう。
「あ、あのっ」
アンナは話題を変えようと、自分の思っていた事をどうにか声に出して絞り出す。
「私も、ヒースクリフの力になりたい……その……お料理作ってくれてるし、私も……何にもしていないだけじゃ、嫌だから……」
言葉が尻窄みになって、なぜだか恥ずかしくなって顔が燃えるように熱くなった。
「っ……」
ヒースクリフは何かに気づいたように眉間に皺を寄せ、アンナの顔をまじまじと見つめた。
「アンナも――仕事をしたかったのか」
アンナは頷く。
ヒースクリフは草の上に寝転び、「そうか」とつぶやいた。
「気づかなかったアンナも一緒だったんだなんて」
ヒースクリフは口端を上げて不器用に笑っている。
土と草の香りが心を落ち着かせる。
普段ならばそんな大胆な事は言えない。
貴族にとって、男女が手を取る機会なんて限られている。だけど、こうしてヒースクリフの手に触れていたかった。
「私も一緒だよ……ヒースクリフの事、分かってあげられずにごめんなさい」
「似たもの同士なんだな、俺たち」
アンナは笑顔を作るように努めた。
それを見たヒースクリフは眉を潜める。
「何だ、その顔。笑ってるつもりか」
「え」
アンナは頬をぺたぺたと触ってみる。
さっきと変わらない気もするけど――こればかりは他人の目がないと分からない。
「いいか、笑うっていうのはこういう風にだな」
ヒースクリフはそう言って口端を上げた。
(それ、笑顔のつもりだったんだ……)
その時、彼が今までアンナに散々見せてきた不自然な表情は、笑顔だったのだと初めて気がついた。
アンナはおかしくなって、クスクスと声が漏れてしまう。
「な、おま、何でそこで笑うんだ!」
ヒースクリフは顔を赤くしてアンナの顔に手を伸ばした。
彼の手が、手袋越しにアンナの肌に触れる。
(手、意外と大きいんだ……)
ドキン、と。胸が一際大きく高鳴った。
「あ……」
アンナは口を噤んでヒースクリフを見つめる。
ヒースクリフも澄んだ青い瞳でじっとアンナを見つめていた。
風が止み、時が止まったような錯覚。
彼女は、幸福感と切なさに、脇腹の辺りがじわじわと広がるような感覚を覚える。
できれば、このまま永遠に見つめ合えたらいいのに。
アンナの視線が僅かに開いたヒースクリフの薄紅の唇を捕らえる。
(綺麗な唇……って、何を見ているの、私!)
だが、すぐにハッとしてそれを慌てて逸らした。
「なっ! 何なんだ、何か言え!」
ガバリ、と勢い良く起き上がり、ヒースクリフは叫ぶように言う。
黒の外套には緑の草の葉が付いている。
革手袋をはめた手それを叩きつつも、彼の顔は真っ赤に染まっていた。
アンナもゆっくりと起き上がる。
「っヒースクリフ、さっきの全然笑顔じゃなかったよ」
「……それを今言うな」
ヒースクリフは真っ赤になった顔を手で覆う。
「笑顔っていうのは、こういう風に……」
と、アンナは口元に力を入れてみるが、さっきのように、うまく笑えるような気がしなかった。
ヒースクリフは、小さくため息をついて眉尻を下げて優しげな眼差しを向ける。
「お互い下手くそだな。笑うのが」
「……うん」
私達はよく似ている。
アンナは、ヒースクリフの言葉がじんわりと心に染みこんで行った。
(それでも私はヒースクリフの表情、とっても好きだよ)
この言葉はどうしても言葉にできず、アンナの心でズキンと痛みを立てた。
視界いっぱいに広がる赤紫の絨毯は、二人を見守るように優しく優しく揺れていた。