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ムーア

「ヒースクリフ、開けて! お願い」


ドンドンと大きめにドアをノックする。思わず力が篭ってしまった。

忙しくしているかもしれない。迷惑かもしれない。

なのに、申し訳なさがアンナを駆り立てる。


「何だ」


後ろから声を掛けられ、アンナは振り返る。


ヒースクリフだ。


彼はアンナを見るなり眉を寄せる。

手に持った物がぐっと鼻先に迫った。

ふんわりとバターの香りが漂って鼻腔をくすぐる。


「こ、これって」

「今度は文句なんて言わせない」


それはいい香りのするバスケットだった。

ヒースクリフはフンと鼻を鳴らし、仰々しく咳払いする。


「腕が良ければアンナだって文句ないだろ」


アンナは安心してへなへなと体の力が抜けるような思いだった。


ヒースクリフは最初から怒ってなんていなかったんだ。

自分の唯一できる料理をけなされたと誤解して悲しんでも、こんな風にただじゃ起きない――

目の前の不器用な青年が、強くて、かわいくって、いい人で、でも負けず嫌いで子供っぽくって――

アンナの胸に色々な感情が湧きだして、溢れ出しそうになる。


「何だその顔。今日は晴れてる。早く行くぞ」


アンナの手を掴んでずんずんと進んで行った。

革手袋越しに伝わる熱は、少しひんやりとしていたはずなのに、やっぱり暖かかった。

アンナの胸の奥で、ふつふつと優しい気持ちが湧き上がる。


「おやおやクリフ坊っちゃん! どこ行くんですよ」


広い玄関口(ホール)でマリーおばさんの訛り言葉がこだまする。


「ムーアを見る。今日は助かった」

「おばさん。さっきはあ、ありがとうございました」


アンナはヒースクリフに手を引かれつつもペコリと頭を下げた。

おばさんは驚いて目を見開いた後、その表情を険しくする。


「まあまあ。坊っちゃん! 少しはアンナお嬢ちゃんを見習いなさいな!」

「分かった。後で見習う!」


ヒースクリフは振り向きもせずに言った。


「――全く。でも、最近の坊っちゃんは随分元気になっちゃって。まあ……元気が無いよりはずっとマシねえ。あの子に感謝だわ」


マリーおばさんは長々とひとりごちると、ふっと笑みを浮かべた。

「……すごい……」


雲ひとつない晴天。

飛び込んでくる一面の赤紫。


アンナは思わず息を呑んだ。


草原に見渡す限り赤紫のヒースが咲き乱れている。


まるで、ムーアに花の絨毯が敷かれたようだった。

嘆きが丘の由来でもある、亡霊の嘆き声のような強い風は、今日は鳴りを潜めてそよそよと優しく吹いて花畑を揺らしている。


緑の草の上に二人並んで腰掛け、膝を抱えて息を呑むような美しい景色を見つめていた。


「どうだ、凄いだろ」


ヒースクリフはまるで自分の事のように得意げに鼻を鳴らす。


「……うん凄い。凄いよ、ヒースクリフ。私、こんな景色初めて」


こんなに開けた美しい土地を見る機会なんて、アンナには無かった。


前世は家に篭りがちで、生まれ変わってからは霧に囲われた都と陰気な雰囲気の森ばかりを見てきた。

別荘に行っても、散歩は避けて部屋に篭もる事や、森へ逃げ込む事しかしなかった。

美しい湖畔でお茶会をしても、下ばかりを向いていた。


ここまで考えて、アンナは違う、と考えを改める。


(自分から逃げていたんだ、こんな綺麗な場所よりも――自分の世界を選んでた)


アンナが部屋に篭ったり、下を向いたのはアンナが決めた事だ。

傷つけられる事を恐れて踏み出さなかっただけで、彼女の思わぬ所でこんなにも美しい世界は腕を広げて待っていたのかもしれない。


(だけど、今気づいたところで。それは遅くなんてないわ)


だって、まだ生きている。

ヒースクリフが、こうして隣に居てくれる。


これから努力して、アンナが変わっていけばいい。

なぜだか分からないが、この不器用でまっすぐな青年は、アンナ変わるその日まで待っていてくれるような気がしてならなかった。(ダメね。まだヒースクリフの優しさに甘えて)


そう思った所で、ヒースクリフはバスケットに掛った淡い紫のナフキンをそっと取り払った。

そこには、薄切りにした黒パンに、とろけたチーズと葉野菜を挟んだサンドイッチが入っていた。


「わあ、美味しそう!」


アンナは思わず声を上げた。

ヒースクリフは満足気にうなずき、にやりと口端を上げた。


「だろ。食べても旨いぞ」


そう言われて、一つサンドイッチを差し出す。

アンナはそれを受け取り、はむっといつもより大きめに一口目を頂いた。

余りにおいしそうだったから、我慢ができなくなったのだ。


「っ美味しい」


チーズには、まだ熱が残っており柔らかい。葉野菜のシャリシャリとした食感も楽しい。

硬いはずのパンも、薄く切った事と、バターが塗られているお陰でそこまで噛む事に苦労はしない。

それに、やっぱり――


(胡椒の味がするわ)


胡椒が入っている料理はもちろん美味しい。

だけど、きっとこの料理がすごく美味しくて、どこか食べるのが勿体無い位に愛しく感じるのは、別な理由がある気がする――。


その様子を見て、ヒースクリフはコホンと咳払いをした。


「お、お前じゃ俺の料理の腕には勝てないだろうし、今後は下手な気を起こすな」


アンナはヒースクリフが言った言葉に、目をぱちくりとさせた。

ヒースクリフは居心地が悪いのか、みるみる眉間に皺が寄っていく。


「な、何だ」

「ううん」


アンナはおかしくなって、クスクスと声が漏れた。

まっすぐなのに不器用で、気持ちを上手く伝えられないヒースクリフは、やっぱり少し可愛い。

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