婚約破棄
少し、頭痛がする。
アンナは軽く頭を振って椅子に座り直す。
「どうだアンナ。この話についてどう思う」
婚約者のエドワードは鼻息を荒くして尋ねてきた。
アンナは、彼の自慢話を聞き逃さないように、懸命に耳を傾ける。
自分に流れる王家の血の自慢、持ち物自慢、いかに王族が偉いかという自慢、エドワードはそんな話ばかりを繰り返して、ちやほやされるのが大好きだった。
彼は、名君と持て囃されるキャサリン女王の弟で、小さいころから何かと比べられる事が多いのだ。
だから――認められたいのだ。
「……素晴らしいと思います」
必死に笑顔を作って、控えめに返す。
「またそれか! バカのひとつ覚えみたいに言いやがって。そなたは他に言う事が無いのか。折角我がそなたに意見を求めてやっているのに、なぜ何も言わんのだ」
アンナは悲しみを堪えるために奥歯を噛む。
誰かの失笑が漏れた。
女王を交えた特別なお茶会の席だというのに、エドワードを怒らせてしまった。
いつも、エドワードは自分に流れる王家の血に絶対的な自信を持っている。
彼は尊大な態度でこうして人前でわざと大声で口汚くアンナを罵い、プライドを保っている。
アンナが小さくなっているうちに、話題は「嘆きが丘」と呼ばれる北の領地についてへと変わっていった。
なんでも、幽霊が領主をしているという、呪われた土地らしい。
荒れ地が広がり、とても人が住めるような場所ではない。
ひっそりと建つ館に、骨となった領主の嘆きは大地を揺らし、時折、霧の都までその声が聞こえるという。
エドワードの自慢話に集中していて、アンナは疲れてしまった。小さく息を吐いてまた話に集中する。
彼女は、良くも悪くも、今を生きる事に精一杯だった。
アンナは転生者だ。
前世は日本に生まれて、誰にも愛されずに失意のままトラック事故で死んでいった。
魔法の存在する異世界の貴族の公爵令嬢アンナ・リレスターとして生まれたものの、家族に愛されているかは自信がない。
最初こそ誕生を喜ばれたものの、跡継ぎとなる弟が生まれた瞬間、家族の興味はすぐさまそちらに移ってしまった。
彼女を世話していた乳母や侍女も、あまりアンナに興味を持っていない。
そして、アンナには決定的な問題があった。
普通、この世界の貴族は使えて当たり前の魔法が使えない。
通常、魔法は12歳から14歳までに才能が開花すると言われているが、15歳になるアンナにはその兆候が無かった。
その上、アンナには視覚に異常がある。
普通の人には見えない光が視界をちらつくのだ。
それによって、親やエドワードには出来損ない、失敗作と陰口を叩かれ、誰にも期待されずに育っていった。
エドワードならばアンナを切り捨てそうなものだが、なぜか婚約をしたままでいる。
彼女は、そこに愛がある事を信じたかった。
そもそも、この時代に恋愛結婚という概念は無い。
馬鹿げているのは分かっているのだ。
それでも、愛に縋らなければアンナはだめになってしまいそうだった。
――なぜ、生まれ変わってここまで努力してきたか、わからなくなってしまいそうだったから。
今度こそ愛されたい。そう強く願ったものの、アンナは誰かに愛されているという実感が無かった。
親は、幼い頃から王子であるエドワードと婚約をしているからこそ見捨てさえしないが、もしその婚約が上手く行かなかったら――きっとあっさりとアンナを見限るに違いない。
その時、ふと上座に腰掛ける女王と目が合った。
キャサリン女王。
エドワードの腹違いの姉で、現在この王国を治めている女傑だ。
母親の血というのが重要で、王家の血がより濃いのはキャサリン女王で、エドワードの継承権は彼女に劣ってしまう。
また、先代の女王であるキャサリン女王の叔母様はとても優秀な人物だったため、当時の王国は次期王も女性を擁立しようという流れがあったのだ。
彼女は、王国の繁栄を象徴する人物で、政治の手腕もとても評判の聡明な美女。
23歳で未だ独身。
結婚適齢期を過ぎているが、「私はこの王国と、国民全てと結婚をした」と高らかに宣言をしたのが記憶に新しい。
女王は、アンナに向かって薄紅色の薔薇のように柔らかな微笑みを向ける。
その瞬間、萎んでいた心が安らいでいく。
女王は彼女が幼い頃からこうして優しかった。
誰とも仲良くしてもらえない私の手を引いて、お城を案内してくれたり、内緒のお庭に連られて、ブランコに揺られながら本を読み聞かせてくれた。
なるほど、確かに彼女は王国と結婚している。
アンナ達、国に生きる者、皆の母なのだ。
最近では忙しくなり、めっきりそんな事もなくなってしまったけど、彼女は私のような者にも別け隔てなく無償の愛をくれる聖母のような人。
私のような出来損ないにも、女王は優しい。
まさに王国の頂点にふさわしい、素晴らしい女性だ。
彼女のように華やかで優しい美女ならば、どれだけの人に愛されただろう。
けれど、女王は現在23歳で結婚をしていないのは揺るぎない事実。
一部では世継ぎを諦めている者も出始め、エドワードを次期王とする流れが生まれつつある。
それに伴い、リレスター公爵家も、アンナへと掛かる期待が増している。
この結婚さえうまく行けば、お父様やお母様も私を見てくれる――
だが、アンナの唯一の希望の光はあっさりと絶たれてしまった。
お茶会が終わり、帰り支度をするアンナにエドワードが近寄ってくる。隣に女性を侍らせ、その腰を引き寄せて。
「彼女はオフィーリアだ」
「存じあげております」
エドワードの隣に立つ可憐な少女は、アンナの家と敵対しているローズハート公爵家のご令嬢・オフィーリア。
彼女は12歳から14歳にかけて通った学院時代のクラスメイトだった。
貴族達の令嬢の中でも人気が高く、美人で淑やかな女性だ。
魔法の才能にも溢れていて、彼女はたくさんの種類の魔法を操る事ができる。
「ごきげんよう」
オフィーリアはアンナに腰を下げて微笑みかける。
その時点で、嫌な予感が頭をもたげた。
礼儀作法にならって、アンナも腰を下げるが、その足は既に緊張で震え、背筋が凍っていた。
お願い、勘違いでありますように。
思い過ごしでありあますように。
エドワードは、フと歪な笑顔を見せ、口を開いて一気にまくし立てる。
「そなたのようなつまらない出来損ないよりも、彼女の方がよっぽど良い。お前はもう用無しだ。とっとと失せろ」
「それって……」
喉が張り付いて声が出せない。
「そなたとの婚約を解消する」
エドワードは愉快そうに顔を歪め、高らかに笑っていた。
その隣で、オフィーリアもクスクスと笑っている。
頭を何かで思いっきり殴られたような感覚。
何も考えられない。
目の前が真っ暗になりそうな。
死んでしまった方がマシだと思えるような恐怖と絶望に体が支配されていく。
「エドワード様――あ、あの――ひとつだけ聞いても、よろしいでしょうか」
震える声でアンナは尋ねる。
「何だ。だが、これを聞いたら二度と私に声を掛けるなよ」
エドワードは下卑た笑みを浮かべ、ぴったりと纏わりつくオフィーリアの腰を撫でていた。
「なぜ――今なのです。私に愛想を尽かしたなら、もっと早く婚約を解消すれば――」
エドワードは、情けを掛けてくれていたのではないだろうか。
少しでも私の事を思ってくれての事ではないのだろうか。
僅かな期待にすがりつく。
子供の頃から婚約をしていた。
幼いころ、エドワードはアンナに真っ白な花をくれた。
ささやかな交流を重ねてきた。
逆らわなかった。
ずっと嫌われないように、笑顔をたたえて必死でいた。
左手の甲にぎゅっと爪を立てる。
それ以上に、悲しいくらい胸が痛む。
「そんな事か。俺とオフィーリアは長く交際していたんだが、なかなか式の手はずが整わなくってな」
そう言って、エドワードは隣の女の額にくちづけを落とす。
式?
既にエドワードとオフィーリアはそんな仲だったなんて――。
どういう事なの――
私とは、最初から――そう、最初から愛なんてなかった。
ただ、エドワードはアンナが邪魔だった――。
「責めてそなたが出来損ないじゃなければ側室ぐらいにはしてやったのに」
アンナは頭の中がどんどん真っ白になっていく。
何も言わずに踵を返し、唇を噛んで馬車へと乗り込んだ。
エドワードの笑い声が頭にこびりついて離れない。
婚約破棄――。
それも、よりにもよって、リレスター家と敵対するローズハート家の令嬢に乗り換えるだなんて。
アンナは唇を噛む。涙が零れそうになったが、目を見開いて力を入れ、それを必死に抑える。
泣いたら負けだ。
生きていれば、きっともっとステキな出来事が起きるはず。
大丈夫、大丈夫――。
足早に駆ける馬の蹄の音が虚しく響く。
唯一の存在価値だったエドワードとの婚約を破棄された私は一体、どうなってしまうのだろう。