不審者ゴースト、神になる 1/2
六時間目の授業も、残り一五分。
一人の女子生徒が、ゆっくりと階段を登っていた。
薄いブルーのジャージに身を包み、両肩を弛緩させ、乱れたミドルヘアの間からは、諦観と達観のにじんだうつろな瞳をたたずませている、幾分やつれた感じのする女子高生。
彩音。
彼女の心の裡には、一つの『決意』があった。
――胸を貸す。
文字通りの意味で、胸を貸す。
もう決定だ。
腹をくくっている。
苦渋の決断などではない。断腸の思いで決断したわけではない。もっと前向きな心境で「私が彼を助けてやるんだ!」と、自発的に決断したのだ。
だが一方では、「なんで私が……」と、愚痴をこぼしたい心境でもある。なにが悲しくて見ず知らずの不審者に『胸』を貸さなければならないのだろうか。
容易にまとめることができない苦情に苛み、彩音の顔が、知らず知らずのうちに険しくなる。
やがて四階に到着して、彩音はいったん立ち止まった。
ふぅ、と一息ついたつもりだったのだが、
ふしゅーっ、
と歯の隙間から息が漏れていた。いつの間にか奥歯をぎりぎりと噛みしめていたことに気がついて、自分自身で驚いてしまった。
「……」
――あれ? もしかして私、すっごくイライラしてる?
保健室を出た瞬間には、『覚悟』を決めていたはずだった。『苛立ち』などはとっくに過ぎ去り、『悟り』の境地に入ったのだと思っていた。――だが、こうやって一年四組の教室に近づくにつれて、くすぶっていた胸が、またしても焙られるようにして熱を上げていたのだ。
――顔でも洗ってから向かおうか。
一瞬そんなことを考えたが、頭を小さく横に振って否定する。「このまま向かおう」、と思い直した。授業が終わってしまえばクラスメイトが帰ってくる。それまでにやってしまいたかったのだ。あまり時間がない。
なによりこの『意思』は、時間が経てば「やっぱやーめた!」と翻してしまう可能性があるような、薄弱なものなのだ。ただの気まぐれ、気の迷いだ。
――そうだ。やるなら今しかない。
彼を助けるためには、今のこの瞬間の、もやもやとしたよく分からない激情に身をゆだねて、勢いでやってしまったほうがいいのだ。勝也には「自己犠牲か」などとも言われてしまったが、そもそも、そこまで大層なものでもない。たかが胸だ。七秒間だけなのだ。それだけで勝也の二〇年間が報われる『可能性』があるならば、別にいいではないか。それも今だけ限定だ。こんなことは一生のうちに一度だけだ。――一生のうちに一度だけだから、今のうちにやってやるのだ。
と、彩音は自分自身に言い聞かせ、止まっていた足を動かし、歩きはじめた。
四階には人の気配がなかった。
一、二組は移動教室で別棟へ。三、四組は合同体育でグラウンドだ。
彩音は堂々とした足取りになる。
どすっ、どすっ、と、心なしか怒気をまき散らすような足音だったが、どうせ誰も聞いていないのだ。気にせず廊下を突きすすむ。
ほどなくして、一年四組の前に到着。
扉は閉まっていた。
彩音はその扉に手をあて――、そして、力まかせに勢いよくスライド。がらっ、ばんっ! と大きな音を立てて扉が開いた。
西日がさしこむ教室だった。
当然クラスメイトは誰もいない。
乱雑に脱ぎ捨てられた男子のブレザーが、それぞれの席に置きっぱなしだった。イスにかけてあったり、脱いだままの状態で机の上に広がっていたりするような、なんともだらしのない感じのする教室だった。
そんな教室の、一番後ろ。
金魚の水槽のとなりには、律儀なことに、相変わらず正座をしたままの勝也がいた。
半そでのワイシャツ、グレーのズボンという、サラリーマンスタイルの四〇代ほどの男。――幽霊でもある男。
彼は、目を丸くして言う。
「びっくりしたよ。どうかしたの?」
「……」
彩音は三歩だけ中に進んで、立ち止まる。
そして、こっそりと深呼吸する。
「おーい? 彩音さん? どうかした?」
「……」
彩音は一瞬、怒鳴りつけてやろうかと思った。どうかしたのじゃないでしょおおおおお! と、思わず口が動きかけてしまったが、誰かが聞きつけてしまうかもしれない。
なるべく小さな声で答えようと思った。
落ち着いて。
冷静に。
勝也に目を向け、喋る。
「――なっ、なんでっ」
「うん?」
つい、両手にぎゅーっと力がこもってしまう。彩音は瞳を鋭くした。
「なんで勝也さんは、ずっと正座しているんですか。こ、こんな小娘の言いなりになって正座しているなんて、おかしいですよ」
「あはは……そのとおりかもね」
と勝也は、決まりの悪い顔で言った。
「さっさとどこかへ行っちゃえばいいじゃないですか。 ……なんでそうしないんですか」
「いやぁ、だってさぁ。せっかくお話できる相手が見つかったのにさあ。彩音さんと話していると面白いし」
「――むっ」
予想していた答えではあるのだが、面と向かって言ってくるとは思わなかった。彩音はひるんでしまったが、負けじと口を開く。
「……だ、だいたい、勝也さんは、来る場所を間違っているんですよ。……ロリコンじゃないって言いましたよね、巨乳が好きだとも言いました。だったら、それにふさわしい場所に行けばいいじゃないですか。勝也さん、なんでこんなところにいるんですか。真面目に成仏する気あるんですかっ」
知らず知らずのうち、彩音の口調に熱がこもった。
「んー。正直なところ、微妙だねぇ。成仏はしたいよ。それだけは本心だ。でも、人に迷惑だけはかけたくないっていうか」
曖昧な、煮え切らない返答だった。
「勝也さん――、言っていることがめちゃくちゃです! 今日の一時間目なんて、巨乳の由香ちゃんの胸に、ためらいもなく飛び込もうとしていたじゃないですか。嘘つきっ!」
嘘つき。
思わず叫んでしまったが、勝也はきょとん、とした顔つきになった。まるで伝わっている気配がない。馬の耳に念仏。のれんに腕押し。
「……え? あー、朝のあれか。あれはほら、君なら絶対に止めてくるだろうなって思ったから、ちょっと戯れてみただけなんだよ。本気で飛び込むつもりはなかったし」
「は……?」
「いわゆる、ボケ? ツッコミ待ち? みたいな感じかな。あんなに情け容赦のないツッコミをしてくるとは夢にも思わなかったけどさ。あははははっ」
勝也は片手を後頭部にあてて、快活に笑った。
彩音は、
「――」
絶句。
そして全身から、がくーっ、と力が抜けた。そのまま地面に倒れそうになってしまったが、扉に手をあて、ギリギリのところで踏みとどまった。
「アホすぎます……」
ため息をつくようにして言った。
「よく言われたよ。生前は、だけどね」
「今もですよ……、アホだから成仏できないんですよ」
「んー、そうかもねぇ」
「だいたい、成仏するための条件のところから、――ああもうっ! ああもうっ!」
ヒステリックにも彩音は、両の拳をぶんぶんと上下に振りながら、「どうして巨乳に顔をうずめられたら成仏できるんですかっ。その条件は一体どこから出て来たんですかっ! なにからなにまでアホです。勝也さんの存在自体がアホですっ!」と叫んだ。
「うーん。それは、すまんと謝るしかないねぇ。自分でもどうしてこんな条件なのかは分からないんだけどねえ。でも分かっちゃうんだよ。自分のことだからさ。自分はどうしたら成仏できるんだっていうのがね。たぶん、巨乳に顔をうずめたいっていう未練があるのかも?」
「……じゃあ、もう一つの条件も、そういう願望があるってことですか? 女の子の悲鳴をきいたら成仏できるっていうあれも」
「そうかもしれないねぇ。僕の胸の奥のほうにある願望なのかもしれないねぇ、あははっ」
飄々(ひょうひょう)と言った。
「……あぁ、そうか……」
彩音は、なるほどな、と思った。ドン引きなどはしなかった。むしろ、勝也という人間のことを少しだけ理解できてしまった。
きっとこの人は、根っからの変態なのだ。
根っからの変態ではあるのだが、実際に行動してしまうような危険人物ではないのだ。多分、理性の人間だ。そうでなければ、二〇年間も幽霊をやっている訳がない。
彩音はため息をつくように、脱力しきった声で言う。
「……ああ……もう……、いいです。勝也さんのこと、なんとなく理解できました……」
「おぉ、ようやく彩音さんは、僕の魅力を理解できたのかな?」
「……勝也さん、どれだけ都合のいい解釈をするんですか……」
「僕って育ちが良かったからかなぁ。あはは」
「……親の顔を見てみたいです」
「僕の親、最近亡くなっちゃったみたいだ。あっさりぽっくり逝っちゃった」
「……むうううううう」
いちいちこの男は、もの悲しいことを言う。
それがますます腹立たしい。彩音は、きゅっ、とジャージの袖を握りしめた。
「じゃあ、お子さんの顔を見てみたいです!」
「なるほど!」と勝也は、突然嬉しそうな顔になった。「彩音さん、キミは、僕の自慢の子どもに会ってみたいのかい?」
まるでお見合いの話を強引にすすめようとしているような口調だった。
彩音は真剣に困ってしまった。
「あ、あの……、その、本気にして受け取られてしまうと困るんですけど」
「でも、すでにキミは出会っているよ」
「いやだから……はい? 出会っている? 私がお子さんと?」
彩音はきょとんとして目を丸くした。
「一時間目の英語教師をやっている女性だよ。佐々木京子。僕はあの子の父親だ」
「……」
「驚いた?」
「えっと……」
驚いたというよりは、納得した。
勝也がこの高校へとふらふらやってきた理由は、つまりそういうことなのだ。娘を見にきただけだったのだ。
「そ、そりゃ驚きましたけど……。で、でも、私には、勝也さんがあまり関心をもって見つめているようには思えなかったというか……」
「だってさぁ。実の娘だよ? まじまじ見るのって照れるじゃないか。しばらく見てなかったし」
勝也は照れくさそうに頭をかいた。
俯いてニヤニヤ、と笑うのだが、彩音は気持ち悪いとは思わなかった。その顔つきは、変質者というよりは、ただの親バカの顔だ。
「そ、それもそうかもしれないですけど。ええと、でも、しばらく見ていないって言いますけど、勝也さんは幽霊になってから二〇年くらいになるんですよね? まさか、そのあいだ一度も娘さんを見なかったんですか?」
「そんなことないよ。あの子は毎日、お仏壇に手を合わせてくれていたね。僕はそれをじっと見ていた。そしてあの子は健気にもさぁ、勉強頑張るからね、お母さんを守るからねって、毎日呟いていたね。――ただ、悲しいことに僕は返事なんかできないからさぁ……」
「……返事、ですか? でも勝也さんは、七秒間だけだったら、ペンも握れますよね?」
「あはは……筆談ってやつだよね。試してみたことがあるよ。でも、完全に怖がらせちゃって……、泣かれちゃって……」
「……あっ」
「結局僕って、もうこの世にはいないはずの人間なんだよね。だからもう、僕は僕自身を受けいれなきゃいけないんだなって気がついたんだよ。無理にコミュニケーションをとるべきじゃないんだ。それ以来は『そういうこと』もしなくなっちゃったね」
「……」
彩音は、気がついた。
そして気まずくなって、目をそらして地面を見た。
返事など、したくてしたくて、たまらなかったに決まっている。でもそれは、同じ人間としてコミュニケーションを取りたかったという意味だ。きっと、やりきれない気持ちでいっぱいだったのだろう。
だから勝也は、娘からわざわざ距離をとってしまったのだ。
「……」
彩音は、なにを言ったらいいのか分からなくなってしまった。
自分の毛先を指でいじり、所在なく目をさまよわせた。
そうやって沈黙していると、
「まぁ僕は、それでも死んでからの八年間くらいは、家の近辺をさまよっていたんだけどね」
と勝也が切りだした。
「……そうなんですか?」
「ですがねぇ……。娘が高校を卒業したころ、彼氏をつくりやがりましてねぇ……」苦々しい声、というよりは恨みのこもったような声で言う。
「……」
「でね、僕、死ぬほど辛くなっちゃって、しばらく旅に出ようって決めたんだ。世界中をまわったね。徒歩で色々行ったけど、長く滞在したのはオーストラリアかなぁ。だから英語もぺらぺらになっちゃった。ニーハオ」
「……」
どこからどうつっこめばいいのか分からない。
彩音は、一瞬でも切ない気分になってしまった自分がばかばかしくなってしまい、すーっと目を細めて天を仰いだ。
――アホだ。
勝也は、不思議そうに首をかしげた。
「あれ? つっこみどころの沢山ある話だったんだけどなぁ」
「……なんていうか、笑いどころが多すぎて、笑うタイミングが分からなかったんです」
彩音は苦笑。
もうこの人は、存在そのものが冗談なのだ。こういう人なのだ。いちいち真面目に受け答えするのも疲れてしまう。適当に受け流すくらいが丁度いいのかもしれない。
そんなことに、いまさら、ようやく、彩音は気がついた。
「まあいいんだけどね。久しぶりに見た娘が、すくすく育ってくれていたから、僕は満足満足」
「佐々木先生は、すごく良い先生です。気遣いも上手だから、好きです」
「そうかそうか。でもねえ、ちょっとだけ残念に思っていることもあるんだよ。僕は」
「なにが残念なんですか? また胸の話ですか?」
彩音は、じとっ、と鋭い瞳を向けた。
「違う違う。そうじゃないんだ」と勝也は慌てて首を振った。腕を組んで、「勉強のことだよ」とつけ加えて言った。
「勉強ですか?」
今度は彩音が、不思議そうに首をかしげる番だった。
「そう。僕は数学が得意だった。対して、僕の妻は英語が得意だった。そして二〇年という月日が経ってみれば、いつの間にか僕の娘は、英語教師になっていた。これがどういう意味か、分かるでしょ?」
ふっ、と彩音は噴きだして笑ってしまった。
「まったく分かりません。勝也さんは子どもなんですか?」
「いやーこの機微が伝わらないとは、残念だ」
二人で顔を合わせて笑った。
つい先ほどまでぷりぷりと怒っていたばかりだというのに、いつの間にか彩音は毒気を抜かれていた。無邪気に笑ってしまった。
笑っているうちに――、チャイムが鳴った。
「あっ!」
と彩音が焦った声をあげて、
「お」
と勝也が安心したような声をあげた。彼は続けて喋る。
「それじゃあこれで、約束の放課後だね」
「約束?」
「放課後になるまで正座っていう約束。僕は守った。もう自由だ」
もう自由。
それは自虐なのか? と彩音はつっこみたくなった。
勝也は地面に、ふわっ、と降り、晴れ晴れとしたような顔つきで言う。
「んじゃ、長々と迷惑かけてごめんね。僕は消えるよ。もう二度とここには来ない。成仏するために、もっと積極的に活動してみるよ。天国の親にも再会したいし」
と言って手を振り、彩音の隣を通り過ぎようとして――、
「ま、待ってください」
彩音が呼びかけた。
「うん?」
「どうせ消えるなら、私の胸の中で消えてください」