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温かな一六年

 五時間目の授業は数学だった。

 授業内容は、一年間のまとめだ。

 五〇代ほどになるやや小太りの男性教師は、熱心に、くどいくらいに分かりやすく説明を続けていた。

 そんな授業のさなか、あの四〇代ほどになる不審者幽霊、勝也は、一番後ろのロッカーのあたりから、感心したような声をあげた。

「あぁ、数学って懐かしいなあ。XとかYとかをいじくりまわすのが面白くてさぁ。僕も学生時代は、あれやこれやと解き明かしたものだったよ。ぶ、ぶ……分解? あれ、なんだっけ。なんとか分解。分解工作? あ、原子崩壊だったかも」

 彼は宇宙誕生の謎でも解き明かしていたというのだろうか。「それを言うならば因数分解でしょう!」と彩音は胸中でつっこんでやった。

 勝也は相変わらず、水槽の隣で正座していた。

 どこかへとふらふら歩いていくわけでもなく、金魚の水槽のとなりで、じーっと正座を続けていた。

 そして彼は、「あっ」と何かに気がついたような声をあげた。

「思い出した、思い出したよ。因数分解だ。そうそう、僕は計算が得意だったんだけどさ、僕の娘の京子は、計算が苦手だったんだ。よく教えてやったんだ。もっとも、算数までしか教えてやれなかったんだけどね。京子が中学校にあがる前に、僕、うっかりぽっくり逝っちゃったからさあ、あはは」

「……」

「でもさあ、そんな娘の京子も、もう僕の歳に近づきつつあるんだよね。成長は喜ばしいことなんだけどさ、ちょっと時間の流れが怖いって言うかさぁ――」

 窓際、最前列の彩音は、頭を抱えた。

 なんというもの悲しい独り言なのだろうか。これは遠回しに、自分のことを責めているのだろうか。なるほど。「正座をしていなさい!」などと言いつけた自分に対する嫌がらせなのだろう。

 そんなことを考えずにはいられなかった。

「あ、彩音さん。勉強の邪魔をしてしまって悪いね。僕はもう黙っているから。――ただやっぱり、話を聴いてくれる人がいるってのが嬉しくてさぁ。会話って、キャッチボールにたとえることがあるじゃない? 僕のボールをキャッチしてくれる人、誰もいないんだよねぇ。いや、天国に行けば、誰かはいるのかな?」

 ――むうううぅ。

 窓際の一番前の席。

 彩音の顔が、ふくれっ面になった。

 よく分からない気持ちが胸の中で、もんもんと淀み始めたのだ。

 授業が終わったら、なにか言ってやらないと気が済まない。「なによ! なにか言いたい事があるならはっきり言いなさいよ!」とか、「こんな年下の女の言いなりになって、どうして律儀に正座なんかしているのよ!」とか、「もう鬱陶しいからどこかへ消えて!」とか、色々な台詞が脳裏に浮かんできては、霧散していく。

 どれもしっくりこない。

 なにか言いたいことが頭のなかでもやもやとしているのだが、どれも自分が言いたいことではないような気がした。

 結局それからの授業中、勝也が口を開くことはなかった。

 だが彩音の胸の中では、むしゃくしゃとした風がびゅーびゅーと吹き惑っていた。


 五時間目が終了すると、教室の中は慌ただしく動き始めた。

 次の授業は、体育。

 だから休み時間のあいだの教室は、男子の着替え場となってしまうのだ。女子の着替えはロッカールームである。

 そして男子たちはちらほらと、女子の目も気にせずに着替えをはじめてしまった。女子達は荷物をまとめ、慌てて教室から出て行った。彩音もそれに続いて教室を出ようとしたのだが、

「げっ! 僕、ただでさえ高校生になんて興味ないのに、男子高校生の着替えなんか、特に……」

 と、金魚の水槽のとなりで正座をしたままの勝也が不満そうに言って、ちら、となにか言いたげな視線を、彩音へと向けた。

 なにを言わんとしているのかはすぐに察したのだが、彩音は、ぷい、と目を背けて教室を出て行った。


 三組、四組の合同体育であるため、ロッカールームは混雑していた。

 彩音は、手早く着替えを済ませた。

 薄いブルーのジャージ姿になった女子達でまとまり、ぞろぞろと玄関の下駄箱へとやってきた。

 だが、その最後尾を歩く彩音の足どりは、重かった。

 静かに、「はぁ……」とため息をついた。

「ねえ、やっぱり彩音、調子悪いんじゃない?」

 すぐ近くを歩いていた一人の女子が、話しかけてきた。彼女は隣に並んだ。

 由香ちゃん。

 一時間目の授業中、運悪く勝也に目をつけられてしまった女子。巨乳の由香ちゃんだった。

 彼女のショートヘアには、いつもならば白のカチューシャがかけられているのだが、いまは体育をやるためにはずしているようだった。

 由香ちゃんのぱっちりとした愛らしい瞳は、心配そうに歪んでいた。

「あ……、うん。だいじょうぶだよ」

 と彩音は曖昧に言ってみたのだが、自分でも驚くほどの暗い口調になってしまった。

 その調子に驚いた由香ちゃんが、彩音のおでこへいきなり手を伸ばした。ひんやりとした指の感触があって、びくっとして立ち止まる。

「彩音の平熱って、何度くらい?」

「三五度のまんなかへんかな。三六度にはならない」

「あの日だったりとかは?」

「ううん」

 由香ちゃんは手を離し、心配そうな顔して言う。

「うーん……、熱はなさそうだけど、保健室に行っちゃったら? なんていうか今日の彩音、血色がないっていうか、生気がないっていうか。どう見てもおかしいから心配だよ。どうせ体育はマラソンなんだし、休んでもいいんじゃないかなって思う」

「うん……そうしようかな?」

「そうだよ。私も一緒についていくから」

「あっ……ううん! そ、そこまでは大丈夫! 私、普通に歩けるし!」

「そう?」

 由香ちゃんは首をかしげた。

 心配をかけすぎてしまったようだ。体調としてはまったく問題ないのだ。これ以上、彼女に心配をかけてしまうのは良くないと思った。彩音は努めて元気そうな顔をして、

「じゃ、私、今日は休むね。悪いけど先生には伝えておいて」

「うん。お大事にね」

「ありがとう」

 お互いに手を振って別れた。

 彩音は玄関から引きかえし、廊下をまっすぐ歩いて保健室へと向かった。


 保健室には、先生がいなかった。

 彩音は、ほっ、と吐息をもらした。

 先生はなにか用事があって出かけているのだろうと思った。

 好都合だ。あれこれと質問してくるような先生ではないのだが、やはり嘘をつくのは忍びない。体調などはどこも悪くない。まったくの健康体なのだから。

 ただ、精神的な部分まで含めてしまうと、健康体とは言えないかもしれない。

「はぁ……」

 彩音はため息をつきながら窓際のベッドへと近寄って、端に腰かけた。

 ぼんやりと窓を見る。

 太陽が傾きはじめていた。庭に植えられている落葉樹はすべて葉が落ちて、太陽の光がまっすぐにさしこんでくる。

 温かい。

 冬の昼間って、太陽が気持ちいいから好きだな。ずーっと日向ぼっこしていたいな。彩音はそんなことを考えながら、無造作に背中を倒した。

 布団は、太陽でふかふかに温められていた。とても気持ちがよかった。

 チャイムが鳴った。

 静まり帰った部屋のなかに鳴り響くチャイムの鐘の音は、やけにかん高くて、煩わしくて、どこか寂しげに響いた。

「……」

 部屋がシーンと静まり返ると、グラウンドからは体育教師の声が響きはじめた。彼はきっと冗談でも言っているのだろう。クラスメイトの笑い声が混じった。

 やはり、なんとなく寂しい。

 寂しくなってしまったせいなのだろうか、由香ちゃんの言葉が脳裏に蘇った。

『私も一緒について行くから』

 胸がじんわりと温かくなった。

「ああ、あの子、ほんと良い子だなぁ……」

 母性的な感じのする女の子だ。

 気遣いができて、包容力があって、胸まで大きくて、顔もいい。男子ならばきっと、ああいう子にコロンとやられてしまうのかもしれない。本人は自覚などしていないだろうが、あの人間は反則だ。

 そして想像する。

 ――もしも、私じゃなくて、あの子が勝也さんと出会っていたら。

 出会っていたら、どうなっていたのだろうか。考えるまでもないだろう。由香ちゃんだったらきっと、迷いもなく勝也を成仏させてやるはずだ。彼女はきっと、そういうタイプの人間なのだ。

「……」

 次いで、勝也に思いをめぐらした。

 あの人は今、何を思って現世をさまよっているのだろうか。

 ――成仏はしたいけど、犯罪はしたくない。

 まさか、本気でそんなことを悩んできた二〇年だったのだろうか。

 話しかける相手も、自分を認識してくれるような人間もいないような世界で二〇年間も生きるなどとは、正気の人のすることではない。彼は、どうしてさっさと、巨乳でも爆乳でもいいから、適当な女性の胸に飛び込んで成仏してしまわなかったのだろうか。

 どうせ、逮捕する人間などはいないというのに。

 真面目もそこまで行きついてしまうと、ただのバカだ。

「二〇年かぁ……」

 彩音は、一六歳になったばかりだ。

 それでさえ長く感じた一六年間だった。勝也はそれよりも長い時間幽霊をやり続けたと言った。勝也の外観は、おそらく死んだときから止まったままなのだろう。

 四〇代。

 彩音の父親と、だいたい同じ歳だ。人生の先輩だ。

 もしも勝也が生きて歳を重ねることができたのならば、六〇歳になっているだろう。定年を迎えて退職すれば、人生の余暇を楽しみ始めるような年ごろなのだ。先輩どころではない。大先輩だ。

 そんな人に向けて――、


『正座していなさい!』


 自分の口から飛び出してきたセリフだった。

 たかだか一六歳の小娘が、何を偉そうに命令しているのだろうか。――いや! あれは向こうが悪いのだ。こちらが憤るのも当たり前ではないか! いやいや、だからといってあれは言い過ぎなのでは――、

 と自問自答を繰り返してるうちに、いよいよ頭が痛くなってきた。

「ううううぅぅ……」

 彩音は頭を抱えて、ごろごろと布団の上を転がった。

 恥ずかしいのだ。

 いくら勝也に非があるとしても、彩音は、あんな大の大人に説教をできるほどの立派な人生を送ってきた訳ではない。家に帰れば自動的にご飯がでてきて、おこずかいも出てきて、目覚まし時計なんかを使わなくても決まった時間に起こしてくれるような家族に守られて、甘やかされて、保護されて、温かな管理の中で、やりたいことだけをやって育ってきた一六年間だったのだ。

 温かな一六年間。

 長い、長い、一六年間。

「もおおおおおおおっ」

 彩音は頭から布団を被って、「もうっ! ばかっ、なんなのよあいつはあああああああっ!」と声を張りあげた。

「――ううっ」

 自分の声で耳がキーンとしてしまった。ますます腹が立った。

 脳裏では、勝也の言葉がでたらめに蘇る。

『君のように、僕のことを見える人間っていうのはすごく貴重な存在――』

『君みたいな人に出会えて嬉しいっていうのもあって――』

『成仏したい――』

 次に脳裏をかすめたのは、昼休みに聞いてしまった友人の言葉だった。

『もしもーし、マグロさん、来る場所を間違えていませんか?』


 そして頭の中は、滅茶苦茶になった。



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