居場所
なるほどねぇ、驚いたときには、悲鳴を上げるタイプと、腰を抜かすタイプの、二種類の人間がいるんだねぇ。いやぁ、勉強になったよ、あっははは。
などと、勝也は笑っていた。
女子トイレの個室の中で。
彩音が腰を抜かして、へたりこんでいる目の前で。
彼は、まったく悪びれる様子もなく豪快に笑っていたのだ。
どうやら、「あてがある」というセリフを言ったときには、彩音に悲鳴を上げさせるために、こんなありきたりで下らない『手段』を思いついていたのだろう。
しかも、よりにもよってその場所が、女子トイレ。
こんなところに入り込んで驚かそうとするなど、もうこれは完全に変態行為だ。――変態、変態、変態だ。誰がどう見ても変態だ。ためらいもなく実行するなんてとんでもない変態だ。
誰か来てください! 女子トイレに変態が出ました! しかも幽霊です!
と、彩音は大声をあげようかと思ったのだが、結局言わなかった。
言っても無駄なのだ。どうせ誰にも見えないだろう。
だが彩音は、せめてもと思い、目を鋭く尖らせて勝也を睨みつけたのだが――、彼は、さらにひどくてバカげたことを言ったのだ。
予想もできないほどのバカげたセリフ、いや、バカげたスピーチだった。
便器の前で仁王立ちをしながら、勝也は――、
「さっそく報告するけど、どうやら僕のあては外れましまったようだよ。彩音さんに叫んでもらうのは無理みたいだ。うん。きみは叫ばないタイプの人間だ。だからさ、キミの胸を貸してもらうことに決めたよ。キミのバストでも別にいいのかなって思えてきたんだ。たしかに巨乳というには程遠い中途半端な胸だけど、ないよりはマシだし、使ってみる価値くらいはあるよね? もしかしたら僕、成仏できるかもしれないし。可能性としては限りなくゼロに近いだろうけど、やらないよりはマシだって気がついたんだよ。仕方ないけど、僕もその胸に顔をうずめてみるよ。ロリコンだなんて言ってたら成仏なんかできないよね。というわけで、きみの胸を貸してくれないか。できれば僕の気が変わらないうちに」
「ああもうっ! ばかばかしいっ!」
彩音は声を張りあげて、机の表面をビシっ、バシっ、と叩いた。
すると近くにいた友人二人が、「なっ、なにっ? 急にどうしたっ?」と驚いたような声をあげて、目を丸くした。
彩音は、ハッ、として我に返った。
昼休み。
彩音を含むブレザー姿の女子三人は、窓際一番前の席で、ぽかぽかと温かい太陽を浴びながらお弁当を広げて食べていたのだが――、それを食べ終わるなり、彩音は、突然火を吹いたように声を荒らげてしまったのだ。
近くにいた一同、唖然。
突然のヒステリックに、側を通りかかった男子は引きつった目を向けてきた。
「――あっ、ご、ごめんなさい……。なんでもないの……」
と彩音は、自分の行為が急に恥ずかしくなり、肩をしょんぼりとすくめて謝った。
友人二人は、心配そうな顔をした。
一人はユカリ。ショートヘアをまっすぐに垂らした、少しだけ鋭い目つきの女の子。
もう一人はまゆ。ロングヘアで、毛先を緩くカールさせている、人懐こそうな女の子。
「なにかあったの?」とユカリが言い、
「相談くらいなら乗るよ?」とまゆが続けた。
「……あ」
二人から心配そうな瞳を向けられてしまい、彩音の荒々しくも高ぶった感情が、みるみると和んでいった。
「……ううん。な、なんでもないの。ただの『思い出しムカツキ』みたいな感じで。だから本当に、なんでもないの。ごめんなさい」
と、彩音が謝ると、ユカリとまゆは優しい感じのする口調で言う。
「ふうん? まあ、お話を聴くくらいのことしかできないけどさ、なにかあったら教えてよ」
「そうそう。前々から思ってたけど彩ちゃんってさ、全然そういうことを人に相談しないでしょ? ギリギリまで抱え込んじゃうタイプなんだよ。だからなにかあったら、私たちに言わなきゃダメだよ?」
二人の言葉が胸にしみた。
彩音は小さな声で「ありがとう」と礼を言って、決まりの悪い顔でうつむいた。
すると、側にいた男子が声をかけてきた。つい先ほどまで、引きつったような目を向けていた男子生徒だ。
「これだから女子ってのはおっかねーんだよ。なに急にキレてんだよ。どうかしたのかよ。腹でも痛いのか? 保健室行けよ」
その言葉に対して鋭く反応を見せたのは、ユカリとまゆだった。
「うっさいわねバカ。あんたはデリカシーってものを持ちなさいよ」
「そうそう。男子にも色々あるように、女子にも色々あるの」
へいへい、と肩を竦め、男子生徒は廊下へと去って行った。
そして二人の目が、彩音へと向いた。
その目は、つっこんで訊いてみるべきなのか、つっこむとしてもどこまで踏み込むべきか、慎重に思いめぐらしているような目だった。
彩音は微笑んで言う。
「二人とも、ありがと。これからは二人に相談するから、だからなにか困ったことがあったら、真っ先に言うね。今日はほんとうに大丈夫だから」
「うんうん!」
「いつでもきなさい!」
三人で和やかに笑った。
いつも通りの、昼休みの緩んだ空気が戻ってきた。
「でもさぁ、あの怪奇現象、なんだったんだろう?」
「あーそうそう! あれ、完全にポルターガイスト現象ってやつだったよね!」
二人の話題に、彩音の表情がピクリ、と反応した。
「びっくりだったよね。雄介なんか、『体当たりされたんだ』みたいなこと言ってたし」
「そうそう、聡子ちゃんは『机が勝手に浮き上がった!』って言ってた。私も見てたけど、たしかに、浮き上がったように見えたよ」
「……」
彩音は二人の会話を聞きながら、ちら、と肩越しに後ろをふり返った。
ロッカーの上。
金魚の水槽の、すぐ隣。
騒ぎの犯人は、そこにいた。
四〇代くらいのサラリーマン不審者、勝也は、そこで正座をしていた。もちろん、正座をするように言いつけたのは彩音だった。
「女子トイレの中で待ち構えるなんて、犯罪です。もしかしてこういう覗きをする趣味があるんですか? デバガメしないとか言ってて、さっきから一体なんなんですか! 言ってることとやっていることが全然違うじゃないですか! 反省してください。金魚の水槽の隣で、放課後まで正座です! 正座して、じっとしていてください! それが嫌ならここから消えてください! そもそもここは、あなたのような人がくる場所じゃないんですから!」
そんな説教をした。
そして勝也は、正座をしはじめたのだ。
ただ正座しているというのも退屈なのだろう。彼は時々、指を水槽の中に、ちょんちょん、と入れて、金魚の反応をうかがっている。
――動物には幽霊が見える。
確か、どこかの誰かがそんなことを言っていた。
しかしこの男の場合、そういうわけでもないようだった。金魚は、勝也の存在を完全に無視。指を近づけられてもそれには気づかず、呑気にもゆったりと泳いでいた。
やがて勝也は行為に飽きて、正座したままぼんやりと外を見つめはじめた。
「よく考えてみるとさ、あれ、まるで人が暴れているようだったよね」とショートヘアのユカリが言い、
「いやいや、人っていうよりむしろ、陸に上げられたマグロだよ!」とロングヘアのまゆが答えた。
二人は、楽しげに話を続けていた。
「マグロの幽霊なんかいるの?」
「絶対いるってえ!」
「なんで学校なんかに現れるのさ」
「知らない。マグロに訊いてみたらいいじゃん」
「マグロの言葉なんて話せないよ」
「もしもーし、ここに海水はありませんよ。来る場所を間違えていませんか?」
二人は、けらけらと笑いながら話を続けていた。
もうすでにあの怪奇現象は、二人の中では笑い話になっているようだった。思わず彩音も苦笑い。
「あはは……僕、マグロじゃないんだけどなぁ……」
という弱々しい呟き声が、彩音の耳に届いてしまった。
胸が締めつけられた。