あて?
あれ、勝也さんの姿が見えないな。
と気がついたのは、四時間目の授業が終わる頃だった。
昼休みに突入し、「彩ちゃん、ご飯たべよー!」と集まってきた友人二人に向けて、彩音は「ちょっとトイレ行ってくるね」と伝え、一人で廊下へと出た。
なんとなく、あの『不審者幽霊』を見つけ出しておくべきなのではないか、と考えていた。
気がかりなのだ。
あの「あてがある」というセリフが。
なんとなく悪い事をしそうな気がして、不安なのだ。
悲鳴を上げてくれるような人物にあてがあるのか。それとも単純に、巨乳の生徒、もしくは巨乳の先生にでも目をつけてしまったのだろうか。そして『チカン行為』を働くつもりで――。
分からないが、あまり良い『あて』のようには思えなかった。
「……いや」
彩音は思い直した。
そもそも自分には関係のないことだ。首をつっこむ義理がない。
誰かが悲鳴をあげるだけで『あの男』が成仏できるのならば、それはそれで、邪魔するべきではないのだろう。そしてあの男が、どこかの巨乳に顔をつっこむだけで成仏できるというのならば、それもそれで、邪魔するべきではないのかもしれない。
――由香ちゃんのケースは、つい邪魔をしてしまったのだが……。
巨乳に顔をうずめれば成仏できるというのもやはりバカげた話だし、『被害者』になってしまった女子のことを思えば可哀想なものなのだが、よくよく考えてみれば、たかが『七秒間』なのだ。しかも相手は、姿の見えない幽霊だ。
彩音の足は迷ったまま進み続け、自然とトイレの中へと向かってしまった。
流し台の前に立って、鏡を見る。
人相の悪い目つきがあった。愛嬌などはかけらもない。怒ったような、困惑したような瞳。そして視線が、下に向いてしまう。
自分の胸。
紺色のブレザーの中におさまっている、『それ』。
高校一年生にしては、やや『あるほう』だが、巨乳というほどの立派なものではない。立派ではないのだが、こんなものでも、もしかしたら――、
「……」
彩音は考える。
やはり、誰かほかに『被害者』が出るのならば、それよりも先に、『これ』を差し出して、とっとと成仏してもらったほうがいいのかもしれない。彼が成仏できるのかどうかは分からないが、試してみる価値はある。
たかが胸だ。
あの男はいま、何を考えているか分からない。「僕はロリコンじゃない。高校生には興味がない。犯罪なんかしない」というあの言葉も、どこまで信用していいのか分からない。
勝也は、自分自身が言った言葉をあっけなく否定したのだ。一時間目の授業中、由香ちゃんの胸に飛び込もうとしていたのだから。
「……」
勝也が成仏する条件とは二つ。
一つは、女性から本気の悲鳴を上げられてしまうこと。
二つは、女性の巨乳に顔をうずめること。
「……ばかげてる」
バカバカしい。下らない。笑えてくるほどだ。鏡の中の表情は、困惑したまま笑いはじめてしまった。
「……ほんとうに、ばかげてる」
ぼそっ、と呟いてから彩音は、ブレザーのポケットから折り畳み式のクシをとり出した。
朝からバタバタしてしまったせいか、今まで身だしなみにはまったく気がまわらなかった。髪が乱れていることにもようやく気がついたのだ。ささっと梳いてミドルヘアを整える。
その手が、途中でピタリと止まった。
「……」
なにかおかしい。
女性から悲鳴を上げられれば成仏できる。と言うならば、ひどく簡単なことではないのだろうか。なぜそんな簡単なことも出来ずにいるのだろうか。
あの「むううぅぅん」と呻って実体化する、アレ。
アレをやって、ガラスでもなんでも叩き割って、側にいる人を驚かせてしまえばいいのだ。とても簡単なことだ。
自分ならそうする。
「……いや……それじゃ、だめなのかな」
鏡の中の彩音の瞳が、再び鋭くなった。
勝也は言っていたのだ。
『僕の姿をハッキリと認識した女性が、きゃああああ、と、まるで変質者にでも出会ったときのような、本気の悲鳴をあげてくれれば、僕は成仏――』
つまり、『彼のことを認識できる人間』でなければならないのだ。彼を認識できる人間が悲鳴を上げないと、意味が無いのだ。勝也がところ構わずにガラスを叩き割ったとしても、だめなのだろう。
彼を認識できる人間。
それはつまり、
「……私?」
勝也は、あてがある、と言った。
その『あて』とは、ひょっとすると自分のことではないのだろうか。
そして、タイミング的にも今は『機』だ。誰もいないというトイレ。都合の良いシチエ―ションだ。
彩音は突然、怖くなった。
「……いやいや、だってここ、女子トイレだし……」
彩音は頭をぶんぶんと左右にふった。
考えすぎだろう。
いくらなんでも考えすぎだ。ここまで侵入してくるわけがない。そこまでのバカな幽霊だったのならば、心の底から軽蔑する。
それにだ。
もしも彼に、本気で驚かせたい特定の相手がいるのだとしたら、その相手に向かって「あてがある」などと伝えて警戒させるわけがないのだ。
仮に、その相手が自分だとする。
自分は今、完全に警戒してしまっている。彼がそんな間抜けなことをするだろうか。いや、彼ならばそんな間抜けなことをしてしまいそうだ。もしかするとわざとなのだろうか。こうやって警戒させることに、なにが意味が……。だとするならば勝也の思うツボでは……。
「……」
彩音は、完全に疑心暗鬼になってしまっていた。
ごくり、と喉を鳴らしてから、くるっ、と後ろをふり返った。
トイレには空っぽの個室が並んでいるだけで、誰もいない。
なんとなく気になってしまい、個室の中を一つ一つ調べはじめる。やはり、誰もいない。念のために掃除用のロッカーも確認する。空のバケツに雑巾がかけられ、二本のモップ、二本のほうきが立てかけてあるだけで、人の姿などはない。
ふう。
と安堵の吐息をついて、
「もういいや、考えるのやめておこう」
と呟いた。
考えれば考えるほどばかばかしくなってくる。「教室に戻ってごはんを食べよう」と思ったのだが、「せっかく来たのだから」と思い、彩音は個室の中へと入った。
その瞬間、彩音はぎょっとした。
遭遇してしまったのだ。
つい先ほどまでは居なかった場所。
まるで最初からそこにいたとばかりに、四〇代ほどのサラリーマン不審者――勝也は、便座の上で仁王立ちをしていた。
彼は大きな声で、
「わっ!」
と、両手を顔の前で広げながら言った。
「――っ!」
彩音は引きつった顔を浮かべながら、腰を抜かしてへたり込んでしまった。
驚いたというよりは、ドン引きだった。