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提案

 彩音が廊下を歩いてほどなくすると、サラリーマン風の男が隣に並んで来た。

「ひどいじゃないか。僕の成仏を邪魔するなんて」

 と言うわりに、彼の口調には不満そうな様子がない。

 真冬だというにも関わらず、半そでのワイシャツ、グレーのズボンという軽装で、とことこと歩いてやってきた四〇代ほどの男――不審者幽霊――は、頭をぽりぽりかきながら「まぁ、僕も悪かったね、すまんすまん」と謝った。

 しかも彼は、お尻をボールペンで刺されたダメージからも、すでに回復しているようだった。さすがは幽霊といったところなのだろうか。肉体的にも精神的にも、『俗な苦しみ』からは解放されているのだろう。

 ただ、その様子があまりにも、軽い。

 全体的に軽すぎる。

 彩音はというと、そんな『軽装』にして『陽気』な男とは、なにもかもが対照的だ。

 紺のブレザーで全身を覆い、スカートの下には黒のタイツを穿いて外気をシャットダウン。寒さから身を守る温かな服装にして、彼女の全身からは、濃密な『怒気』がゆらゆらと立ち上がっている。

 いや、怒気と言うよりはむしろ、殺気。

「彩音さん、そんなに怒らないでくれよ」

 と、男はあくまでも軽い口調で喋る。

 現在二人は、四階にある廊下を歩いているところだった。授業中の一年二組を通り過ぎ、一年一組へとさしかかる。教室の扉は閉まっているが、彩音はまだ喋るわけにはいかない。なにしろもう一人は、自分にしか姿が見えない『幽霊』なのだ。誰かに目撃されてしまえば、ぼそぼそ独り言をいっている怪しい女子高生になってしまう。

 だから彩音は――、

 ぎろっ、と隣の幽霊を睨みつけた。

 ところがその幽霊。まったくひるむ気配がない。

「あー、そうそう、魔が差した。それだよ。うっかりすっかり魔が差した」

「……」

「僕はね、あの子の胸に目がくらんだわけじゃないんだ。天国に行きたかっただけなんだ。つけ加えて説明しておくと、天国っていうのは比喩的な意味じゃないんだよ? 『胸の楽園』とか『桃源郷』とかそういう意味の天国じゃなくって、正真正銘の……ぷっ、あっはははは、自分で言ってて笑っちゃった。だってどっちの天国がいいのかって話になるとさ、正直なところバスト・パラディーソも魅力――」

 一人で喋り、一人で笑う男の幽霊に、彩音は少しだけ気持ちがげんなりとしてしまった。

 やがて二人は廊下の角を曲がり、図書室の前へとやってきた。

 彩音は足を止めなかったが、口を動かした。

「私はっ」

 と大きな声を出しかけてしまったが、歩きながら、なるべく小さな声で続けた。

「……私は、怒ってるというよりはむしろ、軽蔑しているんです」

「どうして?」

 と男は、悪びれもせずに飄々と返事をした。

「……あなたは朝に、犯罪みたいなことをしない、と言いました。ロリコンでもない、とも言いました。あれはなんだったんですか。自分自身であっけなく否定して。そんな軽薄な人、信用できる訳ないじゃないですか。私は呆れているんです」

「耳が痛いなぁ。その通りだ。でもさ、僕だってこんな生活になって長いんだよ」

「……」

「いい加減に成仏したいんだ。その気持ちだけは、ずーっとあるんだよ」

「……」

 ふう、と呆れたようなため息をついてから、彩音は立ち止まった。トイレの前までやってきてしまった。

 それに合わせて、不審者幽霊も立ち止まる。

「……幽霊になって長いっていうことは、何年か、そうやっているんですか?」

「たぶん、二〇年くらいかなぁ」

 彩音は言葉を失った。

 二〇年。二〇年だって!?

 なんとなく訊いただけの質問に、とんでもない答えが返ってきた。 

「……長いんですね」

「そうだねえ。きっと、君が生まれるよりも前の話だね。僕にも家族がいたんだけど、あー、どうして僕は先に死んじゃったんだろうなぁ。僕の子どもだって、もうとっくに成人しているのに」

 男は、訊いてもいないようなことを勝手に喋るのだが、聞き捨てならないようなセリフだった。

「まさか、あなたは、自ら望んで死んだんですか……」

「違う違う。死にたくて死んだわけじゃないんだよ?」

「そうだったんですか。事故かなにかですか?」

「そう事故。さび付いた非常階段を歩いているときにね、金具が、がこーんっ! て壊れてまっさかさま。しかも運の悪いことに、先端のとがった鉄の――、さらにはコンクリート――、気がつけばぐっさりぱっかり――、だめでせう、とまりませんなって感じで――」

 具体的に説明しはじめた。

 血の気が、さーっ、と引いていくほどの生々しい話だった。

「……ううぅ」

 と、思わずこぼしてしまったうめき声も、男の耳には届かなかった。

 彼の説明は、凄惨をきわめた。

 なるべく表情には出さないように努めた彩音だったが、胸中ではだらだらと冷汗をかいていた。「とんでもないことを訊いてしまった。ああ、訊かなければよかった。バカバカバカバカ、私のバカ」と深く後悔。

「――というわけで、たかだか二メートルの高さがあれば、人って死んじゃうんだよ。だから彩音ちゃんも気をつけてね」

「……はい。……気をつけます」

 彩音は、素直な気持ちで返事をした。

 いつのまにかイライラしていた気持ちも、しゅん……、と萎えてしまった。説教をするつもりでいたのだが、そんな気持ちも霧散してしまう。

 もしかすると彼は、そんな効果を期待してわざと喋ったのだろうか。と彩音は一瞬疑ったが、そういうわけでもなさそうだった。

 この男は単純に、「人と喋ることが楽しい」だとか、「自分の話を聞いてもらえるのが嬉しい」だとか、そのくらいのことしか考えていないのだ。悪計を働かせているときの話し方ではない。にこにこと楽しそうに笑う様子から、生き生きと喋るその口調から、彩音は察した。

 ――人生の先輩としての忠告。今はそういうことにしておいてやる。

 と、彩音は負け惜しみのようなこと胸のうちで呟いた。

「まあ僕の死因なんてどうでもいいんだ」

「……どうでもいいんですか?」

「とにかく僕は今、テンションが高くて高くてしょうがないんだよ。僕のことを見える人なんてめったにいないからね。君みたいな人に出会えて嬉しいっていうのもあって、頭がハッピーパラダイスになっちゃったのかな? 先ほどのもつい、はしゃいでやっちゃっただけなんだよ。レッツ成仏、やっぱりハッピッパー! みたいな感じでさ。あっははは」

 彩音は頭痛を覚えた。

 片手をおでこに当てながら考える。

 この男はひょっとすると、頭の中で幻覚作用のあるキノコでも栽培しているのだろうか。

 脳内麻薬によって年がら年中ハッピー。警察もお手上げだし、お医者さんもお坊さんもお手上げだ。まして、自分のような女子高生にどうこうできる話ではない。

「……ほどほどにしてください。なんだかもう、ハイテンションというよりはいけないお薬をきめちゃってハイになっている感じです。怖いです」

「ははははっ、いやぁ、まったくその通りだ」

 彩音は、「はぁ…………」と、重くて長いため息をついてから、サラリーマン風の不審者幽霊を見た。

 彼は、ワイシャツのあいだで腕を組み、屈託のない顔で笑う。

 その姿はなんとなく、彩音の脳裏で、父親と重なって見えてしまった。「お父さんと、だいたい同じくらいの歳なんだな」と改めて思った。

 次いで、彩音は視線を辺りにめぐらした。

 人の気配はどこにもない。トイレと階段が見えるだけだった。

「……あの、不審者さん。あなたの名前は?」

勝也(かつや)だよ」

「勝也さん、私がなんとかしましょうか?」

「なんとか、とは?」

「……だから、私の胸じゃ、足りないかもしれないですけど。……七秒間くらいだったら、貸しますよ」

「は?」

 勝也は頓狂(とんきょう)な声をあげた。

 その口調は、はぁ? というよりはむしろ、っは!

 何を言い出すんだこのアホは、とか、お前程度の胸で満足できる訳ないだろう、とでも言いたげな不満そうな顔つきで、彼はまじまじと彩音を見た。呆れているのだろう。その証拠に勝也は、彩音の胸をしげしげと見つめながら眉根を寄せている。

 ――こ、このバカ不審者! もう知らない! どこかへ消えて!

 思わず言いそうになってしまったが、彩音はギリギリのところで我慢した。くるっ、と背中を向けて、ブレザーの胸のあたりを腕で隠し、続きを喋る。

「だ、だから、私、自分でもよく分かっているんです。私は由香ちゃんのように大きな胸じゃないです。そういうレベルじゃないっていうことを、自分でもよく分かっています。でも、もしかしたら、なにかの間違いで勝也さんは成仏できるかもしれないと思ったんです。試す価値はあるかもしれないと思ったんです」

「……」

「……」

 沈黙。

 彩音は、またしても言ってしまってから後悔した。

 なにを口走ってしまったのだろう。いまの自分の頭はまともではない。狂ってしまった。勝也のハッピーパラソルだかハッピーポイズンだかは分からないが、そんなものに長くあてられてしまったせいなのかもしれない。ああもう、どこか別とのころに行ってくれたらいいのに。この薬中幽霊。

 彩音は悪態をつかずにはいられない心境になった。

 しかし裏腹では、「この男を助けてやりたい」という気持ちも、わずかに存在しているのだ。

 成仏したくてもできないという二〇年間の苦痛が、たったの七秒間で報われる。ならば、安いものではないのだろうか。そんなことを考えたのだ。

 いや、安いもなにも、そもそも彩音は、自分の胸に価値があるなどとは、思った事がない。

 体育のときには揺れてしまって恥ずかしいし、夏場はとくに苦痛だった。色々な意味で。こんなものでも人の助けになるのならば……。いやいや、だからってどうして自分が……。

 彩音の脳内では、さまざまな葛藤が繰り広げられた。

 それを見透かしたかのように――、

「殊勝な心掛けだねぇ。自己犠牲ってやつかなぁ」

 勝也はいけしゃあしゃあと言いながら、彩音の正面へと回りこんだ。

「――っ!」

 なんとなく身の危険を感じ、びくっ、と怯えて縮こまってしまった彩音に対し、勝也はあくまでも余裕のある表情で言う。

「ありがとう。その気持ちだけで充分だよ」

「……そうですか?」

 彩音は胸中で、ほっ、と安堵の吐息をついた。だが、その腕は胸を隠したままでどかせない。

 勝也は、なにやら自信のある口調で喋る。

「なにより今日の僕には、まだあてがあるんだよ」

「あて……ですか?」

「そう。だから、すべてのあてがなくなってしまったら、そのときは君の胸を貸してもらおうかなあと思うんだが」

「……わたしの胸は、物じゃないんですけど」


 それから彩音は適当に時間をつぶし、教室へと戻って授業を再開した。

 すでに先生やクラスメイト達は、さきほどのポルターガイスト現象から立ち直っているようだった。少なくとも表面上は。

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