不審者ゴーストとの遭遇 2/2
ハァハァ、と息を切らせながら不審者幽霊は、金魚の餌のボトルをそっと置いた。
そして七秒が経ち、彼の『実体化』が解けた。
あとはいくらボトルを掴もうとしても、すか、すか、と空をきってしまうようだった。
「ね? そういうことなんです」
と、ひと仕事をやってやったとばかりに、疲労の滲んだ顔つきで、不審者は笑った。
「ふうん……そうなんですか」
「えっ? 彩音さん、あんまり驚いてない?」と不審者は、肩透かしを食らってしまったような声をあげた。どことなく寂しそうな声だった。
それから彼は、ぼそぼそと自信もなさげに、つけ加えて説明をした。
どういう理屈なのかは彼自身にも分からないが、「むうううん」と唸って気合をチャージ(?)することで、『実体化』できるらしい。
ただ実体化をしても、結局は、だれの目にも映ることがない。
なにをどう頑張っても、人の目に触れることだけはできないようだった。
だから彩音のように、自然に『視えてしまう』ような人間は、とても貴重な存在だと、彼は、そんなことを言った。
彩音は、極めて冷たい口調で答えた。
「いやもう、なんというか、どうでもいいのでさっさと成仏してください」
「つ、冷たいね。最近の高校生は。仮にも僕、金魚を助けてあげたのに」
「……あっ」
窓際の最前列でイスに座って彩音だったが、ハッ、として立ち上がった。そして水槽の前に突っ立っている不審者へと、深々と頭を下げた。
「そうでした。それに関しては、ありがとうございました」
「……おお、どういたしまして。ふんふん。ちゃんとお礼を言えるタイプの子だね。気に入っちゃったよ」
「ありがとうございます。でも色々な意味で怖いので、さっさと成仏してください」
「……」
「……」
ふいに沈黙が訪れてしまい、彩音は、「あれ?」と少しだけ驚いて男を見た。もしかすると言い過ぎてしまったのかもしれないと思った。
内心で反省。
サラリーマン風の不審者は、うーん、となにかを考え込むようにして腕を組んでいる。
やがて彼は、
「あの、彩音さん」と呼びかけた。
「はい。なんでしょう?」
「僕もね、さすがに、前々からずっと、成仏したいなぁと考えながら、現世をさまよい続けてきたんだよ」
「そうなんですか? しようと思っても出来ないんですか?」
「簡単には出来ないっていうだけなんだ。ただ、女性の協力があれば簡単に出来るけど」
女性の協力があれば簡単。
剣呑なセリフだった。「いまが引き際だろうか」と彩音は思った。
「そうなんですか。それじゃあ頑張ってください」
「あ、あれぇ? 訊いてくれないのっ?」
訊きたくないんですよ! と言いそうになってしまったが、彩音は無表情で口を開く。
「……ええと、本当に、訊きたくもないことなんですけど。女性は、どんな協力をすればいいんですか?」
「うん。悲鳴をあげてくれるだけでいいんだ」
「……は?」
「だから、僕の姿をハッキリと認識した女性が、きゃああああ、と、まるで変質者にでも出会ったときのような、本気の悲鳴をあげてくれれば、僕は成仏することができる。ポイントは、本気の絶叫だ、というところだね。演技ではだめ」
「そうですか。気持ち悪いのでさっさと成仏してどこかへ消えてください」
「つ、冷たいことを言うね……」
「すみません。でも私には、協力できそうにないですよね? いまさら本気の絶叫なんて、できる訳がありません。演技くらいならできますけど」
「……」
返事ができなくなってしまった男へと、彩音は再び、ぺこり、と頭を下げた。
そして椅子へと座り直す。正面を向いて、コップのお茶を手に持ち、口に含んだ。
飲める程度にはぬるくなっていた。ゆっくりと口のなかに流し込むと、お茶の素朴な風味がして、心が少しだけ落ち着いた。手の震えもおさまっているようだった。
「そうかぁ。僕の姿を見える人間なんて、久しぶりだったんだけどなぁ。でも、驚けないんじゃあ、仕方ないよね」
背後から、軽い調子の声が聞こえた。
残念がっているような口ぶりではないのだが、彩音はちょっとだけ決まりの悪い顔になってしまった。自分の反応次第では、この男は成仏できたということなのだ。
彩音はブレザーの内側、ブラウスにくくりつけてある赤のリボンをなんとなく指でいじり、くるっ、と背後をふり返る。
「あの、やっぱり、私以外の人には、見えないんですか?」
「そうだなぁ。たまーに。本当にすっごくたまーに、僕の姿を見える人も現れるんだけど、やぱり、珍しいからねぇ」
「じゃあ、成仏って、簡単にはできないんですよね?」
「もう一つ方法があるんだよ」
「もう一つ?」
「そうなんだよっ!」男は突然叫んだ。
彩音は驚き、ぎゅっ、と目を閉じ、びくっ、と肩をすくませた。
いちいちこの男は心臓に悪い。
またしても彩音の心拍数は上昇。
腹立たしい。この男にも腹立たしいし、臆病な自分にも腹立たしい。彩音の表情に、怒気が浮いた。
「……ちなみに、もう一つって、どんな方法なんですか?」
ドスを効かせた声で言った。
「僕はね、女の子の巨乳に顔をうずめることができれば、満足して成仏することができるんだよ」
思わず彩音は、「いいから死ね」と言いそうになってしまったが、ぐっとこらえた。もうとっくに死んでいる。この男には効果がない一言だろう。
そのかわりに、別のことを言う。
「あの……、それが本当だとするならば、あなたが本気を出せば、成仏くらい簡単にできますよね?」
「え? 僕が本気を出したら簡単に? どうして」
「だから! さっきの、ふううううん、って気合を溜めるあれ。あれをやって実体化して、巨乳でも、巨木でも、切り株でも、どこにでも顔をつっこめばいいじゃないですか! すぐに成仏できるはずですよ!」
「なにを言ってるんだい? それが出来ないから僕は困っているんじゃないか?」
と、男はバカを見るような瞳で言った。
彩音はカチンときたが、辛抱強く話に付き合うことにした。
「だからっ……、ああもう! あなたは『簡単にできる』って言いましたよね? 私もその通りだと思います。その『能力』があれば簡単にできるはずです。あなたの姿は誰にも見えないんですから! 女性の胸でもなんでも、勝手に飛び込んで成仏すればいいじゃないですか!」
「彩音さん、僕の言葉をよく思い出してくれよ。僕は、『女性の協力があれば』、と言ったんだ。協力してくれない女の子の胸に勝手に飛び込んでしまったら、犯罪じゃないか。僕は犯罪者になりたいわけじゃないんだよ」
「……そうですか。じゃあ、許可をくれる誰かが見つかるといいですね。さようなら」
と彩音は冷たく言い放ち、前を向いた。
もうこれ以上話しても時間の無駄だろうと思った。手におえない。
彩音は机の上に置きっぱなしだったコップを手にとり、お茶を飲む。先ほどよりもぬるくなっていた。口の中へと一気に流し込む。
するといつの間にか接近していた不審者が、彩音の目の前へとまわりこんだ。
ぶっ!
とお茶を噴いてしまったが、そのしぶきは全て、不審者の身体をすり抜けて向こう側へと飛んで行ってしまった。
「ふんふん。なるほどね」と四〇代ほどのサラリーマン不審者は、なにか物色するような瞳を、彩音の胸元へ向けた。
「なっ、なんですかっ!」
彩音は反射的に身をすくめながら、ばっ、と両腕で胸を隠した。
コップが地面に落ちて、カラカラッ、と音をたてて転がった。
「ああ、いいのいいの。べつに隠さなくても。きみが気にすることじゃないから」
「あんな話を聴いたあとで、気にするなっていわれても無理な話ですっ!」
「はぁ? だから、僕の話、ちゃんと聞いていたのかな? きみが気にすることじゃないんだよ?」
またしてもバカを見るような瞳で言った。
男は、やれやれ、とでも言いたげに、わざとらしく両肩を持ち上げてみせた。
「な、なんなんですか……」
胸を隠したままの彩音は、虚勢をはるようにしてギロリと男を睨みつけた。
すると男は、嘲笑するような顔つきで言う。
「だから僕、ロリコンじゃないって言ったでしょ? それに彩音さん、高校生にしてはちょっとは『ある』みたいだけど、そこまで大した胸じゃ――」
「死ねバカ変態!」