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「は?」

 雑音が取り巻く(やかま)しいオフィスの只中で、だらしなくシャツを着崩した顎髭の男が声を上げた。

「……『ノーザン・メーンヒル・ハイスクール事件』の資料だと?」

 水色のシャツの裾をスラックスに入れずにはみ出させた顎髭は、電話の向こうへ苛立ち混じりに訊き返す。

「なんでニューハンプシャー州のあんたらがメーン州の北の北の事件に首を突っ込むんだ!」

 険しい顔を受話器に反射させる顎髭は、首から紺と銀とが斜めに走るストライプ柄のネクタイを締めていた。しかしそれもやはり、居所なさげにだらりと垂れている。

 ネクタイの中腹に付いた鈍く光るタイピンだけが、顎髭の整わない身嗜みに反して清廉さを残していた。そこにはアメリカ陸軍のインシグニアが記されている。

「……ああ。ああ、………ああ。……はあ? ………ああ、ああ。何を言ってるんだ、それは………わかった。……話を通しておこう」

 がちゃ、と乱暴に受話器を叩きつけて顎髭は大きな溜め息を()いた。散らかったデスクに両肘をついて俯く。

「どうした? 隣州からだったみたいだが……やけに荒れてたじゃないか」

 顎髭の背中から声が掛かった。顎髭の頭がのそりと持ち上がる。

「ああ……どうも」

 顎髭を覗き込んでいたのは灰色のカジュアルスーツの男だった。手にはマグカップが握られている。

「いえ、それがですね、ニューハンプシャー州警察がノーザン・メーンヒル・ハイスクールで起きた無差別殺人の資料を渡せって言ってきてまして」

「あの事件か。たしか、おまえも担当してたんだっけか?」

「え?」

「ほら、先月だったかその事件の詳細資料を請求して、なんかやってなかったか」

「……ああ、ええまあ。自分は途中から捜査に参加したので、詳細な資料が入り用でして」

 顎髭が額に浮かんだ汗を、(まく)ったシャツの袖で拭った。

「で、なんでまたニューハンプシャー州がその事件を?」

「……なんか、大掛かりな捜査になるとかで……ニューヨークの州警察から合同捜査の通達があったそうです」

「ほう? そんな話は聞いてないが」

 顎に手を当てて首を傾げるマグカップに、

「……そう伝えたんっすがね。とにかくよこせの一点張りでして」

「署長はいつの間に判子を押したんだろうな」

「わかりません」

 ぼやいて、顎髭は椅子から立ち上がった。

「そもそも、あの事件は何人か容疑者が上がったものの……全員証拠不十分で八方塞がりだったはずだろう」

「………そうですね。容疑者の一人の青年が西に逃げたって情報も、有力ですが」

「ん? そいつは聞いたことがなかったな。そいつの名前は?」

「………セージ・タッシュ Jr. 」

 言うと同時、顎髭の目になにか、どんよりしたものが現れた。曇ったような眼光がマグカップへ向けられる。

 二人の間に薄暗い沈黙が(わだかま)り、

「変わった名前だ」

 じゃあ頑張れよ、とだけ残してマグカップは顎髭に背を向けた。

 返事はなかったが、様々な会話が煩わしく飛び交う警察署内だ。マグカップは気に留めなかった。



 オフィス区画を出てタイル張りの廊下に辿り着くと、マグカップは手に湯気を持ったまま突き当たりを左に曲がる。

「警部補」

 そこで、後ろから来た男に呼び止められた。手入れを渋ったのか、口元には不精髭が見え隠れしている。

「おっす。徹夜か?」

「ええ。ガキが朝まで騒いでるから、補導も大変でして」

「そっちの部署に回らなくて正解だったよ」

 マグカップが苦笑した。

「ところでいま、誰と話してたんです?」

「ん。いやなに、『ノーザン・メーンヒル・ハイスクール事件』の担当とちょっとな。ニューヨークの州警察なんかと、合同捜査が始まるらしい」

「? はあ、そうなんですか」

 無精髭は眉を(ひそ)めた。

「珍しいよな。……なんだ。おまえ、まさか『ノーザン・メーンヒル・ハイスクール事件』知らなかったのか?」

 小馬鹿にするようにマグカップが訊くと、

「いえいえ、そんな。知らないはずないでしょう。……でも、あの顎髭は知りませんね」

「……どういうことだ?」

「確かにここには、地方の署から引き継いだその事件の対策本部があります。人数もかなりいるから全員の顔なんて覚えていませんけど……少なくとも、さっきの男は所属していませんでした」

「……なんだと?」

 マグカップは後ろを振り返ったが、人の塊に掻き消えて顎髭の姿は映らない。

「自分は今まで、ここのオフィスで彼を見たことがありません。彼の名前は?」

「知らんな」

「では……所属と階級は?」

「さあ……。俺は普段、こっちの方に来ないしな」

 マグカップと不精髭は慌ただしい平常のオフィスへ向き直り、揃って呟いた。

「あれは誰だ?」

 メーン州に州警察があるらしいことはわかったのですが、部署や階級制度など、詳しいことはわかりませんでした。

 よって、本文中での階級の呼称はアメリカで一般的なものを採用しました。

 ご理解ください。


 それでは引き続き、『優しい殺し屋たちの不思議な事情』をお楽しみください。



桜雫あもる

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